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第3話 白い手すり

十四時三十二分。


両手の指に、彼女の重さがかかっていた。


腕が震えていた。指は、しびれていた。握っているのか、握っているつもりなのか、自分でもわからなかった。


だから、今も答えられない。


あの瞬間、俺は本当に、力を緩めなかったか。


一


日曜の午後、七海は坂の途中で足を止めた。沙耶に会った夜から、よく眠れていない。


姉の千尋と義兄の湊が暮らす家は、この住宅街のいちばん奥にある。結婚して三年目に建てた家で、図面は、義兄がすべて一人で引いた。通りから玄関まで、ゆるやかなスロープが続き、その片側に白い手すりが通っている。


引っ越しの日のことを覚えている。家具のない居間で、姉は窓に向かってカメラを構え、義兄はその後ろで、照れくさそうに図面を丸めていた。義兄が手がけた家を最初に撮るのは、仕事でも、いつも姉だった。


雑誌に載ったのも、この家だ。写真は、姉が撮った。


何度も来た家だった。けれど、その手すりに触れてみたのは初めてだった。四月の日差しの下でも、金属は冷たかった。


インターホンを押すまでに、少し時間がかかった。


ロックの外れる音がした。玄関の引き戸は、軽く手をかけただけで横に滑った。


「いらっしゃい」


廊下の奥から、姉が車椅子で出てきた。エプロンの紐が、片方だけほどけている。


「髪、はねてる」


靴を脱ごうとかがむと、姉が手を伸ばして前髪を直した。子どものころから、姉はこうする。お返しに、七海は姉のエプロンの紐を結び直した。


家の中にも、段差はない。靴を脱ぐところから廊下まで、床はどこまでも平らで、ドアはすべて引き戸だった。照明のスイッチは低い位置にあり、台所の調理台は、座ったままでも使える高さにそろえてある。


どこにも段差がなくて、どこにも影がない。


沙耶の声が、耳の奥で聞こえた気がした。


二


台所では、義兄が鍋をかき回していた。


「七海さん、座ってて。もうすぐできるから」


居間の棚に、あの雑誌が立てかけてあった。表紙には、スロープの白い手すりが大きく写っていた。


手に取って、ページをめくった。明るい写真ばかりだった。白い壁、大きな窓、光の差しこむ廊下。窓辺に立つ義兄の写真もある。光の中で、少しまぶしそうに笑っていた。


どの写真にも、姉は写っていなかった。撮る側にいるのだから、当然のことだった。


三人で食卓を囲むのは、母の一周忌以来だった。


義兄の煮物は、母の味に近かった。結婚したころに母から習ったのだと、姉から聞いたことがある。


「七海、ちゃんと食べてる? 夜勤明けみたいな顔してる」


「してないよ」


「してる」


姉は笑って、七海の皿に煮物を足した。それから義兄の器の椎茸を取り、代わりに自分の人参を入れた。どちらも、何も言わなかった。何年も繰り返してきたやりとりだった。


「お母さんの荷物、片づけるの手伝おうか」


「大丈夫。押し入れの箱なんて、ほとんどがらくただから」


「捨てられない人だったもんね」


姉は、少しだけ笑った。


義兄は、いつもと変わらなかった。姉の話にうなずき、ときどき短く笑い、七海のグラスが空くと黙って水を注いだ。ただ、七海と目が合うと、先にそらすのは義兄のほうだった。


食後、テーブルに図面が広げられた。実家の改修の、新しい図面だった。


「工事は、来月の半ばから始められる。山の見える部屋は、七海さんの部屋にしておいた」


居間の隣の部屋に、義兄の字で「七海」と書いてある。玄関の脇の小さな部屋には、「千尋」とあった。その部屋の窓は、山の見えない側を向いていた。


「押し入れは壊して、車椅子でも使える収納にする。中のものは、工事の前に出しておいてほしい」


姉が、図面の一か所を指さした。


「ここのスイッチ、もう少し低くして」


義兄は黙って消しゴムを取り、線を引き直した。


「工事の前に、あの家を撮っておくね」姉が言った。「玄関の段差も、ちゃんと残しておかなきゃ」


片づけが一段落すると、姉はソファに移ると言った。


車椅子をソファの横につけ、壁の白い手すりを片手で掴んだ。腕の力だけで体を持ち上げ、ソファへ移った。


義兄は手を貸さなかった。けれど、その両手は姉の腰のそばに浮いていた。触れはしなかった。


車椅子から移るときの、見守りの手だ。姉の体が傾いたら、すぐに支えられる。病棟で、新人に教える手の置き方と同じだった。


今の姉には、もう必要のない手だった。


「見てなくていいのに」


姉が笑うと、義兄は「見てないよ」と言って、両手を下ろした。


十二年前にも、この手は姉を掴んだ。病院の廊下で見た、ばんそうこうだらけの指を思い出した。


ずっと、愛だと思って見てきた手だった。それなのに今日は、その手に罪悪感を探している。そう気づいて、七海は視線を外した。


三


七海は洗面所を借りた。


洗面台の脇にも、トイレの壁にも、白い手すりが取りつけてあった。縦に、横に、何本も。


檻、と沙耶は言った。


鏡に映る手すりを見ないようにして、手を洗った。


台所に戻ると、姉が一人で皿を拭いていた。書斎のほうで、紙を丸める音がしていた。七海は隣に立って、残りの皿を洗った。


「湊ね、このところ、夜中に起きてるの」


姉は、皿から目を上げなかった。


「明かりもつけないで、そこの椅子に座って、自分の手をじっと見てる。前にも、そういう時期があったの。声をかけると、何でもないって言うの。ずっと、なかったのに」


蛇口の水が、七海の指のあいだを流れていった。


「……仕事、忙しいんじゃない?」


「そうかもね」


姉は拭き終えた皿を、棚の低い段に重ねた。


「七海は? ちゃんと眠れてる?」


「眠れてるよ」


沙耶のことは、言えなかった。


眠れていないのは、義兄だけではない。ホテルのラウンジで見た、化粧の下の薄い影を思い出した。


帰りぎわ、義兄が玄関の外まで送ってくれた。


「気をつけてね」と、家の奥から姉の声がした。引き戸が静かに閉まった。


日はもう暮れていて、スロープの白い手すりだけが、街灯の下でぼんやりと光っていた。


「工事が終わったら、千尋をときどき泊めてやってくれないか」


義兄は手すりに右手を置いたまま言った。


「千尋は、七海さんといると、よく笑うから」


七海がうなずくと、義兄は手すりに目を落とした。


あの人に訊けばいいわ、と沙耶は言った。今なら、二人きりだ。喉まで出かかった言葉を、七海は飲み込んだ。


手すりの上の、義兄の手を見ていた。


最後まで姉の手首を掴んでいた手。


あの日、別の人の手を取るはずだった手。


あの一瞬、この手は、本当に緩まなかったのだろうか。


(第3話 了)

初日は第1話~3話まで続けて投稿予定です。2日目以降は毎日1話ずつの投稿予定です。全15話になります。

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