第2話 罪悪感の檻
一
二日後の夕方、七海は駅前のホテルのラウンジにいた。
義兄の湊にも、姉の千尋にも、何も言わずに来た。
沙耶は窓際の席で待っていた。黒いコートは椅子の背に掛けてある。化粧で隠してはいるが、目の下に薄い影があった。眠れていない人の顔だ、と思った。病棟で、毎晩のように見る顔だった。
向かいに座ると、沙耶はテーブルの砂糖の小袋を、カップの横にまっすぐ並べ直した。左手の薬指には、何もなかった。
「来てくれないと思ってた」
「話を聞いたら、帰ります」
コーヒーを頼んだが、運ばれてきても手をつけなかった。
「帰国してから、ずっとここに泊まってるの」沙耶は言った。「久しぶりの東京に、帰る家がないのよ。向こうでも、ずっと借りた部屋だった。だから、建てたいの」
「義兄とは、どういう」
「大学のとき、付き合ってた。卒業するころに別れて、それきり。再会したのは二十八のとき、仕事の現場で」
沙耶はそこで言葉を切り、こちらを見た。
「あの人はもう、千尋さんと婚約してた」
沙耶は、少しだけ目を細めた。
「あなたのことも、あの人から聞いてた。看護師を目指してる、千尋さんの妹がいるって」
看護師には、なれたの。あの問いは、そこから来ていた。
「ベルリンの事務所から、私に声がかかったの。一緒に来て、と言ったのは私。行く、と答えたのは、あの人」
「姉と、婚約していたのに」
「先に出会ったのは、私よ」
沙耶の声が、そこだけ少し速くなった。すぐに、元の調子に戻った。
「だから、山で伝えると言ってた。千尋さんと出会った山だから、そこで始まったことは、そこで終わらせたいって」
窓の外で信号が変わり、人の群れが音もなく横断歩道を渡っていった。
「あの日、山を下りたら、あの人は私とベルリンへ行くはずだった」
「でも、行かなかった」
「行けなかったのよ。事故のことは、その夜のニュースで知ったわ」
「……連絡は、しなかったんですか」
「婚約者が大けがをしたと知って、できなかったわ。それから、一度も」
沙耶は、カップの持ち手の向きを指先で直した。
「事故がなければ、あの人は今ごろ、ベルリンにいた」
「証拠は、あるんですか」
「あの人に訊けばいいわ」沙耶は、まっすぐにこちらを見た。「否定はしないはずよ。そういう嘘は、つけない人だから」
昔の知り合いだよ、と言った義兄の声を思い出した。嘘ではなかった。本当のことを、言わなかっただけだ。
「……どうして、今になって」
「四十になったの」
沙耶は、窓の外を見た。
「帰国の荷物は、段ボール六つだった。向こうに長くいて、それだけ。……空港の本屋で、あの雑誌を見たの」
声は、もう落ち着いていた。
「あの家、どこにも段差がないでしょう。つまずく場所も、ぶつかる場所もない。……けんかもできない家よ」
姉たちがけんかをするのを、見た覚えがない。言い合いになりかけると、いつも義兄が先に黙る。姉が笑って、それで終わる。仲がいいのだと、ずっと思っていた。
「義兄は、姉のことを考えて」
「ええ。十二年、一日も休まずにね」沙耶は小さく息を吐いた。「あれは家じゃない。罪悪感でできた檻よ」
事故から一か月後、義兄は病室で、脚の動かなくなった姉に改めて結婚を申し込んだ。ベッドの横の丸椅子に座り、姉の手を両手で握っていた。病室の入口でそれを見ていた母は泣いた。七海も泣いた。
あのプロポーズまで、この人は罪悪感だと言うのだろうか。
「義兄は、姉を大事にしています」
言いながら、自分の声が硬いのがわかった。
沙耶は答えなかった。伝票を手元に引き寄せ、立ち上がった。
「どうして、わたしに話すんですか」
「私が言っても、誰も聞かないでしょう」沙耶はコートを腕に掛けた。「それに、あなたは看護師だもの。何かを抱えたまま笑っている人の顔なら、見慣れてるはずよ」
「眠れていない人の顔も、見慣れています」
腕に掛けたコートの上で、沙耶の指が止まった。
沙耶は、しばらくこちらを見下ろしていた。
「お姉さんは、罪悪感で縛られた人と暮らしているのよ」
ヒールの音が遠ざかっていった。
テーブルには、並べ直された砂糖の小袋と、口をつけないまま冷えたコーヒーが残った。
二
実家に着いたときには、日が暮れていた。
七海は明かりもつけずに、玄関の段差に腰を下ろした。工事が始まれば、この段差もなくなる。
家の中は、母が亡くなった冬のままだった。台所には母の湯のみが伏せてあり、押し入れには、母が何でもしまい込んだ箱が詰まっている。工事の前に、全部片づけなければならない。
居間の窓の向こうは、もう暗かった。昼間なら見える山も、今は見えない。
携帯が震えた。「お姉ちゃん」から、メッセージが届いていた。
『日曜、うちでご飯食べない? 湊が、図面の続きを見せたいって』
電話をかけて、訊けばいい。沙耶という人を知っているか。あの日、義兄に何か言われなかったか。
指は、通話のボタンに触れなかった。
画面の「お姉ちゃん」という文字を見ているうちに、十二年前の朝がよみがえった。
三
あの朝、七海は大学病院のロッカー室にいた。看護学生として、新しい実習先の病棟に初めて出る日だった。まだ見慣れない名札を、鏡の前で何度も確かめていた。
携帯が鳴った。画面に「お姉ちゃん」と出ていた。姉は義兄と、北アルプスの山に入っていた。電話は、山小屋からだった。山に入ると、姉はめったに電話をしてこない。珍しい、と思ったのを覚えている。
「七海、私ね……」
姉の声は小さかった。後ろで、風が鳴っていた。いつもより声が低かった気もする。それも、あとからそう思うだけかもしれない。
廊下の向こうで、指導の看護師が学生の名前を呼びはじめていた。
「ごめん、これから実習なの。あとでかけ直すね」
返事を待たずに、切った。
夕方、母から電話があった。姉が、山で落ちた。
病院に着いたのは夜だった。集中治療室のガラスの向こうに、管につながれた姉が見えた。廊下の長椅子では、義兄が膝の上で両手を握りしめていた。服には、乾いた泥がついたままだった。両手の指には、血のにじんだばんそうこうが何枚も巻かれていた。岩の上で姉の手首を掴んでいた手だと、あとで警察の人から聞いた。
三日後に目を覚ました姉に、電話のことは訊けなかった。姉も、何も言わなかった。
かけ直すはずだった電話は、それきりになった。
あの朝、姉は何を言おうとしていたのか。あれからずっと、答えの出ないまま考えてきた。
玄関の暗がりで、携帯の画面だけが光っていた。
聞かなかったのは、自分だ。
けれど、姉を裏切ろうとしていたのは、義兄だ。
そう思ったとたん、胸の奥が少しだけ軽くなった。その軽さが、怖かった。
画面の上で、指がしばらく止まっていた。
『行くね』
送信して、画面が暗くなるまで見ていた。
(第2話 了)
初日は第1話~3話まで続けて投稿予定です。2日目以降は毎日1話ずつの投稿予定です。全15話になります。




