第12話 消したのは
一
翌日の夜、七海は姉夫婦の家を訪ねた。
玄関で迎えた義兄の湊は、何も訊かなかった。七海のかばんの膨らみに、一度だけ目をやった。廊下の旅行かばんは、もうなかった。
居間の明かりが、いつもより暗く見えた。姉の千尋が、すでにテーブルについていた。義兄がその隣に座った。並んではいたが、二人のあいだには、椅子一つ分の隙間があった。
七海は、ノートパソコンをテーブルに置いた。その横に、タオルでくるんだカメラを置いた。
二人の視線が、包みの上で止まった。
「……お姉ちゃん。ごめん。捨ててない」
姉の顔から、すっと色が引いた。膝の上で、左手が右の手首を包んだ。
「カードは、空だった。写真は、一枚も残ってなかった」
七海は、姉ではなく、義兄を見た。何週間も、この人を疑ってきた。喉が、からからに乾いていた。
「消したのは、誰?」
義兄は答えなかった。黙って、タオルの包みを見ていた。
エアコンの風の音だけがしていた。七海の耳の奥で、自分の脈が鳴っていた。
「……私」
小さな声だった。七海が、最初に消した答えだった。
義兄が、ゆっくりと姉のほうを向いた。その顔から、何かが抜け落ちていくのが見えた。
「病院で。目が覚めて、しばらくしてから。看護師さんに頼んで、カメラを出してもらったの。画面を見ないようにして、全部消すを押した。お母さんに捨ててって頼んだのも、そのとき」
姉はタオルの包みを見たままだった。
「見たくなかった。あの日のことは、何も」
見ないまま、全部を消したのだ。落ちる前の数秒を覚えていないという姉が、目を覚ました姉がしたのは、あの日を消すことだった。つらすぎる記憶から自分を守ろうとする患者を、七海は病棟で何人も見てきた。
「……そうか」
義兄の声は、かすれていた。
「俺も、見るのが怖かった。だから、十二年、一度も訊けなかった」
義兄はタオルの包みに目を落とした。
「レンズのふたを閉めたのは、俺だ。病室で。……それしか、できなかった」
病室で、カメラを膝に載せたまま動かなかった義兄。あれは、何かを隠す仕草ではなかった。見ることが、怖かったのだ。
この何週間、義兄は何も言わずに、疑われる側に立っていた。
二
「でも、戻ったの。一部だけ」
七海はパソコンを開いた。
「見なくていい。お姉ちゃんが見たくないなら、閉じる」
姉は、長いあいだ画面の暗いところを見ていた。暗い画面に、三人の顔がうっすらと映っていた。それから、姉は小さくうなずいた。
二日前の晩、一人で見た写真を、今は三人で見ていた。
画面の手前から、姉の後ろ姿が歩いて入ってきた。自分の脚で。
「……歩いてる」
自分の脚で歩く自分の姿を、姉が見るのは、あの日以来のことだった。
姉の唇が、震えた。義兄は目を閉じた。
並んで座る二人。水筒の湯気。姉が差し出している、水筒のふた。その一枚を、義兄は長く見ていた。
十四時十二分、岩の向こうへ消えていく姉。その後ろ姿を、姉は瞬きもせずに見ていた。
義兄だけが写っている写真で、七海の指が止まった。この先を姉に見せていいのか、わからなかった。
「……進めて」
姉が言った。
封筒を両手に持ったまま、五十秒動かない義兄。二つに、四つに裂けていく封筒。風に散っていく、白い紙片。
義兄は画面から目をそらさなかった。
姉の手が、手首から離れた。その手が、口元を覆った。
「この十秒後に、湊さんは、真柴さんにメールを送ってた。『行けない。ごめん』って」
「……ああ。打った。あそこで」
姉が、義兄を見た。初めて見る人を見るような目だった。
姉が、崩れた。
声は、出なかった。車椅子の上で、体を二つに折るようにして、姉は泣いていた。肩が、何度も大きく上下した。
「……ずっと、ここにあったのに」
途切れ途切れの声だった。
「ずっと、私のカメラの中に、あったのに」
姉は、タオルの包みに手を伸ばし、カメラを胸に抱えこんだ。
夫が自分を選んだ証拠を、姉は自分の手の中に持ったまま、見ないで消してしまったのだ。姉の十二年分の傷が、今、ようやく泣いているのだと、七海は思った。
義兄は動けずにいた。姉の背中へ伸ばしかけた手が、宙で止まっていた。
三
宙で止まっていた手が、やがて、姉の肩にそっと置かれた。
姉はその手を払わなかった。ずっと姉のそばで宙に浮いていた手が、初めて姉に触れたように、七海には見えた。
「……あの日、下りたら話がある、と言った」
義兄の声は、低かった。
「千尋が岩の向こうへ行ったあと、水筒のふたが、岩の上に残ってた。注いでくれたお茶が、半分入ったままだった。……それを見ていたら、渡せなくなった」
義兄はそこで息をついだ。
「好きな人がいたことも、その人と行く約束をしていたことも、全部話して、謝るつもりだった。許してもらえなくてもいい。それでも、千尋と一緒に生きたいと、言うつもりだった」
最後のところで、義兄の声がかすかに揺れた。
下りたら、話がある。あの言葉は、別れ話の前置きではなかったのだ。
姉の泣き声が、止まった。顔は、上げなかった。
「言う前に、あんなことになった」
義兄は、姉の肩に置いた自分の手を見た。
「あの一瞬、この手が緩まなかったか。十二年、ずっとそれを考えてきた。千尋を選んだはずなのに、最後の最後で、心のどこかが手を離したんじゃないかって」
七海は、息をのんだ。実家の窓の前で聞いたのと同じ問いを、義兄は今、姉の前で口にしていた。
姉の体が、こわばった。カメラを抱く腕に、力がこもった。
肩に置かれた義兄の手のほうへ動きかけていた姉の手が、途中で止まった。
七海は、写真を先へ進めた。岩の向こうから戻ってくる姉。飛び飛びに残った数枚。十四時三十一分二十秒、下り口に立つ姉と、ザックを背負い直す義兄。続きは、そこで終わっていた。
「……あと、二枚あるの」
七海の声が、静まりかえった居間に、ぽつりと落ちた。
フォルダのいちばん最後に、まだ誰も開けていないファイルが二つ残っていた。
十四時三十二分。
十四時三十二分十秒。
義兄が、画面を見た。その目は、もう揺れていなかった。
「千尋。……いいか」
姉は、答えなかった。カメラを抱えた腕の中で、姉の指が、右の手首を探していた。
「開けてくれ」
迷いのない声だった。
姉は、カメラを胸に抱えたまま、何も言わなかった。濡れた目が、画面の二つの名前を、じっと見つめていた。
ファイルの名前の上に、矢印を合わせた。十二年前に切った電話の続きが、そこにある気がした。
七海は、一枚目を開いた。
(第12話 了)




