第8話 押し入れの奥
一
黒いカメラは、思っていたよりも、冷たかった。
七海は、押し入れの前の畳に座りこんだまま、しばらく動けなかった。姉の千尋が暮らす部屋として描き直された、玄関脇の小さな部屋。その押し入れの奥で、これは眠っていた。
姉が山へ出かけるたびに、首から提げていたカメラだった。玄関で登山靴の紐を結ぶ姉の胸で、いつもこれが揺れていた。行ってきます、と言う声は、いつも少し弾んでいた。
十二年前、姉はこれを提げて、義兄の湊と山へ出かけていった。
中学生のころ、姉に星の撮り方を教わったことがある。庭にカメラを据えて、十秒ごとにシャッターが自動で切れるようにしておく。
「どうして、十秒なの」
「星はね、十秒でほんの少しだけ動くの。一枚じゃ、わからないくらい」
「何枚撮るの」
「朝まで」
七海は毛布にくるまって、縁側でシャッターの音を聞いていた。小さく乾いた音が、十秒ごとに鳴った。いつのまにか、眠っていた。
朝になって、姉がパソコンで何千枚もの写真の明るいところだけを一枚に集めると、星が夜空に白い線を描いていた。
「時間は、こうやって残すの」
姉は、そう言って笑った。
底のほうに、岩で擦れたような細い傷がいくつも残っていた。レンズのふたは、きちんと閉まっていた。山頂で撮っていたのなら、ふたは外してあったはずだ。誰かが、あとで閉めたのだ。
電源を入れてみた。何も起きなかった。あれから誰も充電していないのだから、当然だった。
袋の底に、折りたたんだ便箋が一枚入っていた。広げると、母の字が並んでいた。
『千尋に、捨ててと言われた。でも、あの子が最後に撮った写真が入っている。捨てられない。いつか、あの子が見たくなったときのために』
便箋の折り目は、何度も開いて閉じたように、白くすり切れていた。母の字が、にじんで見えた。
姉がそんなことを頼んでいたのを、七海は知らなかった。母も、一度も口にしなかった。捨てたふりをして、この押し入れの奥にしまい、誰にも言わずにいたのだ。母の葬儀のあと、七海も、いちばん奥のこの箱にだけは手をつけられずにいた。
二
カメラの横のふたを開けると、小さなカードが差さったままになっていた。
七海は自分の部屋からノートパソコンを持ってきて、カードを差しこんだ。古いカードだった。読みこみが終わるまでの数秒が、ひどく長く感じた。
画面に、カードの中身が表示された。
何も、なかった。
写真は一枚も、動画も一本も、残っていなかった。
もう一度、差し直した。表示は同じだった。フォルダを一つずつ開いた。どれも空だった。病棟で、患者の記録を確かめるときと同じ手順で、七海は画面の隅から隅までを見た。容量は、ほとんど空いたままになっていた。
山頂でも、姉は星を撮ったときと同じように、カメラを据えて撮り続けていた。山の時間を、そうやって残す人だった。山から帰ると、いつも少し誇らしげに、その画面を見せてくれた。
あの日も、そうしたはずだ。
山頂に置かれたカメラは、十秒ごとに、あの日の二人を撮っていたはずだった。もしかしたら、あの一瞬も。
空のはずがない。
誰かが、消したのだ。
七海は、画面から目を離せなかった。何も映っていない白い画面の中に、写っていたはずのものを探していた。
知りたいのか、知りたくないのか、自分でもわからなかった。
箱の中を探ると、充電器も出てきた。母は、これも一緒にしまっていた。コンセントにつなぐと、小さな赤い光がともった。
一時間ほど待って、もう一度電源を入れた。今度は、画面が明るくなった。
『画像がありません』
設定の画面を開いた。最後に使われたままの項目が、そこに残っていた。
インターバル撮影。間隔、十秒。
画面の小さな文字を、七海はしばらく見つめていた。
姉があの日、山頂でこのカメラに与えた命令が、まだ生きていた。写真だけが、なかった。
姉は、あの数秒を覚えていないと言う。覚えていないという姉の代わりに、このカメラだけが、あの一瞬を見ていたのかもしれない。
三
その夜は、眠れなかった。
誰が。いつ。
姉は、このカメラを見ることさえ嫌がっていた。事故のあと、山の写真を一枚も撮らなくなった人だ。母に捨ててと頼んだのも、見たくなかったからだろう。その姉が、中の写真を一枚ずつ確かめて消していくとは、思えなかった。
母でもない。消すくらいなら、便箋にあんなことは書かない。
記録は嘘をつかない、と七海は学生のころに教わった。記録が消えているなら、消した誰かがいる。
警察は、あれを事故として片づけた。カメラの中を確かめようとした人は、誰もいなかったはずだ。
事故のあと、姉の荷物を病院に運んできたのは、義兄だった。警察から返された荷物を、義兄が一つずつ病室の棚にしまっていたのを、七海は覚えている。登山靴。雨具。財布。そして、このカメラ。
一度だけ、見たことがあった。姉が眠っている病室で、義兄がこのカメラを膝に載せて座っていた。電源を入れるでもなく、ただ両手で包むように持っていた。その指には、まだばんそうこうが巻かれていた。七海に気づくと、義兄はすぐにカメラを棚に戻した。「……起こすと、悪いから」と、訊いてもいないのに言った。隠すような仕草だった、と今は思えた。
あのとき、義兄は何を考えていたのだろう。
七海の知るかぎり、義兄は十二年、一度もこのカメラのことを口にしなかった。姉が山の写真を撮らなくなったことにも、何も言わなかった。
言わなかったのか。言えなかったのか。
夜中に、携帯で調べた。消えた写真は、上から何も書きこまれていなければ、戻せることがあるという。専門の業者もいるらしい。
もし、戻せるなら。
そこには、何が写っているのだろう。山頂の二人。姉の笑顔。義兄の顔。そして、十秒ごとの、あの日の最後の数枚。
見てしまったら、もう義兄を兄とは思えなくなるかもしれない。それでも、見ないわけにはいかなかった。
明け方、携帯が震えた。姉からだった。
『昨日は、ごめんね。湊は、いるよ』
義兄は、出ていかなかった。あのあと、二人はどんな夜を過ごしたのだろう。
『カメラが見つかった』と打ちかけて、消した。姉にどう伝えればいいのか、まだわからなかった。
カーテンの隙間から、朝の光が差しこんできた。テーブルの上で、カメラの黒い本体が、その光を鈍く返していた。
七海は、カメラを古いタオルでくるみ、かばんの底に入れた。日曜でも、義兄は九時には事務所に出ている。
あのカードに、何が写っていたのか。
義兄は、知っていたのではないか。
(第8話 了)




