第2話 観察者の特権【セシリア視点】
私はものを記録する人間だ。
古今の術式、失われた呪文、誰も読めない古語。私の頭のなかには、それらが整然と棚に収まっている。生きた『コーデクス・マグナ』。叡智の聖女。人はそう呼ぶ。
褒め言葉のつもりなのだろう。けれど、その響きには、いつもかすかな距離がある。書物は便利だが、夕食に誘う相手ではない。
ただひとり、そんな距離を持たない人間がいる。
「セシル、見て見て」
今朝も図書塔に飛びこんできて、アイリスは私の机に身を乗り出した。亜麻色のくせ毛が、自分の意思を持つみたいに揺れている。風の精霊が、その毛先をいたずらに弄んでいた。
私は手元の式から目を上げる。上げてしまう。彼女が来ると、私の視線はいつも引き寄せられる。磁石のように、抗いようもなく。
「指から、星が出たの」
言うなり、アイリスは人差し指を立てた。先端で、ちいさな光がひとつ、ぱちりと弾けて消える。
私は息を呑んだ。
なんでもない仕草に見える。けれど私は知っている。今のは無詠唱の光素生成だ。これまでに知られているどの理論でも、最低三段階の術式が要る。それを彼女は、星が出たらいいな、と願っただけでやってのけた。
「……君は」
言いかけて、私は言葉を選び直す。規格外、と言ってしまえば、また彼女を一人にする。みなが彼女を遠巻きにするのと、同じことになる。
「君は、本当に。記録しがいがあるわ」
そう言うと、アイリスは花がほどけるみたいに笑った。
その笑顔を、私はそっと頭のなかに書き留める。誰の目にも触れない、私だけの頁に。今日の彼女は、左の頬にインクがついている。きっと私の机に頬杖をついたせいだ。指摘すれば拭ってしまう。だから言わない。
──こういう自分を、私は持て余している。
観察は、私の特権だ。
彼女自身が見ることのない彼女を、私だけが見ている。笑うと幼くなる目もと。嘘がつけなくて、思ったことが全部そのまま漏れてしまう唇。瞳の色が、淡い琥珀から、ふと金にかたむく瞬間。
あれは、彼女の本能が動くときの色だ。そして、これまでこの世界に存在しない、新しい魔法が生まれる時でもある。
本人は気づいていない。鏡を見ても、自分の瞳が語る「本心」を、彼女は読めない。
読めるのは、私だけ。
甘い特権だと思う。
同時に、危うい特権でもある。
「ねえセシル、きのうの人」
アイリスが、ふいに声をひそめた。窓の外を見ている。亜麻色の睫毛が、光に透けていた。
「あの、柱のかげにいた。きれいな人」
私の指が、わずかにこわばる。
「ええ。ヴァレンフェルト公爵令嬢ね」
名は知っている。家格も、才も、申し分ない。ヴァレンフェルトの名は、この国の歴史と同じだけ古い。
けれど、私が記録しているのは家系図ではない。あの令嬢の、視線の角度だ。
彼女は昨日、たしかに私たちを見ていた。
いや。正確に書こう。彼女は私を見てなどいなかった。視線はまっすぐ、アイリスにだけ刺さっていた。私は、ただの障害物として、視界の手前に置かれていただけだ。
「セシル、こわい顔してる」
「……してないわ」
している、と自分でわかる。
私はあの目を知っている。書物のなかで、何百回も読んだ感情だ。手に入らないものを前にした人間の、煮つめた執着。願いが叶わぬまま濃縮されて、もはや恋とも憎しみともつかなくなったもの。
ロザリンド・ヴァレンフェルトは、アイリスが欲しいのだ。
その確信は、氷の小片のように私の喉に刺さった。
なぜ刺さるのか。彼女が危険だから? ──そうだ。きっとそうに決まっている。アイリスは無防備すぎる。誰かが守らなければ。
それは親友としての、当然の責務で。
責務。
私は、その言葉を何度も机に並べ直す。きちんと整列させて、あるべき場所に収めようとする。けれど一枚だけ、どうしても棚に入らない紙片があった。
ロザリンドがアイリスを欲しがっている。
それを思うと、胸の奥が、嫌な熱を持つ。
この熱は、何だろう。
私はあらゆる術式を定式化できる。風も、光も、人の感情を模した古い呪いさえ、記号に還元してきた。
なのに、自分のこの熱だけは、どんな式にも収まらない。
「セシル?」
アイリスが、私の袖を引いた。あたたかい指。なんの計算もない、ただの心配。
ふれられた箇所から、体温が乱れていく。私はそれを、表には出さない。出さないことには、慣れている。
「なんでもないわ。少し、調べたいことができただけ」
私は『コーデクス・マグナ』を引き寄せ、目当ての頁を繰った。古い禁術の章。封じられた魔導具の項。
ヴァレンフェルトの家には、代々受け継がれる魔導具があると聞く。家格に見合う、世に隠された、危険なものが。
念のためだ。備えておくに、越したことはない。
そう、念のため。私はアイリスを守らなければならないのだから。
頁をめくる私の指先で、空気がかすかに張りつめた。
それは予感に似ていた。けれど、当代随一の理論家である私でさえ、このときはまだ──その魔導具が、明日にも私たち二人を撃つのだとは、知らなかった。
ただ、塔の窓の外で。
いつのまにか集まっていた精霊たちが、アイリスのまわりを、不安げに、ぐるぐると回りはじめていた。
彼女は気づかない。
私だけが、それを見ていた。




