第9話 尋ねなかった人
十四時三十二分。
手の甲を、岩の角が削っていた。
痛みは、なかった。痛みは、ずっとあとになってから来た。
指の関節に残った白い傷だけが、あれが本当にあったことを覚えている。
ほかに何が残っているのかは、尋ねなかった。
一
日曜の朝九時、七海は義兄の事務所の前に立った。かばんの底で、タオルにくるんだカメラが重かった。
通りの向かいのバス停には、誰もいなかった。四月のあの日、黒いコートの女が立っていた場所だ。
ドアを開けると、エアコンの送風音がした。あの日と同じ音だった。壁には、姉の千尋が撮った義兄の建物の写真が、変わらずに並んでいる。
義兄の湊は、もう机に向かっていた。ゆうべは家にいたはずなのに、シャツは昨日と同じものだった。目の下の影が、また濃くなっていた。机の上には、実家の図面が広げたままになっている。姉の部屋の線は、描き直されたままだった。顔を上げた義兄は、七海の目を見て、手にしていた鉛筆を置いた。
七海は、かばんからタオルの包みを取り出し、図面台の上で開いた。
黒いカメラが、朝の光の中に現れた。図面台の白い紙の上で、その黒さだけが浮いて見えた。
義兄が、立ち上がった。椅子が、床をこすって鳴った。喉が、小さく動いた。
カメラに伸ばしかけた手が、途中で止まった。目は、底についた細い傷を見ていた。それきり、義兄は動かなかった。
「お母さんが、とっておいたの。押し入れの、いちばん奥に」
七海は便箋をカメラの横に置いた。
義兄は便箋を読んだ。紙を持つ指が、かすかに震えていた。「あの子が最後に撮った写真」の行で、目が止まったのがわかった。読み終えても、しばらく顔を上げなかった。
「……お義母さんらしいな」
「捨ててと、千尋が言ったのか」
「そう書いてあります」
義兄はもう一度、便箋に目を落とした。
便箋を丁寧にたたみ直して、義兄はそれをカメラの横に戻した。
「カードは、空でした」
言葉が、自然に丁寧になった。
「写真は、一枚も残っていませんでした」
ほんの一瞬、義兄の肩から、力が抜けたように見えた。
七海はそれを見逃さなかった。ほっとしたのだ、と思った。
「消したのは、湊さんですか」
義兄はカメラから目を離さなかった。
「……俺じゃない」
二
「じゃあ、誰が」
義兄は首を振っただけだった。
「事故のあと、お姉ちゃんの荷物を病院に運んだのは、湊さんでしたよね」
義兄は答えなかった。
「病室で、このカメラを膝に載せていたのを、見ました。わたしが入っていったら、すぐに棚に戻しましたよね」
図面台の上で、義兄の手が、カメラの数センチ手前に置かれていた。触れようとはしなかった。
「レンズのふたも、閉まっていました。山頂で撮っていたのなら、外してあったはずです。誰かが、あとから閉めたんです」
義兄の視線が、レンズのふたに落ちた。
「十二年、一度も訊きませんでしたよね。このカメラがどこにいったのか」
日曜で、隣のビルの工事も休みだった。事務所の中は、ひどく静かだった。義兄の息づかいまで、聞こえる気がした。
「お姉ちゃんは、今も、あの数秒を覚えていないんです。このカメラだけが、見ていたかもしれないのに」
声が、少しだけ震えた。
「お姉ちゃんが覚えていないのをいいことに、消したんですか。中に何が写っていたか、知っていたから」
義兄はゆっくりと顔を上げた。七海を見た。その目の奥で、何かが揺れた。怒りではなかった。怯えに近いものだった。
「俺じゃない」
それだけだった。
「見たいと、思わないんですか」
返事はなかった。
見せてくれ、とも、中に何があったのか、とも、義兄は訊かなかった。写っていたはずのものを、知りたいとも言わなかった。
そういう嘘は、つけない人だから。沙耶はそう言った。嘘のつけない人が、俺じゃない、と言う。それを信じていいのか、七海には、もうわからなかった。
七海はカメラを包み直した。義兄は、止めなかった。
「……千尋には」
ドアに手をかけた七海の背中に、義兄の声がした。
「わたしが言います」
義兄は、それ以上は何も言わなかった。
ドアを閉めるとき、振り返った。義兄はまだ、図面台の前に立っていた。タオルの形のしわだけが残った台の上を、じっと見下ろしていた。
三
午後、七海は姉夫婦の家に寄った。
悪い知らせを伝えるときは、まず相手の正面に座る。病棟で覚えたやり方だった。けれど、相手が姉だと、何の役にも立たない気がした。
姉は、居間でノートパソコンに向かっていた。画面には、実家で撮った写真が並んでいる。玄関の段差の写真を、何枚も見比べていたらしい。どれも、同じ十八センチの段差だった。七海を見ると、笑った。お茶を淹れようとする姉を、七海は止めた。
「どうしたの、急に」
七海は、姉の正面に座った。
「お母さんがね、お姉ちゃんのカメラ、とっておいたの」
姉の手が、止まった。
「押し入れの奥に、しまってあった。山に持っていってた、あのカメラ」
姉の頬から、すっと色が引いていった。
姉の唇が、少しずつ白くなっていく。
事故の日を、思い出させてしまったのだ。七海は、そう思った。
姉の左手が、膝の上の右の手首を包んだ。
「……捨ててって、言ったのに」
小さな声だった。
「ごめん。言わないほうが、よかったね」
「……ううん。お母さん、ずっと持ってたんだね」
七海は、かばんを足もとに引き寄せた。タオルの包みが入ったそのかばんを、姉は一度も見なかった。
姉は、しばらく何も言わなかった。
「それ、どうするの」
「……まだ、決めてない」
「捨てて。お願い」
姉は、七海の目を見ずに言った。中を見たのか、とは訊かなかった。
「うん」
七海は答えた。姉は、小さくうなずいた。手首を包む指は、最後までほどけなかった。
姉に嘘をついたのは、これが初めてではなかった。眠れてるよ、と答えたあの日から、嘘は少しずつ増えていた。
その夜、義兄から短いメッセージが届いた。『千尋に、話したか』。『話しました』とだけ返した。
七海は実家の机で、ノートパソコンを開いた。消えたデータの復元を請け負う業者は、思っていたより多かった。その中から一つを選び、依頼の文面を打った。カードの種類。撮られたのは、十二年前。業者のページには、上書きされていなければ、多くの場合は戻せると書いてあった。
姉の白い唇を、思い出した。
捨てて、と姉は言った。うん、と七海は答えた。
送信のボタンの上で、指が一度だけ止まった。それから、押した。
送信の文字が画面から消えるまで、七海は目を離せなかった。
(第9話 了)




