第5話 「……そう」
十四時三十二分。
胸の下で、岩が冷たかった。
耳の奥で、自分の脈だけが鳴っていた。それでも、掴んでいた。掴んでいたと、思う。
腕が限界だったのか。心のどこかが、先に手を離したのか。
その二つを、今も見分けられない。
一
日曜の夕方、七海は、姉の千尋と義兄の湊が暮らす家へ向かう坂を上っていた。
子どものころ、夏祭りの人混みで迷子になりかけたことがある。泣き出した七海の手を、姉が見つけて握った。家に着くまで、一度もその手を離さなかった。姉だって、まだ小学生だったのに。泣いている七海の横で、姉だけが大人だった。
千尋は、俺よりずっと強い。きのうの義兄の言葉がよみがえった。
スロープの白い手すりには、今日は触れなかった。
玄関の前に立つと、中から姉の鼻歌が聞こえた。
「いらっしゃい。ちょうど魚が焼けたところ」
姉はいつもと同じ顔で迎えた。台所に、焼き魚と味噌汁の匂いがこもっている。
「そうだ。これ、見て」
姉がカメラの画面をこちらに向けた。先週、七海が夜勤でいない日に、義兄に手伝ってもらって実家を撮ったのだという。玄関の段差。母の湯のみが伏せてある台所。誰もいない居間。
「段差、ちゃんと残しておきたかったから。工事が終わったら、七海の部屋に飾ろうか」
画面の中の段差は、夕方の光を受けて、やわらかく光っていた。その手前に、姉の車椅子の影が小さく写りこんでいた。母が最後の冬、何度も立ち止まった段差だった。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。この写真を撮った姉が、今夜、何を聞かされるのか。七海はそれを知っていた。さっきの鼻歌が、まだ耳に残っていた。
三人で食卓についた。姉は病棟の話を聞きたがった。
「新しく入った子、どう? 七海が教えてるんでしょう」
「……うん。まあ、なんとか」
「七海も一年目は、よく泣いてたのにね」
夜勤のこと、休みの日のこと。七海は、自分でも何を話しているのかわからない返事を繰り返し、何度も壁の時計を見た。
義兄はほとんど箸を動かさなかった。
「湊、ちゃんと食べて。また夜中に起きることになるよ」
姉は笑って、義兄の皿の魚をほぐしはじめた。
「二人とも、今日は静かだね」
義兄が、箸を置いた。
「千尋。話がある」
姉の箸が、止まった。
「七海さんには、きのう話した」
姉の目が、一瞬だけこちらに向いた。黙っていた日々が、その一瞬で知られた。七海はその目から逃げた。箸を持ったまま、動けなかった。
「あの日、山で」
義兄は一度だけ言葉を切った。
「別れを告げるつもりだった」
時計の音が聞こえた。姉の手から箸が一本すべり、皿の縁で小さな音を立てた。味噌汁の湯気が、少しずつ細くなっていく。
姉が泣いたら、肩を抱こう。怒ったら、止めよう。七海はそう決めて来ていた。
姉は、そのどちらもしなかった。義兄の顔を見ていた。問い返しもしなかった。
長い間があった。
「……そう」
それだけだった。
義兄は、責められるのを待っている人の顔をしていた。姉は、責めなかった。
車輪に手をかけ、ゆっくりと車椅子を窓のほうへ向けた。車輪が食卓の脚に当たって、鈍い音を立てた。この家で姉が何かにぶつかるのを、初めて見た。姉は、当たった車輪を見もしなかった。食卓に、背中が向けられた。
義兄は次の言葉を待っていた。なぜ、と訊かれるのを。けれど姉は、何も訊かなかった。
訊けば、答えを聞くことになる。姉はそれを拒んだのだと、七海は思った。
義兄の唇が動いたが、声にはならなかった。言い訳はしないと、決めている様子だった。
夜になった窓ガラスに、姉の姿が映っていた。ガラスの中の姉は、目を閉じているように見えた。膝の上で、左手が右の手首を包んでいる。
冷え性だと、ずっと思っていた。
姉が包んでいるのは、あの日、義兄の手の中にあった手首だった。
二
「……ごめん」
姉の背中は、動かなかった。
姉は答えずに、流しのほうへ車椅子を進めた。やかんに水を入れ、火にかける。火は、二度目でついた。
湯が沸くまでのあいだ、誰も口をきかなかった。
事故のあとの病室を、七海は思い出していた。義兄は毎日やって来て、ベッドの横の丸椅子に座り、何も言わずに帰っていった。姉も、何も言わなかった。点滴のしずくが落ちるのだけが、二人のあいだで動いていた。その沈黙を一か月後に破ったのが、義兄の「結婚しよう」だった。
十二年前のあの沈黙が、この家に戻ってきた。
やかんが鳴った。
姉はお茶を三つ淹れ、食卓に並べた。湯のみの縁から、少しだけお茶がこぼれた。それを拭こうとはしなかった。
「先に休むね」
姉は寝室へ向かった。義兄は立ち上がりかけて、やめた。引き戸が、音もなく閉まった。
七海は寝室の前まで行った。
「お姉ちゃん。……何か、話したいこと、ない?」
十二年前、途中で切った電話の続きを、今なら最後まで聞ける。そう思った。引き戸に、そっと手を当てた。戸一枚が、ひどく厚く感じられた。
戸の向こうは、しばらく静かだった。
「ないよ」
少しして、また姉の声がした。
「大丈夫。……七海、今日はもう帰って」
いつもの、やさしい声だった。聞く準備ができたときには、もう、姉は話そうとしなかった。
食卓に戻ると、義兄はさっきと同じ姿勢で座っていた。お茶は、三つとも冷めかけていた。
「……あれで、全部なの」
「話せることは、話した」
話せないことが、まだあるのだろうか。それ以上は、訊けなかった。
「これから、どうするの」
「千尋が決めることだ」
「……お姉ちゃんが、出ていってって言ったら?」
「出ていく」
冷めた湯のみに目を落としたまま、義兄は迷わずにそう言った。
「来てくれて、ありがとう」
七海は、何も言えなかった。
三
玄関で靴を履いた。棚の上に、姉のカメラが置いてあった。実家の段差を写した、あのカメラだ。
振り返ると、廊下の先で、台所の明かりが消えた。
窓から差しこむ街灯の薄明かりの中で、義兄は、いつか姉が話していた、あの椅子に座った。テーブルに両肘をつき、顔の前で、自分の手を広げている。何かを掴みそこねたあとのような形のまま、その手は動かなかった。
見ているのだと思った。あの一瞬を、その手の中に。
寝室の戸は、閉まったままだった。戸の下から、細く明かりが漏れていた。姉も、眠ってはいない。
七海は音を立てないように玄関の戸を閉めた。
スロープを下りながら、白い手すりを握った。金属は、夜気で冷えきっていた。坂の下に着くまで、七海はその手を離さなかった。離したら、何かが落ちていく気がした。
(第5話 了)




