第15話 向こう岸
「……じゃあ、誰なんだよ」
ペーターさんの声が、少しかすれた。
私は、マリエラさんの見ていた結び目に、もう一度指をあてる。かた結びの上に、もう一度かた結び。指の太い人が、力いっぱい締めた癖だ。その癖の中に、名前が読める。
「送り主は、オットーさんという方です」
ペーターさんの口が、開いたまま止まる。
「……親方?」
「三月前の晩に、送られています」
ペーターさんは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり自分の足首を見おろす。
「……あの晩、親方に話したんだ。石工の紹介状が来たって。親方は、好きにしろって、そっぽを向いた。それだけだった」
好きにしろ。どこかで聞いた言葉だ。言った人が、ほんとうに好きにさせるとは限らない。
茶屋の奥で、腰かけのきしむ音がした。アンナさんが、座りこんでいる。
ペーターさんは、振り返らない。振り返れないのだと思う。三月、この人は母親と口をきいていないのだ。
「……おふくろ」
背中を向けたまま、ペーターさんが言った。
「……ごめん」
アンナさんは、返事をしなかった。代わりに、湯呑みに新しいお茶をついで、ペーターさんの横の腰かけに置く。三月前から毎晩そうしてきたような、慣れた手つきだった。
ペーターさんは、今度はその湯呑みを素通りしない。
「お返ししますか。解きますか」
私が聞くと、ペーターさんは湯呑みを握ったまま、少し考えた。
「……返してくれ。俺が、ちゃんとした石工になるまで」
「何年くらいでしょう」
「分からない」
ペーターさんは、湯呑みの縁を親指でこすった。私は、結び目に触れた手を止めている。
「その間、ずっと村を出られません。ペーターさんが忘れても、糸は残ります」
湯呑みが、膝の上に下りた。
「……明日の朝、俺を向こう岸へ運んだら、解いてやってくれ」
「一番の渡しが済んだら、ですね」
「それでいい。俺が降りるところを、見ててもらう」
「かしこまりました」
結び目ごと、裏返す。
太い糸はペーターさんの足首からはずれて、日の暮れた渡し場を横切った。渡しの小屋の、戸の隙間に吸いこまれていく。
小屋の中で、何か重いものが倒れる音がした。櫂でも倒したのかもしれない。
しばらくして、戸が乱暴に開く。オットーさんが、片方の足首を押さえながら出てきた。
「何をした」
「お返ししただけです。三月前の晩に、オットーさんがペーターさんに送ったものを」
オットーさんの顔が、赤くなって、それから白くなった。見物に集まりかけていた村の人たちが、顔を見合わせる。
「……解け。今すぐだ」
「明日の一番の渡しが済んだら、解くお約束です。そのとき、看板の前へいらしてください」
オットーさんは、ペーターさんをにらんだ。ペーターさんは、にらみ返しもせず、湯呑みのお茶を飲み干した。
「……明日、行くのかい」
アンナさんが、小さな声で聞く。
「行く」
◇
翌朝の一番の渡しは、いつもより客が多い。
村の人たちが、用もないのに渡し場に集まっている。茶屋の腰かけが、朝から足りない。ペーターさんが今日この村を出ることは、夜のうちに村じゅうに知れていた。
アンナさんは、壁に三月立てかけてあった布袋を、ペーターさんの肩にかけた。
「着替えと、親父の鑿が入ってるよ。それと、道で食べる分のパン」
「……知ってる」
「行っておいで」
三月前には、行かないでおくれ、と言った人だ。
ペーターさんはうなずいて、舟に乗った。マリエラさんが駆け寄って、リーデのりんごを一つ、袋の口に押しこむ。
漕ぎ手は、オットーさんだ。ほかに漕げる者がいないのだという。オットーさんは一言もしゃべらずに、ペーターさんを乗せた舟を、向こう岸まで漕いでいく。
こちらの岸から、みんなで見ていた。アンナさんは、前掛けの端を両手で握っている。
舟が、向こう岸に着く。ペーターさんは舟べりに手をかけたまま、しばらく動かなかった。三月のあいだ、そこで何度も回れ右をしてきたのだ。
それから、土手へ片足をかける。
足は、向きを変えなかった。土手の草が、靴の下でつぶれる。
もう片方の足も、土手を踏む。ペーターさんは、三月ぶりに、向こう岸に立っていた。
こちらの岸で、誰かが手を叩いた。つられて、何人かが叩く。
オットーさんが、舫い綱を杭にかけようとして、岸へ片足をかけた。
かけた足が、くるりと向きを変える。
もう片方の足もついていく。オットーさんは見事に回れ右をして、自分から舟の中へ戻った。
こちらの岸で、どっと笑いが起きる。
オットーさんは顔を真っ赤にして、もう一度、岸へ足をかけた。やはり、くるりと回った。櫂を握る手が、ぶるぶる震えている。笑い声が、二倍になる。昨日、ペーターさんを笑った人たちだ。昨日と同じ笑い声で、昨日より大きい。
向こう岸で、ペーターさんが振り返った。片手を上げる。アンナさんが、両手を振り返す。ペーターさんは柳の並ぶ土手を上がって、東の街道へ歩いていった。一度も、回れ右をしないまま。
アンナさんは、茶屋の腰かけに戻って、自分の湯呑みにお茶をついだ。布袋の立てかけてあった壁が、少し広く見える。
行っておいで、と、私は誰かに言われたことがあっただろうか。塔に来る前のことは、よく覚えていない。
肩の上で、鳥が、向こう岸のほうをじっと見ていた。鳴きはしない。
オットーさんの舟が戻ってきた。西の岸へは、普通に上がれる。足を二度踏みしめてから、看板の前へ来た。
「……渡しは、済んだぞ」
「はい。足を出してください」
腰かけに座ると、オットーさんはアンナさんのほうを見た。アンナさんは、布袋を置いていた場所を掃いている。オットーさんは何も言わず、ズボンの裾をまくった。
「先生。下の輪が、ここにあります」
マリエラさんが、結び目を指さした。指はまだ、触れずに止まっている。
「そうです。ここを引くと、二つとも締まります」
私は下の輪を押さえ、上の結び目を戻した。マリエラさんは、自分の指を同じように曲げて見ている。ほどけた糸が消えると、オットーさんは足首をさすった。
「……これで、向こうへ行けるんだな」
「次の渡しで、お確かめください」
オットーさんは、看板を横目で見た。
「代は」
「解いたお代も、いただきます」
銅貨を置く手は、茶菓子の紐を切ったときより、おとなしかった。
ペーターさんの分は、アンナさんがお茶の葉を一袋と、銅貨を少し包んでくれた。三月分のお茶だよ、と笑っている。私は帳面を開いて、二十四番を書く。三月前の晩、ペーターさん宛。『村を出るな』。送り主、オットーさん。昨夜お返しし、今朝、一番の渡しのあとで解いた。その下に、小さく書き足す。
『送り主の手の癖に、先に気づいたのは、マリエラさん』
マリエラさんは帳面をのぞきこんで、耳まで赤くなった。
◇
日が暮れかけたころ、西の街道から来た馬車が、茶屋の前に止まった。
黒塗りの、紋のない馬車だ。うしろに、馬に乗った男たちが何人かついている。御者が看板を指さすと、馬車の中から短い声がした。
馬車の扉が開いて、男が一人降りてきた。上等な外套を着て、左の頬を、絹の布で押さえている。外套の裾から、剣の柄がのぞいている。
「先生、あれ……」
男の目が、私の肩の上で止まった。
マリエラさんの声が、小さくなる。
顔は、よく覚えている。私の手は、腰の袋の上にあった。革越しに、黒い帳面の角が当たる。
大広間の最前列で、北の塔が空くと、いちばん大きな声で笑っていた方だ。
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