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【連載版】聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人


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第14話 回れ右

 

 東街道は、フルトの村で大きな川にぶつかる。


 橋はない。渡し舟が一艘、両岸を行ったり来たりしているだけだ。村は、こちらの岸にある。向こう岸の土手には柳が並んでいて、その先から、また街道が東へ延びている。


 川というものを、こんなに近くで見るのは初めてだった。水の音は、雨の音とも、塔の風の音とも違う。ずっと同じようでいて、同じ音は一度もしない。


 渡し場の札には、渡し賃が書いてある。私は財布を出して、銅貨を数えた。一枚ずつ、指で送る。マリエラさんが、横でうなずいた。


 もっとも、今日は渡らない。書面は、この村へ届けてもらうことになっている。それまで、ここで看板を出して待つ。


 渡し場のそばに、小さな茶屋があった。軒先に腰かけを二つ並べて、白髪まじりのおかみさんが湯を沸かしている。看板を置かせてほしいと頼むと、おかみさんは看板の文字を読んで、少し困った顔で笑った。


「呪いを返す、ねえ。……ほんとに返せるのかい」

「もう届いてしまった呪いでしたら」

「届いてるやつなら、返せるんだね」


 おかみさんは、川のほうをちらりと見てから、うなずいた。


「……いいよ。どうせ客も、渡しを待つあいだしか座らないし」


 アンナさんという名前だった。出してくれたお茶は、塔で飲んでいたものより、ずっと濃い。


 マリエラさんは、湯呑みを運ぶのを手伝いはじめる。気がつくと、もうアンナさんと並んで腰かけて、茶菓子の値段の話をしていた。私が看板の角度を三度直すあいだに、ご主人を五年前に病で亡くしたこと、息子が一人いること、その息子が渡し舟の漕ぎ手をしていることまで、マリエラさんは聞き出している。


「あれが、うちの子だよ」


 アンナさんが、川のほうを顎で指した。


 渡し舟が、ちょうど向こう岸に着くところだ。漕いでいるのは、肩幅の広い若い男だった。客が一人、荷物を抱えて岸へ上がる。若い男が、それを手伝おうとして、岸へ片足をかけた。


 かけた足が、くるりと向きを変える。


 もう片方の足もついていく。若い男は見事に回れ右をして、自分から舟の中へ戻った。客が、しかたなさそうに一人で荷物を引きずっていく。


 こちらの岸で渡しを待っていた人たちが、どっと笑った。


「またやってるよ、ペーターのやつ」

「今日で何回目だ」


 アンナさんは、笑わない。


「三月前から、ああなんだよ。向こう岸に、足がつけられない」


 舟がこちらへ戻ってくるあいだに、アンナさんは話してくれた。


 ペーターさんは十九になる。この春、川向こうの町の石工の親方から、弟子に来ないかと声をかけられた。紹介状が届いたのが、三月前だという。


「行くって言うから、あたしは泣いたよ。この家に、あたし一人になるんだからね。行かないでおくれって、つい言っちまった」


 アンナさんは、茶屋の奥の隅に目をやった。布の袋が一つ、壁に立てかけてある。口がきちんと縛ってあった。


「泣いたくせに、荷物は詰めてやったんだよ。あの子の着替えと、親父の形見の鑿と。……それっきり、三月あそこに立てかけたまま」

「息子さん、石工になりたいんですか」


 マリエラさんが聞くと、アンナさんは少し笑った。


「小さいころから、川原の石ばっかり拾ってくる子でね。亭主の鑿を持ちだしちゃ、石に自分の名前を彫ってたよ。叱っても叱っても」


 舟が岸に着いた。舟は日に十何度も川を往復する。そのたびにペーターさんは、向こう岸で回れ右をしているのだろう。


 ペーターさんが舫い綱を杭にかけていると、渡し場の小屋から、腹の出た大柄な男が出てくる。腕も指も太い。


「ぼさっとするな、ペーター。次の客だ」

「……はい、親方」

「石なんか叩いて何になる。お前は川の男だ。この渡しは、お前がいなけりゃ回らんのだからな」


 それから、渡しを待つ客たちのほうを向いて、大きな声で笑った。


「向こう岸に足もつけられん奴が、石工になんぞなれるか」


 笑ったのは、親方ひとりだった。


 親方は、ペーターさんの背中をばんと叩いた。アンナさんが渡した茶菓子の包みを両手でつかんで開く。紐は切れて、足もとへ落ちた。


 マリエラさんは、その太い指を目で追っている。


 親方は、茶菓子を口に入れながら小屋へ戻っていった。渡しの親方の、オットーさんだという。


 ◇


 日暮れまでに、看板の前で足を止めた人が三人いた。二人は読んで首をかしげて帰り、一人は、お茶だけ飲んでいった。


 最後の渡しが終わったころ、ペーターさんが茶屋の前にやってくる。


 アンナさんが、黙って湯呑みを差し出す。ペーターさんは、その横を素通りした。アンナさんのほうは見ない。まっすぐ看板の前に立って、私を見おろした。


「呪いを返すってのは、あんたか」

「はい」

「おふくろの呪いを、おふくろに返してくれ」


 茶屋の奥で、湯呑みの触れあう音が止まった。


「拝見します。返すか解くかは、送り主が分かってから決めてください」

「おふくろに決まってる」


 ペーターさんは、吐き捨てるように言って、右の足首を差し出した。


 足首に、太い黒い糸が一本、ぐるりと巻いていた。結び目は、くるぶしの外側だ。かた結びの上に、もう一度かた結びを重ねてある。三月たっても、少しもゆるんでいない。無骨な結び目だった。


「三月前の晩、ペーターさん宛。内容は『村を出るな』です」


 ペーターさんの顎に、力が入る。


「……ほらな」


 茶屋の奥で、アンナさんが息をのんだ。


 私の手は、知らないうちに、自分の左の手首に触れていた。百九十七番の茨があったところだ。肩の上で、鳥が身じろぎをした。


 ペーターさんは、行こうとするたびに、足を戻されていた。私は今朝も、自分の足で礼拝堂を出てきた。鳥の羽に触れてみる。いつもの硬い棘が、指に当たった。


 結び目の癖を読もうとして、私は手を止めた。


 隣で、マリエラさんが、じっとその結び目を見ていたからだ。リーデで七本の糸をほどいてから、マリエラさんはよく、結び目をこうして見る。


「……先生」


 マリエラさんが、小さな声で言った。


「これ、お母さんの手じゃないと思います」


 ペーターさんが、マリエラさんを見た。


「……じゃあ、誰だってんだ」

「輪をつぶして、両側から引いてあります。指の太い人の結び方に見えます。アンナさんは、茶菓子の紐を結ぶとき、指先で端をそろえていました」


 私は、黙って結び目に指をあてた。


 マリエラさんの言うとおりだった。


「マリエラさん。読めたんですか」

「名前までは、分かりません。でも……」


 マリエラさんは、茶屋の奥を振り返った。アンナさんが、両手で口を押さえて立っている。


「私には、アンナさんの結び方には見えません」


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