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第7話 掴む手

十四時三十二分。


手のひらが空になっても、腕は伸びたままだった。


開いた指のあいだを、風が通っていった。


さっきまで、そこに重さがあった。


その重さを、今も探している。


一


二人に、話したいことがある。義兄の湊からのその一文を、七海は何度も読み返した。何度読んでも、それ以上のことは書いていなかった。話がある、と言われて、いい話だったためしはない。三年前も、そうだった。


土曜の午後、玄関を開けたのは義兄だった。顎に、無精ひげが伸びていた。


廊下の先、書斎の引き戸の前に、旅行かばんが一つ置いてあった。口は、もう閉じられていた。見覚えのある、紺のかばんだった。母の葬儀のとき、義兄が泊まりこみで提げてきたものだ。


出ていく。あの日曜の夜に聞いた言葉が、形になってそこにあった。


「あれ、何」


「あとで話す」


居間では、姉の千尋がテーブルについていた。膝の上で、左手が右の手首を包んでいる。姉は七海を見て、口元だけで笑った。


義兄は座るなり、筒から図面を抜いて、テーブルに広げた。実家の改修図だった。


玄関の脇の、姉が泊まるはずの小さな部屋。そこに、新しい線が引き足されていた。押し入れのあった場所に、大きな収納。隣には、小さな浴室まで描かれている。鉛筆の線は、まだ新しかった。図面の端に、消しゴムのかすが残っていた。


泊まるための部屋ではなかった。暮らすための部屋だった。山の見える七海の部屋は、前の図面のまま、何も変わっていなかった。


「……これ、何」


「工事が終わったら、千尋を実家に戻してやってほしい」


義兄は、七海の目を見て言った。


冷蔵庫の低いうなりだけが、居間に残った。


「勝手に決めないで」


自分の声が、震えていた。


「お姉ちゃんは、物じゃない。部屋を描き足せば、移せるわけじゃない」


「わかってる」


義兄は、図面から目を上げなかった。


「お姉ちゃんには、訊いたの?」


「……訊けなかった」


姉は、図面を見なかった。湯のみから立つ湯気を、じっと見ていた。


二


「真柴が、ここに来たそうだね。……すまない。俺のせいだ」


義兄は、居間を見回した。白い壁。低い位置のスイッチ。ソファの横の、白い手すり。


「この家を、檻だと言ったと聞いた。……言い返せなかった」


「檻なんかじゃない。お姉ちゃんは、この家で笑ってたじゃない」


「笑ってくれていた。それが、いちばん苦しかった」


「どういうこと」


「千尋が退院した日から、この家の図面を引きはじめた。段差を一つ消すたびに、あの岩を一つ消している気がした。千尋が笑うたびに、許されている気がした。許されていいはずがないのに」


「俺が出ていくだけじゃ、だめなんだ。俺が出ていっても、千尋は、俺が建てたこの家に残る。千尋を、ここから出してやりたい」


帰ってきて。七海がずっと言えずにいたその言葉を、義兄が先に口にしていた。胸のどこかで、ほっとしている自分がいた。そのことが、ひどく恥ずかしかった。恥ずかしさが、そのまま怒りになった。


「それで、お姉ちゃんを追い出すの? 自分が楽になるために」


「……そうかもしれない」


姉の肩が、一度だけ小さく上下した。


「あの日、手を離したかもしれない人間が、隣にいていいはずがない」


義兄は、少しだけ間を置いた。


「俺には、千尋のそばにいる資格がない」


資格、という言葉が、居間に冷たく響いた。図面の寸法を読み上げるときと、同じ声だった。姉の指が、自分の手首に深く沈んだ。


「今日から、しばらく事務所に泊まる」


「今から?」


「ああ」


義兄が立ち上がった。廊下の旅行かばんへ向かって、姉の車椅子の横を通り過ぎようとした。


膝の上で右の手首を包んでいた姉の左手が、ほどけた。


そして、右手が動いた。


姉は、義兄の手首を掴んだ。


座ったまま、下から。指の関節が白くなるほど、強く。


義兄の足が、止まった。


誰も、何も言わなかった。


姉は、義兄の顔を見なかった。前を向いたまま、その手首だけを掴んでいた。泣いてはいなかった。


その指先は、義兄の手首の内側に食いこんでいた。脈を取るときに指を当てる場所だ、と七海は思った。


引き止めているのか、しがみついているのか、七海にはわからなかった。


掴まれた義兄の手は、指を開いたまま、宙で止まっていた。


義兄は、その手を振りほどけなかった。


姉の指は、少しもゆるまなかった。義兄の足は、廊下のほうを向いたままだった。


廊下の先で、旅行かばんは、口を閉じたまま置かれていた。


三


七海は、そっと立ち上がった。二人とも、こちらを見なかった。


廊下の旅行かばんの横を通るとき、七海は目をそらした。玄関で靴を履いた。紐を結ぶ手が、震えていた。振り返ると、姉はまだ、義兄の手首を掴んでいた。


姉の手がいつ離れるのか、七海は見届けなかった。引き戸を、音を立てないように閉めた。


スロープの白い手すりには、今日も触れなかった。坂の途中で、一度だけ振り返った。居間の窓は、まだ明るかった。


帰ってきてほしかった。その願いを、姉にさえぎられたように思えた。


家に着いてから、姉に『大丈夫?』と送った。返事は、来なかった。何度、画面を見ても同じだった。あのかばんを持って義兄が出ていったのかどうかも、七海は知らなかった。


代わりに、工務店から電話があった。工事は予定どおり始める、という確認だった。


その夜、七海は、実家の玄関脇にある小さな部屋の押し入れを開けた。義兄の図面で、姉が暮らす部屋として描き直された部屋だった。もう、先延ばしにはできなかった。ふすまは、湿気を吸って重かった。奥には、母の箱がいくつも積まれていた。


押し入れの中から、防虫剤のにおいがした。捨てられない人だったもんね、という姉の声を思い出した。


いちばん奥から、母の字で「とっておく」と書かれた箱を引き出した。かすれかけたマジックの字だった。箱は、思っていたより重かった。


ガムテープをはがし、ふたを開けた。


いちばん上に、白いビニール袋が入っていた。その下に、輪ゴムでまとめた通知表と、母子手帳が二冊、七海が小学校で折った紙の花が見えた。どれも、母が捨てられなかったものだ。袋には、病院の名前が印刷されている。袋の口を留めた紙には、母の字で名前と日付が書いてあった。


早坂千尋。姉の、結婚する前の名前だった。日付は、事故の翌週だった。


袋の口から、黒いストラップがのぞいていた。引き出すと、ずしりとした重みが手に伝わった。


姉のカメラだった。あの日、山頂に置かれていたはずのカメラだった。


(第7話 了)

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