第4話 解析できてしまう【セシリア視点】
あの瞬間を、私は何度も再生していた。
中庭で、私が手を差し出したとき。アイリスの指が、こちらへ伸びかけて、止まった。ほんの半秒。それから彼女は、私の手から逃げた。
逃げた、という事実が、夜になっても私の胸に刺さって抜けない。私は寝台に身を起こし、暗い天井を見上げる。
整理しなければ。
私はものを記録する人間だ。混乱は、定式化すれば鎮まる。いつもそうしてきた。
ヴァレンフェルトが用いた魔導具。古い筒。赤く脈打つ文字。私はあれを見た瞬間に、半ば見当をつけていた。だから今夜、『コーデクス・マグナ』の禁術の章を、片端から繰った。
蝋燭の灯が、頁のうえで揺れる。古い羊皮紙の、埃と獣脂の匂い。指先が乾いて、紙がかすかに鳴る。
そして、見つけた。
封じられた頁。古語で記された、ひとつの呪い。
訳せば──|友愛を破壊する光(Golau Dinistr Cyfail)。
心臓が、ひとつ、鈍く鳴った。
仕組みは明快だった。対象の親愛の情を、術式が強制的に書き換える。深い絆を持つ者ほど、効果は大きい。友情が厚いほど、それは激しい欲情に転じる。
外因性の、情動誘発。
私は、ほっとした。
本当だ。外因なら、解ける。原因が術式である以上、逆算して解呪式を組めばいい。アイリスのあの混乱は、彼女自身のものではない。植えつけられたものだ。消せば、元に戻る。
元の、二人に戻れる。
羽根ペンを取り、私は解析を始めた。
書き換えられた術式の構造。出力。干渉の経路。記号が、紙のうえに整列していく。あるべき場所に、あるべきものが収まっていく。この作業をしているあいだは、心が凪ぐ。
アイリスの本能なら、私の組んだ解呪式を完璧に発動できるだろう。明日にも、これは終わる。
そう。明日にも──
ペンが、止まった。
私は、自分の組んだ式を、もう一度見た。
対象の、親愛の情を、欲情に変える。
……対象は、誰だ?
ヴァレンフェルトは、アイリスを撃った。アイリスの、誰への親愛を、書き換えた?
いちばん深い絆。いちばん厚い友情。
私だ。
わかりきっていたことを、私は今、はじめて言葉にした。
アイリスがあの瞬間、私から逃げた理由。私の手から後ずさった理由。彼女のなかで、私への友情が、今、別のものに変わっている。
それを思った瞬間。
私の胸の奥で、ずっと棚に入らなかったあの紙片が、ぱさりと落ちた。
熱い。
ヴァレンフェルトがアイリスを欲しがっていると知ったときの、あの嫌な熱。ロザリンドの視線がアイリスに刺さるのを見て、喉に氷が刺さったあの感覚。あれは。
あれは、責務などではなかった。
私は、羽根ペンを置いた。
指が、わずかに震えている。当代随一の理論家の指が。
待ちなさい。
私は自分に命じた。混乱は定式化すれば鎮まる。ならば、これも定式化すればいい。
私が今、感じているこの熱。これも、術式の余波ではないのか。ヴァレンフェルトの呪いは、アイリスを撃った。けれど、絆は双方向だ。アイリスの友情を書き換えたなら、その鏡像として、私のなかの何かにも──
そこまで考えて、私は気づいてしまった。
外因なら、消せる。
外因なら、解呪すれば、消えるはずだ。
ならば、試せばいい。今ここで。私のなかのこの熱が、術式由来なら、解呪式の論理を自分に当てれば、薄れるはずだ。
私は目を閉じ、組んだばかりの式を、自分の内側に向けた。
熱を、解け。薄れろ。消えろ。これは外から植えられたものだ。私のものではない。私の、ものでは──
目を、開けた。
熱は、減っていなかった。
むしろ。アイリスの、私から逃げた半秒の指を思い出すと、その熱は、いっそう深く、奥のほうで疼いた。
……減らない。
なぜ。私は呪われていないのか? いや、それなら話は単純だ。けれど、もしそうでないなら。
もし、この熱が、術式が来るより前から、私のなかに在ったのなら。
私は、寝台の縁を、強く握った。
あらゆる魔法を、私は記号に還元できる。風も光も、人の感情を模した呪いさえ。
なのに、自分のこの一事象だけ。解析しても、解呪を当てても、定式に収まらない。減らない。消えない。
答えは、出ている。出てしまっている。
ただ私が、それを棚に収めることを、拒んでいるだけだ。
窓の外が、白みはじめていた。
私は立ち上がり、廊下を歩いた。気づけば、アイリスの部屋の前にいた。
触れただけで扉は開いた。なかを覗くと、寝台で彼女が眠っていた。
亜麻色の髪が、枕の上で広がっている。風の精霊が、その毛先をそっと撫でていた。寝顔は、無防備で、幼くて。唇が、ちいさく動いて、何かをつぶやく。
その顔から、私は、目が離せなかった。
離れなさい。
私は自分に言った。けれど足は、動かなかった。
「これは呪い。だから消せる。消せば、元通りになる」
声に出して、自分に言い聞かせる。何度も。
けれど、眠るアイリスを見つめる私自身が、いちばん、その言葉を信じていなかった。




