第10話 復元
一
業者の事務所は、駅から少し歩いた古いビルの三階にあった。
火曜の午後、七海はその階段を上った。夜勤明けで、足が重かった。捨てて。お願い。姉の千尋の声が、一段ごとに耳の奥で鳴った。ドアを開けると、机が三つ並んでいるだけの部屋だった。窓際の机から、四十代くらいの男が立ち上がった。
七海は、タオルの包みを開いた。男はカメラを受け取ると、横のふたを開けてカードを抜いた。太い指が、驚くほど細かく動いた。光にかざすようにして、眺めた。
「十二年、ですか」
「はい」
「このカードに、あとから何か書きこんだことは」
「ありません。……たぶん、誰も」
男は、小さくうなずいた。
「消したのは、ご本人ですか」
七海は、答えられなかった。
「このカメラ、何かあったんですか。底に、ずいぶん傷がある」
「……持ち主が、山で事故に遭いました」
男は、黙った。それから、カメラをそっと机に置いた。
「消しただけなら、中身がまだ残っていることがあります。上から新しいものを書きこまないかぎり、見えなくなっているだけですから。中を調べてみないとわかりませんが、消されたあとに使われていなければ、望みはあります」
「全部、戻りますか」
「約束はできません。これだけ年月がたつと、カードそのものが弱っていることもある。戻っても、途中が抜けたり、壊れていたりします」
男は、カードを小さな袋に入れ、封をした。
「どんな写真ですか」
「山です。頂上にカメラを置いて、十秒ごとに撮った写真です」
「インターバルですね」
男は、目を上げた。
「大事な写真ですか」
七海は、すぐには答えられなかった。
「……見なければいけない写真です」
男は、七海の顔を一度だけ見た。それ以上は訊かなかった。一週間ほど、とだけ言った。
依頼書の「ご依頼の理由」の欄で、ペンが止まった。少し考えて、「家族の記録」と書いた。
階段を下りると、足が少しふらついた。夜勤明けのせいだけではなかった。
二
待つあいだ、七海は同僚の夜勤を一つ代わった。眠れない夜は、病棟で過ごすほうが楽だった。
二日目の夜、ナースステーションの電話が鳴った。入院している女性の娘からだった。母親の容体を、遠くから何度も確かめてくる人だった。
話は長かった。同じことを、何度も訊かれた。七海は、受話器を置かなかった。最後に娘が「ありがとうございました」と言うまで、黙って聞いていた。
「早坂さんって、電話、ほんとに切らないよね」
受話器を置くと、隣の同僚が笑った。七海は、少しだけ笑い返した。
鳴っている電話を、途中で切ったことはない。あの朝から、一度も。電話を切ったあの日に、何が起きたのかを知っているからだ。
あの日の午後のことを、七海は細かく覚えている。
実習で最初に受け持ったのは、心臓の手術から一週間ほどたった男性だった。指導の看護師に見られながら、七海はその人の手首に指を当て、脈を数えた。乾いた、あたたかい手首だった。一分間に、七十二。乱れはなかった。記録の用紙に書きこんだ時刻は、十四時三十二分だった。脈の取り方がきれいね、と指導の看護師がほめてくれた。七海は、少しだけ得意になった。
姉が落ちた時刻を知ったのは、ずっとあとになってからだった。警察の書類には、義兄の湊の話として、その時刻が書かれていた。山頂からの通報が十四時三十三分で、落ちたのはその直前だという。書類は薄かった。足もとの岩が崩れた事故で、事件性はない。荷物は翌日には返された、とあった。カメラの中身に触れた行は、どこにもなかった。実習の記録は、今も取ってある。
十四時三十二分。
同じ時刻に、七海は知らない人の脈を数えていた。落ちていく姉の手首を、義兄が掴んでいた、そのときに。
あの朝、電話を最後まで聞いていたら。何かが、違っていたのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
三日目は、夜勤明けだった。眠れないまま、七海は実家の片づけを続けた。母の箱をすべて運び出すと、玄関脇の部屋の押し入れは、思っていたより広かった。空になった奥の暗がりを、七海はしばらく見ていた。
義兄からは、何の連絡もなかった。カメラをどうしたのかも、一度も訊いてこなかった。
姉は捨ててと言い、義兄は何も訊かない。姉が目をそらすのは、つらいからだろう。義兄が目をそらす理由は、わからなかった。見ようとしているのは、自分だけだった。
四日目、姉からメッセージが届いた。
『工事、来週からね。何か手伝えることがあったら言ってね』
カメラのことには、触れていなかった。捨てた、と姉は思っている。七海が、そう思わせたのだ。
『ありがとう。大丈夫』とだけ返した。
工事のあいだは、病院の近くに部屋を借りることにした。
三
一週間後の昼、業者から電話があった。病院の休憩室で、弁当のふたを開けたところだった。
「一部ですが、戻りました」
男の声は、事務的だった。一部、という言葉だけが、耳に残った。
仕事を終えて事務所に行くと、男は小さなUSBメモリを机に置いた。
「百四十枚ほどです。撮った時刻の記録も、残っていました」
「……時刻も」
「ええ。一枚ごとに。ただ、ところどころ抜けています。壊れていて、戻せなかった分です。抜けは、最後のほうに多い」
男は、間を置いた。
「中は、見ていません。ファイルの名前と、枚数だけです」
七海は、USBメモリを受け取った。軽かった。こんなに軽いものの中に、あの日が入っているとは思えなかった。
帰りぎわに、男が言った。
「いい写真だと、いいですね」
帰りの電車で、七海は何度も、かばんの上からUSBメモリの形を確かめた。姉にも、義兄にも、言わなかった。最初に見るのは、自分だけでいいと思った。
その夜、病院の近くに借りたばかりの部屋で、七海はそれをパソコンに差しこんだ。実家では、もう工事が始まっていた。部屋の明かりを消し、画面の光だけにした。
フォルダを開く前に、しばらく画面を見つめていた。
見てしまえば、もう戻れない。見なければ、何もわからないまま、義兄を疑い続けることになる。
十二年前、姉の話を最後まで聞かなかった。今度は、最後まで見る。
七海は、フォルダを開いた。
小さな四角い写真が、画面いっぱいに並んだ。一枚ごとに、撮った時刻が添えてある。十三時五十分。十三時五十分十秒。十三時五十分二十秒。十秒ずつ、あの日の時間が刻まれていた。ところどころで、その時刻が二十秒、三十秒と飛んでいる。多くは、岩と空ばかりだった。ところどころに、小さく人の姿が写っている。
いちばん最初の一枚を、開いた。
青い空。白っぽい岩。遠くに連なる山並み。風の音まで、聞こえてきそうだった。
息を止めていたことに、あとで気づいた。
十二年前の山頂が、そこにあった。
(第10話 了)




