第13話 十四時三十二分
十四時三十二分。
指の骨が、きしんでいた。
それほど強く、握っていた。握っていたと、思う。
けれど、それを確かめるのが、怖かった。
あの瞬間を見ていたのは、俺と、彼女だけだった。
一
七海は姉の千尋の顔を見られなかった。画面だけを見た。
画面が一瞬白くなり、それから、岩が広がった。空には、雲が一つもなかった。
前の一枚は、十四時三十一分二十秒。そこから四十秒が、抜けている。
山頂の縁だった。前の一枚で姉が立っていた、下り口のあたりだ。二人が座っていた岩より、ずっとカメラに近い。岩の上に、義兄の湊が腹ばいになっていた。背中のザックは、横にずり落ちていた。そのそばに、姉の帽子が一つ、転がっていた。山へ行くたびにかぶっていた、つばの広い帽子だった。
両腕を、岩の縁の向こうへ突き出している。その両手が、下から伸びた細い手首を掴んでいた。
姉の手首だった。
姉の体は、岩の縁の向こうに隠れていた。見えるのは、肘から先と、仰向けに持ち上がった顔の半分だけだった。その顔は、上にいる義兄を見上げていた。表情までは、粒が粗くて読み取れなかった。脚と、もう片方の腕は、岩の向こうの見えないところにあった。
義兄の顔も、粒が粗くてつぶれていた。ただ、向きだけはわかった。足もとの岩ではなく、下にいる姉のほうだけを向いていた。
義兄の胸の下の岩には、黒い筋が一本、斜めに走っていた。
居間の誰も、息をしていなかった。エアコンの風の音さえ、遠くに聞こえた。義兄が、小さく声をもらした。言葉にはならなかった。
七海は画面に顔を近づけた。
義兄の両手は、一本の手首の上で重なっていた。指の関節が、岩の角に押しつけられていた。今も残る、あの白い傷の場所だった。その手に掴まれた姉の手首。その先の、姉の手。
姉の指は、義兄の手首を掴んでいなかった。
開いたまま、そこにあった。義兄の手首の内側に、指先がかすかに触れているようにも見えた。触れているだけだった。
「……お姉ちゃんの手」
言いかけて、七海は言葉を探した。病棟で、何度も見てきた手だった。力が抜けて、もう何も掴めなくなった手。
「この時点で、お姉ちゃんにはもう、握力が残っていなかったんだと思う」
落ちかけた瞬間に、頭を岩に打ったのかもしれない。体の重さを、細い手首一本で支えていた。痛みと、恐怖と、下へ引かれていく体。人の指は、そういうとき、自分の意思とは関係なく開いてしまうことがある。看護師として、七海はそれを知っていた。説明しながら、自分の声がどこか遠くで鳴っているように感じた。
義兄の目が、写真の中の姉の指に落ちた。
姉は、うなずかなかった。何も言わず、画面の中の、開いた自分の指を見ていた。それから、見上げている自分の顔を、長いあいだ見ていた。
カメラを抱えていた姉の腕が、ゆっくりとほどけた。空いた左手が、膝の上で右の手首を包んだ。
義兄の肩が、小さく震えていた。画面から、目を離さなかった。
「……掴んでは、いるんだな」
自分の手を、義兄は初めて外から見ていた。
「だったら」
かすれた声だった。
「俺が、もっと強く握っていれば」
義兄は、それを自分への判決のように言った。
二
七海は、震える指で、もう一つのファイルを開いた。
十四時三十二分十秒。
同じ岩だった。同じ角度だった。
義兄は、さっきと同じ場所に腹ばいになっていた。両腕も、同じように岩の縁の向こうへ突き出していた。
その両手には、何もなかった。
喉の奥が、熱くなった。目をそらしかけて、それでも七海は見た。
指が、開いたまま宙に止まっていた。掴んでいたものの形を、まだ覚えているような指だった。暗い台所で、義兄が顔の前に広げていた手と、同じ形だった。
姉の姿は、どこにもなかった。岩の縁の向こうには、空だけがあった。帽子は、さっきと同じ場所に転がっていた。
二枚目が開いたとき、姉は一度だけ目を閉じた。それから、ゆっくりと開いて、画面を見た。
七海は、義兄の顔を拡大した。口が、大きく開いていた。叫んでいたのだろう。その声は、写真には残らない。
義兄の伏せた岩の縁は、さっきの写真と同じ形のまま、そこにあった。崩れては、いなかった。胸の下の黒い筋も、同じ場所にあった。変わったのは、手の中身だけだった。
七海は、二枚の写真を、交互に開いた。何度も。十秒を、行ったり来たりした。
掴んでいる手。空になった手。
十四時三十二分。十四時三十二分十秒。
十秒。脈を、十回あまり数えるほどの時間だった。あの日の十四時三十二分、七海は、知らない人の脈を数えていた。
義兄の手が、画面に伸びた。指先が、空になった自分の両手の上で止まった。
それから、テーブルの上の、自分の本物の両手を見た。
同じ形に、開いていた。
三
七海は、義兄のほうを向いた。
「どうして、言わなかったの。手紙を破ったこと。お姉ちゃんを選んだこと」
責める声ではなかった。自分でも、そう聞こえた。
言えば、疑われることもなかった。七海に責められることも、なかったはずだった。疑ったのは、自分だった。その自分が、今、この人に理由を訊いている。
義兄は、しばらく黙っていた。それから、テーブルの上で、両手を組んだ。
「破ったことは、俺の手が緩まなかった証明にはならない」
静かな声だった。
「あの十二分後に、俺の手が緩んだかもしれない。選んだことを言えば、そのことの言い訳になる。千尋を選んだことを、自分の罪を軽くするために使いたくなかった」
「お姉ちゃんにだけでも、言えばよかったのに」
「選んだと言えば、千尋は許すしかなくなる。……決めるのは、千尋だ」
あの夜、冷めた湯のみの前で聞いたのと、同じ言葉だった。
そういう嘘は、つけない人だから。沙耶の言葉を、七海は思い出していた。嘘だけではなかった。この人は、言い訳もできない人だったのだ。
義兄は、画面に目を戻した。掴んでいる手の、一枚目の写真だった。
「この写真を見ても、わからない。この一枚の後で、俺の手が緩まなかったとは」
義兄の声が、そこで途切れた。
「あなたは、離してない」
姉の声だった。
大きな声ではなかった。けれど、義兄の言葉を、途中で断ち切る強さがあった。
義兄が、姉を見た。
「……千尋は、覚えて」
いないはずだ、とは続かなかった。
姉は、義兄を見ていなかった。画面の中の、空になった義兄の両手を見つめていた。
夫を慰める言葉だ、と七海は思った。けれど、その声には、慰めにしては少しの迷いもなかった。
「あなたは、離してない」
もう一度、姉は言った。
(第13話 了)




