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第11話 十四時二十分

十四時三十二分。


彼女の手首は、細かった。


片手の指が、回って余るほどに。


こんなに細かったのかと、あのとき初めて知った。


その細さを、今も指が覚えている。


一


七海は一枚ずつ写真を進めていった。十秒ずつ、あの日の時間が動いた。ところどころで、時刻が二十秒、三十秒と飛んだ。戻らなかった分だ。


最初の数枚には、誰も写っていなかった。岩と、空と、遠くの山並み。


やがて、画面の手前から、姉の千尋の後ろ姿が歩いて入ってきた。カメラを据え終えて、義兄の湊のいるほうへ戻っていくところだった。


写真は、少し離れたところから、山頂全体を広く写していた。人の姿は小さく、顔までは見分けられない。それでも、背中の形で、姉だとすぐにわかった。自分の脚で歩く姉を見るのは、十二年ぶりだった。


十四時ちょうど。二人は並んで岩に腰を下ろしていた。水筒の湯気が、白く写っていた。姉が、水筒のふたを義兄に差し出していた。


十四時八分。二人とも、遠くの山を見ていた。手を伸ばせば届くほどの距離だった。


十四時十二分。姉が立ち上がり、写真の右端へ歩いていった。次の一枚で、姉の姿は岩の向こうに消えていた。


それから、義兄だけが写っている写真が続いた。義兄は、カメラのほうを一度も見なかった。そこに自分が写っていることを、忘れているようだった。


十四時十五分から何枚か、義兄は姉の消えた岩のほうを向いたままだった。


十四時十八分。義兄は、ザックから何かを取り出していた。白い、四角いもの。


七海は、その一枚を画面いっぱいに拡大した。粗い粒の向こうに、封筒の形が見えた。


十四時十八分五十秒から、十四時十九分三十秒まで。五枚続けて、義兄は封筒を両手に持ったまま、同じ姿勢でいた。十秒おきの写真の中で、義兄だけが止まっていた。


十四時十九分四十秒。七海は息をのんだ。封筒が、二つに裂けていた。


十四時十九分五十秒。四つに。


十四時二十分。義兄の手元から、白い紙片が風にさらわれて、写真の左上へ散っていた。


次の一枚では、義兄は携帯電話を手にしていた。うつむいて、何かを打っている。その次も、同じだった。


十四時二十分四十秒。義兄は携帯をしまい、空を見上げていた。顔の向きは、次の何枚も変わらなかった。


十四時二十三分。岩の向こうから、姉が戻ってきた。義兄が立ち上がり、姉のほうを向いた。


その先は、抜けが多かった。ところどころに残った写真の中で、二人の姿は見えたり消えたりした。続きの最後は、十四時三十一分二十秒だった。姉が、カメラに近い山頂の縁に立っている。下り口らしかった。義兄はザックを背負い直している。写真は、そこで途切れていた。


七海は十四時二十分の一枚に戻った。


ほかの登山者は、どの写真にも写っていなかった。封筒を渡す相手がいたとすれば、姉しかいない。義兄はそれを、姉が岩の向こうへ消えているあいだに取り出し、五十秒迷ってから、破った。


別れを告げるつもりだった、と義兄は言った。あの封筒が、その言葉を書いた手紙だったのなら、義兄はそれを、姉に渡さずに破り捨てたことになる。


そして、その直後に打っていた相手は、誰だったのか。


あの朝、姉は山小屋から電話をかけてきた。小屋でつながったのなら、山頂でも、携帯はつながったのだろう。


七海は椅子の背にもたれた。何週間も信じてきたものが、音もなく崩れていく気がした。それでも、あの一瞬のことは、まだ何もわからなかった。


二


翌日の夕方、七海は駅前のホテルのラウンジにいた。


ラウンジには、前と変わらないコーヒーの匂いがしていた。朝のうちに電話をかけると、沙耶は何も訊かずに時間を決めた。あの日と同じ窓際の席で、沙耶は待っていた。化粧の下の影は、前よりも濃くなっていた。


「お話が、あります」


七海はタブレットを沙耶の前に置いた。十四時十九分四十秒から、十四時二十分までの三枚。破れていく封筒と、風に散る紙片。


沙耶は画面を見た。表情は、動かなかった。けれど、カップの持ち手にかけた指が、そのまま止まっていた。


「……破ったのね」


沙耶の声は、かすれていた。風に散っていく紙片を追うように、沙耶の目は画面の左上から離れなかった。


「手紙を書いたって、言ってたの。山頂で、千尋さんに渡すって」


やはり、手紙だった。


七海は次の一枚を見せた。携帯を手に、うつむいて何かを打つ義兄。写真の隅の時刻を、指で示した。


十四時二十分十秒。


「この時間に、真柴さんに、何か届きませんでしたか」


沙耶は長いあいだ黙っていた。窓の外で、信号が何度か変わった。


やがて、沙耶はバッグから携帯を取り出した。何度か画面を動かし、こちらに向けた。


十二年前の日付だった。時刻は、十四時二十分。


『行けない。ごめん』


たった七文字だった。


行けなかったのよ、と沙耶は言った。あの言葉は、このメールから来ていたのだ。


「姉が落ちたのは、十四時三十二分です」


「……十二分前ね」


沙耶は、自分の携帯を見下ろしたまま言った。


「携帯を替えるたびに、これだけは移してきた。消せなかった。消したら、本当に終わってしまう気がして」


「どうして、黙ってたんですか」


七海の声が、震えた。


「事故がなければ、あの人はベルリンにいたって。行けなかったって。……あれは、嘘だったんですね」


「嘘にしたかったのよ」


沙耶はようやく顔を上げた。


「選ばれなかったなんて、認めたくなかった。あの人は、事故のせいで行けなかった。そう思っていれば、私は捨てられたことにならない」


沙耶は画面を伏せた。


「それに、壊したかった。あの人が、千尋さんを選んだ結婚を」


十二年、沙耶はこのメールを持っていた。義兄が姉を選んだという証拠を。そして七海には、その反対の半分だけを渡したのだ。


「ニュースで事故を知ったとき、自分が何を思ったか。今でも、口にはできない」


沙耶は、伏せた携帯の上に手を置いたまま、窓の外を見た。


「千尋さんの言ったとおりだった。あの人は、自分で選んで、あそこにいた」


七海は、何も言えなかった。


伝票を手元に引き寄せて、沙耶は言った。


「家は、ほかの人に頼むわ」


七海は、うなずいた。


「ここは、私が払うわ。……最後だから」


七海が席を立つまで、沙耶は窓の外を見たままだった。


沙耶の話を信じたのは、自分だった。信じたかったのも、自分だった。


三


借りている部屋に戻ると、業者の男からメールが届いていた。


『最後のほうの、壊れていたファイルのうち、二枚だけ戻せました。残りは、戻せませんでした』


短い文面に、ファイルが二つ添えてあった。名前に、撮った時刻が入っていた。


十四時三十二分。


十四時三十二分十秒。


あの時刻の一枚。そして、その十秒後の一枚。


七海は、画面の前で動けなかった。ファイルの名前の上に矢印を合わせては、また外した。


開けなかった。


今度は、最後まで見る。そう決めたはずだった。けれど、一人で見てはいけない気がした。これは、姉と義兄の十秒だった。


七海は、二人に同じ文面を送った。


『見てほしいものがあります』


(第11話 了)

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