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第4話 下りたら、話がある

一


土曜の昼過ぎ、義兄の湊が実家に来た。工事の前に、もう一度寸法を測っておきたいのだという。


今日、訊こう。七海は朝から、そう決めていた。ずっと兄のように思ってきた人だった。母の通院が始まってからは、月に二度、仕事を抜けて車を出してくれた。待合室で母の隣に座る背中を、何度も見ている。母は最後まで、湊さんではなく、湊くんと呼んだ。その人に、訊かなければならない。姉の千尋には、まだ何も話していない。


携帯には、沙耶の番号が残っている。かけ直して、もっと訊くこともできた。けれど、訊くべき相手は、あの人ではなかった。


玄関に立った義兄の目の下には、薄い影があった。上がるとまず、母の仏壇の前に座った。線香をあげ、手を合わせる。長い合掌だった。合わせた指の関節に、白く細い傷あとが残っている。十二年前の岩の跡だと、七海は知っていた。


廊下には、押し入れから出した段ボール箱が積んである。母が何でもしまい込んでいた箱だ。まだ半分も片づいていない。


「片づけ、大変だろう。手伝おうか」


「大丈夫。少しずつやるから」


義兄は玄関の段差の前にしゃがみ、巻き尺を当てた。使いこんだ目盛りは、ところどころ消えかけていた。


「十八センチ」


手帳に数字を書きつける。寸法を測る指にも、数字を書く指にも、迷いがなかった。


母が最後の冬、何度も立ち止まった段差だった。


「玄関は、千尋の車椅子が向きを変えられる広さにする」


居間に移ると、大きな窓の幅を測りはじめた。開けたままのふすまの向こうに、隣の部屋が見えている。姉が七海に譲った、山の見える部屋だ。


「あの部屋、本当に七海さんでいいのか」


「お姉ちゃんが、そう決めたから」


「千尋は、いつもそうだな」


義兄は、笑った。


「カーテン、厚手にしておこうか。西日が入るから」


事務所で姉が言ったのと、同じ言葉だった。


よく晴れた日で、窓の向こうに、低い山並みが青く見えていた。


巻き尺を伸ばしたまま、義兄の手が止まった。


「……今日は、よく見えるな」


義兄が山を見ているところを、初めて見た気がした。


七海は、その背中に言った。


二


「真柴さんに、会いました」


自分でも驚くほど、他人行儀な声が出た。


巻き尺が、乾いた音を立てて縮んだ。


義兄は振り向かなかった。指先を、窓枠にかけていた。


「……そうか。そうだと思った」


「わかってたんですか」


「事務所に来た日から。いつか、こうなると思ってた」


何を聞いたのか、義兄は訊かなかった。


「あの日、山頂で、姉に別れを告げるつもりだったと聞きました。あの人と、ベルリンへ行く約束をしていたと」


言葉にすると、声が震えた。ベルリン、と口にしたとき、窓枠にかけた指に力がこもったのが見えた。


「本当なんですか」


長い沈黙だった。義兄は窓のほうを向いたまま、動かなかった。隣の家で、布団をたたく音がした。


「……千尋は、知ってるのか」


「言っていません」


「……そうか」


窓の外に目を向けたまま、義兄は続けた。


「千尋に、話すつもりだったことはある」


否定しなかった。否定はしないはずよ、と言った沙耶の声がよみがえった。


「山頂で、下りたら話がある、とだけ言った。……それきり、何も言えなかった」


下りたら、話がある。


別れ話の前に、人はそう言う。三年前、七海も似た言葉を聞いた。今度、話がある。そう言った人とは、それきりになった。


「何を、話すつもりだったんですか」


「今さら何を言っても、言い訳になる」


「言い訳でもいい。聞かせてよ」


他人行儀な声は、続かなかった。


答えは返ってこなかった。


「病院の廊下で、湊さん、ずっと座ってたよね。あのとき、何を考えてたの」


「……千尋が、目を開けることだけだ」


それには、すぐに答えた。


「真柴さんは、湊さんがお姉ちゃんと一緒にいるのは、罪悪感のせいだって言ってた」


それにはまた、何も答えなかった。


七海は、両手を握りしめた。


「どのくらい、掴んでいられたの」


「……長かった。何分にも感じた」


その時間を、この人は今も、夜中に繰り返しているのだろうか。


「わざと離したなんて、思ってない。力が尽きたのなら、しかたないと思う。……でも、あの一瞬、心のどこかで」


その先は、言えなかった。


義兄が、ゆっくりとこちらを振り向いた。怒ってはいなかった。言い訳を探している顔でもなかった。


「わからないんだ」


静かな声だった。


「力が尽きたのか、そうじゃないのか。自分がしたことなのに、わからない」


義兄は、自分の右手を見下ろした。夜中に明かりもつけずに見ているという、あの手だった。


離していない、とは、最後まで言わなかった。


足もとから、床の冷たさが上がってきた。


否定してほしかった。そうじゃない、と言ってほしかった。


否定されたら、責める相手がいなくなるのに。姉からの電話を切ったのは、自分なのに。


三


義兄の携帯が震えた。


画面を見て一度だけ目を閉じ、それから電話に出た。


「……ああ。もうすぐ終わる。……うん、魚でいい」


いつもと同じ、穏やかな声だった。電話の向こうでは、姉が夕飯の献立を訊いている。夫がいま何を訊かれているのかを、知らない姉が。


この人はずっと、こうして声を変えずに暮らしてきたのだろうか。


電話を切ると、窓の幅を手帳に書き終え、鉛筆をしまった。


「千尋には、俺から話す」


「……何を」


「あの日のことを。七海さんが知っていて、千尋だけが知らないのは、違うと思う」


「お姉ちゃんが、壊れたらどうするの」


「千尋は、俺よりずっと強い」


少し間を置いて、義兄は言った。


「明日、うちに来てくれないか。千尋を、一人にしたくない」


「……話したら、出ていくつもりなの」


義兄は答えなかった。


これから姉を傷つけようとしている人が、姉を一人にしたくないと言う。


七海は、うなずくことしかできなかった。


玄関で靴を履きながら、義兄は段差の縁に指を置いた。


「お義母さんには、ここで何度も迎えてもらった」


引き戸が閉まる音がして、家の中が静かになった。


七海は、義兄が測った段差に腰を下ろした。母が最後にこの段差で立ち止まったとき、七海は後ろから、その腰を支えた。痩せた体の重さを、手のひらがまだ覚えている。


携帯を取り出し、「お姉ちゃん」の名前を画面に出して、また伏せた。


廊下の奥で、押し入れが口を開けていた。奥の暗がりには、まだ開けていない箱がいくつも残っている。


明日、義兄は姉に、あの日のことを話す。


その場に、自分もいることになる。


十二年前、姉の話を最後まで聞かなかった自分が。


(第4話 了)

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