第3話 光線【アイリス視点】
その日は、よく晴れていた。
午後のリュミエール院の中庭。芝のうえに寝そべって、わたしは空を見ていた。風の精霊が頬をくすぐる。あたたかくて、なんだか眠たい。
すこし離れたところで、セシルが本を読んでいる。日傘のかわりに、わたしが頼んだ風の精霊が、薄い影を作ってあげていた。
「セシルも、こっち来て寝ころべばいいのに」
「私は本を読んでいるの。君と違って、地面では読めないわ」
つれない返事。でも声はやわらかい。わたしはくすくす笑って、また目を閉じた。
しあわせだ、と思った。
なんにも起きない午後。セシルがそばにいて、精霊がそばにいて、それだけで足りる。これがずっと続けばいい。ずっと、ずっと。
そのときだった。
精霊たちが、いっせいに、悲鳴をあげた。
声じゃない。空気の震えだ。頬をくすぐっていた風が、ぶわっと逆立って、わたしから離れていく。火の気配も、水の気配も、いっせいにこわばって、わたしの背後を見ている。
わたしは飛び起きた。
中庭の入り口。逆光のなかに、人影が立っていた。
豪奢なドレス。きっちり結い上げた髪。薔薇。
あの人だ。柱のかげの、煮つめた目の。
その手に、なにか黒いものが握られていた。
古い金属の、いびつな筒。表面に、見たこともない文字が、赤く脈打っている。
「セシル」
わたしが名を呼ぶより早く、セシリアが立ち上がっていた。本が芝に落ちる。
「アイリス、下がって──ロザリンド・ヴァレンフェルト、それを下ろしなさい」
セシルの声が、こんなに鋭いのを、はじめて聞いた。
でも、その人は、止まらなかった。
ほんのすこし、口の端を持ち上げて。あの、知っている笑い方で。
筒の先が、わたしのほうを向く。
赤い文字が、いっそう強く脈打って──
光が、来た。
音はなかった。ただ、世界がいちど、白く灼けた。
あたたかくも、つめたくもない。なのに、体の芯を、なにかが通り抜けていく。皮膚の下を、知らない指が撫でていくみたいに。ぞわり、と、産毛が逆立った。
「っ……」
わたしは胸を押さえた。
なに、いまの? なにが、入ってきたの?
光が消える。中庭は、もとどおりの午後だった。芝も、空も、なにも変わらない。
でも、わたしのなかだけ、なにかが、違っていた。
「アイリス!」
セシルが駆け寄ってくる。膝をついて、わたしの肩をつかむ。
「無事? どこか痛む? 受けたのは光素系の──」
顔を、上げた。
セシルの顔が、すぐ目の前にあった。
濃い青の瞳。心配で、いつもより揺れている。インクのついた指。汗ばんだ額に、結った黒髪がひとすじ落ちて。
いつもの、わたしのいちばん安心する人の顔。
なのに。
心臓が、跳ねた。
跳ねた、なんてものじゃない。胸の奥で、なにかが暴れて、喉までせり上がってくる。顔が、燃えるように熱い。セシルの瞳を、まともに見ていられない。
わたしは、とっさに目をそらした。
「アイリス?」
「へ、へいき。だ、だいじょうぶ」
声が、上ずる。へんだ。わたしの声じゃないみたいだ。
セシルの手が、わたしの頬にふれた。熱を測ろうとしたんだと思う。ただ、それだけの、いつもの仕草。
その指がふれた瞬間──
わたしの全身が、びくりと震えた。
ふれられたところが、火がついたみたいに熱い。もっと、と、体の奥のなにかが言う。もっと、ふれてほしい、と。
わたしは、その声に、ぞっとした。
なに、これ?
これ、なに?
「熱があるわ。すぐ医務室へ」
セシルが立ち上がり、わたしの手を取ろうとする。
いつもなら、なんでもなくつなぐ手。きのうまで、あったかいな、としか思わなかった手。
わたしは、その手から、逃げた。
自分でも、わけがわからなかった。ただ、いま手をつないだら、とんでもないことになる気がして。体が、勝手に、後ずさった。
セシルの手が、宙に浮いたまま、止まる。
傷ついたような、戸惑ったような顔。それを見たら、胸が、きゅう、と絞られて、もっと苦しくなった。
「……ごめん」
わたしは、うつむいた。
足元で、精霊たちが、わたしのまわりを狂ったように回っている。風が、火が、水が、なにかを必死に訴えている。けれど、その意味が、いまのわたしには、まるでわからなかった。
病気? 呪い? それとも──
問いだけが、ぐるぐる回って、答えはどこにもない。
中庭の入り口を見た。ロザリンド・ヴァレンフェルトは、もういなかった。
ただ、つめたい花の匂いだけが、午後の風に、かすかに残っていた。
顔を、上げられない。
いちばん安心するはずの人の顔が、いまは、いちばん見られない。
わたしは、自分の胸を、ぎゅっと押さえた。
とくとくと、はやい鼓動。その下で、なにかが、しずかに、芽吹こうとしていた。




