第16話 お代と帳面
ザイデル侯爵は、看板の前で足を止めた。
上の行を読み、下の小さな字を読む。それから、左の頬に当てた絹の布を外した。口の端が、少し下がっている。
「これを解け」
左の頬から顎にかけて、見覚えのある黒い糸があった。新しい帳面の六番。林で隊長さんからお返ししたものだ。
「ご依頼でしたら。こちらへおかけください」
私は、腰かけの端を払った。アンナさんが昼間、茶菓子を並べていたところだ。砂糖のかけらが一粒、板の隙間に落ちている。
侯爵は腰をかがめかけて、私の腰の袋を見た。
「それも、こちらへ」
「帳面でしょうか」
「ほかに何がある」
「財布と、櫛が入っております」
後ろの護衛が、一度まばたきをした。
侯爵は座らずに、手を出したままでいる。指にはまった大きな石が、茶屋の灯りを受けて光った。
「黒い帳面だ。王家にお仕えしていた間の記録を、勝手に持ち歩くことは許されん」
「帳面は、お渡しできません。おかけになりますか」
勧めた腰かけを、もう一度示す。
横で、マリエラさんがアンナさんに何か耳打ちした。アンナさんはうなずき、客の湯呑みを盆に集める。マリエラさんは空いた腰かけを店の奥へ引いた。腰かけにいたおじいさんが、杖を持ってそちらへ移る。
護衛が茶屋の軒に入ってきた。剣の鞘が、戸口の柱にこつんと当たる。
「この村で何を商っているかは知らんが、王家の用事が先だ。殿下のお許しも得ている」
「帳面を渡せという、書面はお持ちでしょうか」
「殿下のお言葉を疑うか」
「解任のときにも、書面をいただきましたので」
侯爵の伸ばした手の下を、川から吹く風が通った。看板が傾いたので、私は足で押さえなおす。
「書面がありましたら、拝見いたします」
侯爵は、外套の内側へ手を入れた。
出てきたのは、二枚目の絹の布だった。一枚目を握りつぶし、新しいほうを頬へ当てる。
「……お前が、あの兵に何をしたかも聞いている」
「六番を、お返しいたしました。三年前の冬、隊長さん宛。『奥歯が痛め』です」
「ここで読み上げろとは言っておらん」
店の奥で、アンナさんが茶釜の蓋を置いた。
護衛が、侯爵のほうを見た。侯爵の顎がほんの少し動く。護衛は私の袋へ目を移し、片足を出しかけた。
渡し場にいた男の人が、こちらを見ている。茶屋のおじいさんは、茶菓子をかじるのをやめていた。護衛の足は、柱の横で止まる。
私は、腰かけに置いていた鞄を拾った。
「いま、陛下の使者のお返事を、こちらで待っております」
「使者?」
「クラウスさんです。閣下のご用向きも、一緒にお伝えしてよろしいでしょうか」
侯爵の口が開いて、閉じた。
私は鞄から新しいほうの帳面を出し、六番のところを開く。前に座るはずの人は、まだ立ったままだった。
「ザイデル侯爵閣下。お名前もお代も、帳面に書きますが」
「……その帳面か」
「こちらは、解任されたあとからのものです」
侯爵が頁を見ようとしたので、私は自分の膝に戻した。
「頬を拝見しても?」
返事がない。
川のほうで、櫂を小屋へ片づける音がした。もう、今日の渡しは終わっている。アンナさんは盆を抱えたまま、火のそばに立っていた。
「陛下のお返事が届くまで、わしをここへ座らせておくつもりか」
「歯の糸を解くのに、そこまではかかりません」
「その話をしているのではない」
「では、歯のお仕事は、どうなさいますか」
侯爵は腰かけをにらんだ。私が払った砂糖は、もう見えない。
「歯を治すだけなら、こんな所まで来た甲斐が――」
そこで、侯爵は頬を押さえこんだ。
続きを待っていると、マリエラさんが湯呑みを持ってきた。お茶の色はついていない。湯気が少しだけ上がっている。
「ぬるいお湯です。冷たいと、しみるので」
侯爵はマリエラさんの顔を見た。金色の髪を見て、灰色の袖を見て、湯呑みを見る。
「……聖女が、茶屋の給仕か」
「先生の助手です。こぼさないように、お持ちください」
侯爵は右手で湯呑みを受け取り、一口だけ飲んだ。左手の布は、頬から離れない。
私の膝の上では、帳面が開いたままだった。六番の処置の欄には、林でお返しした日のことだけが書いてある。
「帳面の話は、終わっておらんぞ」
湯呑みを護衛へ渡し、侯爵は馬車へ戻った。護衛は空いた腰かけに湯呑みを置いて、あとを追う。
御者が振り返った。
「今夜も進まれますか」
「王都へ戻る。馬を替えられる所まで出せ」
扉が閉まった。来たときと同じ西の街道へ、馬車が向きを変える。護衛の馬が続き、車輪の音が遠ざかっていった。
私は、何も書き足さずに帳面を閉じた。
マリエラさんが腰かけを元の場所へ戻すと、おじいさんも戻ってきた。途中まで食べた茶菓子を、ちゃんと持っている。
「治さずに帰っちまったねえ」
アンナさんが、湯呑みを下げる。
「はい。まだ、お頼みいただいておりませんので」
「お湯のお代も、置いていかなかったよ」
マリエラさんが、空の湯呑みを見た。
「次は、お茶にします」
◇
クラウスさんが着いたのは、茶屋の火を落とす少し前だった。
今日は濡れていない。代わりに、外套の裾が土で白くなっている。馬をつなぐと、まず私たちの顔を確かめた。
「お待たせいたしました」
「おかえりなさい。お返事は、いかがでしたか」
クラウスさんは、懐から油紙の包みを取り出した。今度はご自分で封を切らず、私の前に差し出す。
「宛名を、ご確認ください」
呪い返し屋、ノエラ・カーヴェル。
私の名前の前に、いまの仕事が書いてある。紙の端を、指先で押さえる。街道の土は、ついていない。
中には、陛下の診察と呪いの処置を依頼したいと書かれていた。範囲とお代は、会ってから決める。往復の馬車は王家で用意する。帳面を差し出せという文言は、見当たらなかった。
最後まで読んでから、もう一度、宛名を読む。
「お受けいたします」
クラウスさんは、息を長く吐いた。
「迎えの馬車は、今夜は手前の宿におります。明朝、こちらへ回します」
侯爵が来たことを伝えると、クラウスさんは手帳を開いた。帳面を求められたことも、殿下のお許しがあると言われたことも、そのまま書いていく。
「お湯を一杯、召し上がりました」
そこまで書くのかと思ったが、クラウスさんの鉛筆は止まらなかった。
アンナさんが、明日の朝に持たせる包みを作りはじめた。今朝、ペーターさんの袋に入れたのと同じ、丸いパンが二つ。
「仕事へ行くんだろ。朝、忘れずに持っておいき」
「ありがとうございます」
私は二冊の帳面を鞄に収めかけて、古いほうを残した。
依頼状の下には、陛下の署名がある。大きな、よく整った字だった。最後の一画だけが、細かく震えていた。
「……お熱で、指が動かず」
私の見ているところに気づいて、クラウスさんが言った。
茶屋の灯りを少し近づける。
古い帳面の二百六十一番は、頁の下のほうにある。
私はそこを開いて、依頼状と並べた。
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