第1話 段差のない家
十四時三十二分。
手のひらの中で、彼女の手首が回った。
指をすり抜けて、親指と人差し指のすきまへ。握った手の、いちばん弱いところへ。
握り直そうとした。少なくとも、そう覚えている。
けれど手のひらは、もう何も握っていなかった。
十二年経っても、あの手首の回り方だけははっきり思い出せる。思い出せないのは、その一瞬、自分の指に何が起きていたかだけだ。
あのとき、彼女はまだ妻ではなかった。
一
「玄関の段差は、全部なくします」
義兄の湊が、鉛筆で図面の玄関から廊下へ一本の線を引いた。
去年の冬、母はその段差の前で何度も立ち止まり、壁に手をついて息を整えていた。その冬の終わりに、母は亡くなった。
あれから一年と少し、あの家には七海しか住んでいない。
姉の千尋が泊まれる家にしたい、と義兄に頼んだのは自分だった。泊まれる、と言ったのは、帰ってきて、とは言えなかったからだ。
窓の外は、四月の午後の光だった。通りの向かいのバス停に、黒いコートの女が一人、立っていた。
「スロープは緩めにします。千尋なら急でも上がれるけど、雨の日は滑るから」
「私は平気よ」
隣で、姉が言った。車椅子の車輪に軽く手をかけたまま、図面をのぞきこんでいる。
「平気でも、楽なほうがいい」
義兄は顔を上げずに答え、トイレの壁に手すりを描き足した。高さは床から六十八センチ。車椅子から便座へ移るとき、姉の腕にいちばん力が入る高さだ。義兄は姉の身体を、たぶん姉自身よりもよく知っている。
病棟では、介護する側とされる側に分かれていく夫婦をいくらでも見る。姉たちは、そうならなかった。
「居間の大きな窓は引き戸にして、庭から出入りできるようにします。隣の和室は洋室にして、千尋が泊まる部屋に」
「お母さん、あの窓から山を見るのが好きだったね」
七海が言うと、義兄の鉛筆がわずかに止まった。
実家の居間からは、晴れた日にだけ、遠くに低い山並みが見える。
事故の前、姉は山ばかり撮っていた。頂上にカメラを置き、十秒ごとに自動でシャッターが切れるようにして、何時間も山を撮り続ける人だった。あれから姉は、山を一枚も撮っていない。
「私は、玄関の脇の部屋でいい」姉が言った。「車から近いし」
少し間を置いて、姉はこちらを見た。
「山の見える部屋は、七海が使って」
昔からそうだった。二つあれば、姉は必ずいいほうをくれた。おやつも、窓際の席も、母の形見の指輪も。
姉が、膝の上で右の手首を左手で包んだ。冷え性だからと、姉は言う。
十二年前、姉は北アルプスの岩場から落ちた。岩の上でその手首を掴んだのが、義兄だった。当時はまだ、婚約者だった。
姉の脚は、それきり動かなくなった。頭も強く打っていて、落ちる直前の数秒のことは覚えていないと言う。頭を打った患者には、よくあることだ。
「居間のカーテンは、厚手にしようか。西日が入るから」
姉が言い、義兄が「そうだね」と応えた。山の話は、それで終わった。
通りの向かいで、女は来たバスを二台とも見送った。
三時少し前、姉は腕時計を見た。
「ごめん、そろそろ行かなきゃ。世田谷の現場、光がいいのは今日だけなの」
カメラバッグを膝に載せ、姉は自分で車椅子を回した。義兄は立ち上がらず、ドアを押さえることもしない。姉がそうされるのを嫌うと知っているからだ。
光を読むには、影から見るの。姉はいつか、そう言っていた。
ドアの前で、姉は一度だけ振り返った。図面にかがむ義兄の背中を、写真を撮る前のような目で見て、何も言わずに出ていった。
姉の白い車が角を曲がるまで、義兄は窓から目を離さなかった。七海は、見なかったことにした。姉がこの人のものだと思い知らされるのは、いつも少しだけ胸が痛む。
バス停には、もう誰もいなかった。
「工務店から直接連絡が行くこともあるから」
義兄は図面の右下の欄に、依頼主として七海の名前と携帯番号を書き込んだ。
ドアベルが鳴ったのは、そのときだった。
二
入ってきたのは、黒いトレンチコートの女だった。
肩までの髪を耳にかけ、背筋をまっすぐに伸ばしている。四十歳前後。化粧は薄いのに、輪郭がくっきりと見える人だった。
「アポイントもなしに、ごめんなさい」
女は事務所の中を見回し、それから義兄を見た。
「家を建てたいの」
義兄は、いつの間にか立ち上がっていた。
三秒ほど、誰も動かなかった。エアコンの送風音と、隣のビルの工事の、くぐもった打撃音だけが聞こえていた。
「……沙耶」
義兄が姉以外の女性の名前を呼び捨てで言うのを、初めて聞いた。
「紹介するよ」義兄はこちらへ手のひらを向けた。「義妹の、七海さん。──こちらは大学の同期で、建築士の真柴さん」
「真柴沙耶です」
沙耶は軽く頭を下げ、それから、ゆっくりと言った。
「義妹さん」
舌の上で、その言葉の重さを量るような言い方だった。沙耶は少しだけ目を細めて、七海の顔を見た。
「七海さん。……看護師には、なれたの?」
七海は、自分の仕事を口にしていない。義兄もだ。なれたの、という言い方は、看護師になる前の七海を知っている人のものだった。
「……はい」
答えながら、義兄を見た。その目が一瞬だけ、姉の出ていったドアのほうへ走った。
「よかった」
沙耶は、それ以上は訊かなかった。
「家の図面なら、君は自分で引けるだろう」義兄が言った。声は、いつもと変わらなかった。
「自分の家だけは、図面が引けないの」
沙耶は壁に目を向けた。事務所の壁には、姉が撮った義兄の建物の写真が何枚も掛かっている。
「雑誌、拝見しました。ご自宅の特集。きれいなお家ね。どこにも段差がなくて、どこにも影がない」
最後のひと言だけ、声が少し低かった。
沙耶の視線が、テーブルの図面に落ちた。
「拝見しても?」
答えを待たずに、沙耶は図面の端を指先で押さえた。スロープの線をなぞるように目が動き、玄関、廊下、居間の窓へと進み──右下の隅で、止まった。
ほんの一瞬だった。
「いいスロープ。緩やかで」
沙耶は顔を上げて、微笑んだ。
「今日は打ち合わせ中だから」義兄が言った。「改めて連絡をもらえるかな」
沙耶はコートのポケットから名刺を一枚出し、図面の上に置いた。義兄の側ではなく、こちらの側に。名刺の角を、図面の枠の線にきっちりとそろえてから、指を離した。
「急がないわ。いつでも連絡して」
ドアベルがもう一度鳴って、事務所に午後の音が戻ってきた。
義兄は名刺を拾い上げた。右手の親指が、名刺の縁を押している。紙が、わずかに反るほどに。
「あの人、どうしてわたしのこと」
「昔の知り合いだよ」
義兄はそう言って椅子に戻り、何事もなかったように定規を当てた。線は迷わなかった。ただ、さっきまでより、ずっと濃かった。
三
三日後の朝、九時を少し過ぎたころ、夜勤明けのロッカー室で携帯が震えた。
知らない番号だった。ナースシューズを脱ぎかけたまま、七海は携帯を耳に当てた。
「早坂七海さん?」
低く、落ち着いた声。すぐに分かった。
「真柴です。先日、事務所で」
番号をどこで、と訊きかけて、図面の右下の隅を思い出した。そこで止まった、あの視線を。
「突然ごめんなさい。一度だけ、お会いできないかしら。お姉さんのことで、話しておきたいことがあるの」
廊下の向こうで、ナースコールのメロディが鳴っては止んだ。
「……姉のことなら、姉に訊きます」
それで終わるはずだった。耳から携帯を離すより先に、沙耶の声がした。
「あの日、湊は山頂で、千尋さんに別れを告げるはずだったの」
ナースコールの音が、急に遠くなった。
あの日。十二年前、姉が岩場から落ちた日。
落ちていく姉の手首を最後まで掴んでいたのは、義兄の手だった。
(第1話 了)
初日は第1話~3話まで続けて投稿予定です。2日目以降は毎日1話ずつの投稿予定です。全15話になります。




