第6話 自分で選んで
一
あの日曜から、七海は毎日、姉の千尋にメッセージを送った。返事はいつも短かった。『大丈夫』『ありがとう』『七海も休んでね』。どれも、姉らしい返事だった。
四日目の木曜、夜勤明けの足で、七海は姉夫婦の家に寄った。インターホンを押すと、少し間があってからロックが外れた。
姉は、居間でノートパソコンに向かっていた。義兄の湊が設計した家の写真を、仕事として選んでいるのだという。その義兄は、事務所に出ている。
書斎の引き戸が、半分開いていた。ソファの上に、たたんだ毛布が置いてある。流しの水切りかごには、湯のみが一つだけ伏せてあった。
「湊、このごろ書斎で寝てるの」
姉は画面から目を離さずに言った。天気の話でもするような声だった。その目の下に、薄い影ができていた。
「……お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫よ。七海こそ、また夜勤明けの顔してる」
「湊さんと、話してる?」
「話してるわよ。ご飯のこととか、ごみの日のこととか」
姉は笑った。それから、画面の写真に目を戻した。光の差しこむ廊下の写真が並んでいる。姉はそのうちの何枚かを、迷いながら脇へよけた。
「光が強すぎると、使えないの。影がないと、形が見えないから」
「どれも、きれいに見えるけど」
「きれいなだけの写真は、あとに何も残らないの」
それきり、姉はあの夜のことも、義兄のことも話さなかった。七海も、それ以上は切り出せなかった。
インターホンが鳴ったのは、お茶を淹れようと七海が立ち上がったときだった。
モニターに、黒いコートの女が映っていた。
息が止まった。
「知ってる人?」
姉が、こちらを見上げた。
「……前に、事務所で会った人。湊さんの、大学の同期の」
姉は少しのあいだ、モニターの中の女を見ていた。それから、通話のボタンを押した。
「はい」
「突然、申し訳ありません。真柴と申します。湊さんの、大学の同期です」
「……どうぞ」
「お姉ちゃん」
「いいの」
姉はロックを外した。
二
沙耶は、居間の入口で一度だけ足を止めた。七海がいることは、予想していなかったようだった。それから、白い壁、大きな窓、低い位置のスイッチと、雑誌で見たはずの部屋を確かめるように見回した。その目が、ソファの横の白い手すりで止まった。
「雑誌で拝見しました。町の名前が出ていましたし、大学の同期に訊けば、すぐにわかりました」
「どうぞ、おかけください」
姉はお茶を淹れ直し、沙耶の前に置いた。七海は座らずに、姉の車椅子の横に立っていた。湯のみを持つ沙耶の指に、力が入っていた。
姉と沙耶が顔を合わせるのは、これが初めてのはずだった。
「瀬川千尋です」
「真柴沙耶です。湊さんとは、学生のころにお付き合いしていました」
姉は小さくうなずいた。沙耶の視線が一度だけ姉の脚に落ち、すぐに戻った。
沙耶は湯のみの向きを指先で直した。
「あの日、湊さんが山で何を言うつもりだったか、ご存じですか」
「ええ。聞きました」
姉の声は、静かだった。
「私は、学生のころから、あの人の図面が好きでした。線に、迷いがないんです。向こうにいた十二年、ほかの人の図面を見るたびに、あの人の線を探していました」
沙耶は居間をもう一度見回した。
「この家の線も、同じでした。一本も、迷っていない。段差がひとつもなくて、どこにも、つまずかない」
沙耶の声が、少しだけ低くなった。
「迷いのない線で、あの人は檻を建てたんです。事故が、あの人をここに縛った。あの人は、ずっと罪悪感の中で暮らしてきたんです」
ホテルのラウンジで聞かされたのと同じ言葉だった。それを今、姉が聞いている。姉の横顔を、見ることができなかった。代わりに、車輪を握る姉の指を見ていた。指は、ゴムに食いこんでいた。
「帰ってください」
七海の声が、思ったより大きく響いた。
「いいの、七海」
姉は、七海のほうを見ずに言った。視線は、沙耶から離れなかった。
「それを言いに、いらしたんですか」
「ええ」
姉の目が、沙耶の左手に下りた。薬指には、何もなかった。姉の左手には、細い指輪がある。
「それで、真柴さんは、幸せになれるんですか」
沙耶の目が、一瞬だけ揺れた。沙耶は答えなかった。膝の上のバッグの留め金に、指をかけた。
「あの人を、自由にしてあげて」
窓の外で、風が庭の木を揺らしていた。
姉は、しばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと口を開いた。
「あの人は、自分で選んでここにいるの」
大きな声ではなかった。けれど、居間の隅々にまで届く声だった。十二年、夫の隣にいた人の声だった。
七海は、泣きそうになった。
留め金にかかった沙耶の指が、止まった。沙耶は何も言わずに、留め金をゆっくりと閉じた。
沙耶は立ち上がり、頭を下げた。
「失礼しました」
三
姉は車椅子で、玄関まで沙耶を送った。七海は、その後ろについていった。
靴を履き終えた沙耶が、引き戸に手をかけた。
「真柴さん」
姉が呼び止めた。沙耶は、振り向かなかった。
「ベルリンは、寒かったでしょう」
沙耶の背中が、一瞬だけ固くなった。
「……ええ。とても」
それだけ言って、沙耶は出ていった。スロープを下りていくヒールの音が、少しずつ遠くなった。開いたままの引き戸の向こうで、坂の下まで下りた沙耶が、白い手すりに片手をつき、しばらく動かずにいた。肩が、小さく上下していた。
義兄から聞いたのだろう、と七海は思った。
姉は、自分で引き戸を閉めた。車輪にかけたその手が、小さく震えていた。
「……きれいな人ね」
姉は、それだけ言った。
居間に戻ると、姉は冷めたお茶を下げ、ノートパソコンを閉じた。
「湊さんに、言うの?」
「言うわよ。隠すことじゃないから」
「……お姉ちゃん、強いね」
「強くなんか、ないよ」
姉は笑った。いつもの笑い方だった。
昼は、姉と二人で残りものの煮物を食べた。姉の皿は、ほとんど減らなかった。沙耶の湯のみは、口をつけられないまま流しに残っていた。二人とも、沙耶の名前は口にしなかった。
帰りの電車は、眠っていない体にひどく揺れた。窓の外を、昼下がりの町が流れていく。
あの人は、自分で選んでここにいるの。姉の声が、まだ耳に残っていた。義兄は、本当に自分で選んだのだろうか。事故が、選ばせたのではないか。
膝の上で、携帯が震えた。義兄からのメッセージだった。
『千尋から聞いた。土曜、うちに来てくれないか。二人に、話したいことがある』
話したいことがある。
下りたら、話がある。十二年前の山頂で、義兄が姉に言った言葉だった。
(第6話 了)




