第14話 忘れちゃった
一
あなたは、離してない。
姉の千尋の声が、居間に残っていた。
あの数秒を覚えていないという姉に、言えることは、それしかない。それでも、言わずにはいられなかったのだ。自分を責め続けてきた人の隣で。
画面の中では、空になった義兄の両手が、まだ開いていた。七海はパソコンを閉じなかった。閉じれば、二枚の写真まで消えてしまう気がした。
義兄の湊は、姉を見つめたまま、動かなかった。
それから、パソコンに手を伸ばし、一枚前の写真に戻した。両手で手首を掴んでいる十二年前の自分を、義兄は長いあいだ見ていた。
やがて、その肩が崩れた。テーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。指のあいだから、涙が落ちた。声は立てなかった。義兄の涙を見るのは、七海には初めてだった。
姉の手が、ためらうように持ち上がり、義兄の背中にそっと置かれた。
七海は義兄のほうに向き直った。
「湊さん」
声が、かすれた。
「疑って、ごめんなさい。あの手のことは」
義兄が、顔を上げた。濡れた目だった。
「お姉ちゃんが、離してないって言った。わたしは、それを信じる。……それなのに、わたしは疑った。責める相手がいれば、電話を切った自分のことを考えずにすんだから」
七海はそこで言葉を切った。言わなければならないことが、もう一つあった。
「でも、お姉ちゃんを置いていこうとしたことは、許していません」
義兄はうなずいた。
「……それで、いい。許されたいとは、思っていない」
この人らしい答えだった。七海はそれ以上は何も言わなかった。
二
七海は姉の前に膝をついた。車椅子の姉と、目の高さが同じになった。
「お姉ちゃん。……あの朝の電話」
姉の目が、七海を見た。
「実習があるからって、切ったでしょう。あとでかけ直すって言って、かけ直さなかった。お姉ちゃんが落ちた十四時三十二分、わたしは、知らない人の脈を数えてた。……ずっと、謝りたかった」
十二年、言えずにいた言葉だった。姉のまつげが、かすかに揺れた。
「お姉ちゃん、あのとき、何を言おうとしてたの」
姉はしばらく七海の顔を見ていた。それから、少しだけ笑った。
「何を言おうとしたのか、忘れちゃった」
膝の上で、姉の左手が、右の手首を包んでいた。
「あの日も、七海は看護師になる途中だったのよ。それで、いいの」
七海の目から、涙がこぼれた。
許された、と思った。胸の奥にずっと刺さっていたものが、その一言で、ほどけていく気がした。姉の前で泣くのは、母の葬儀以来だった。
姉が、手を伸ばした。冷たい指先が、七海の前髪を直した。
「髪、はねてる」
子どものころから、姉はこうする。七海は泣きながら笑った。姉の指が離れたあとも、額にその冷たさが残っていた。
帰りぎわ、七海はUSBメモリを姉に渡した。
「お姉ちゃんが、持ってて」
姉は、それを手のひらに載せて、しばらく見ていた。それから、ゆっくりと握った。カメラは、姉の膝に置いたまま、持ち帰らなかった。
七海はかばんから母の便箋を出した。
「これも。カメラと一緒に、入ってた」
姉は便箋を開いた。『いつか、あの子が見たくなったときのために』。その行を、姉の指がゆっくりとなぞった。
「……お母さん」
姉は便箋をたたまずに、カメラの上に置いた。義兄は何も言わなかった。
七海は静かに靴を履いた。玄関の引き戸を閉める前に、一度だけ振り返った。
居間の明かりの下で、義兄が、姉の車椅子の前に膝をついていた。二人の声が、途切れ途切れに聞こえた。
「……風が、強かったね」
「ああ。……寒かった」
「あの岩の上で、あなた、私の顔だけ見てたのね」
「……ほかに、見るものがなかった」
「下りたら、話があるって、言ったでしょう。あのとき、何の話か、聞いておけばよかった」
「……ああ」
あの日のことを、二人は話していた。口にしたことのなかったはずの、あの日のことを。話しながら、二人とも泣いていた。義兄の両手が、姉の右の手首を包んでいた。姉はそれを払わなかった。
七海は、音を立てないように引き戸を閉めた。
三
実家の工事が終わったのは、それから二か月後だった。梅雨が、明けていた。
玄関の段差は、なくなっていた。段差のあった場所に、なめらかな床が続いている。車椅子の車輪が、どこにも引っかからずに家の中まで入っていける床だった。十八センチ。母が最後の冬、何度も立ち止まった段差の高さを、七海はまだ足の裏で覚えていた。
姉が撮った段差の写真は、引き伸ばされて、廊下の壁に掛かっていた。七海の部屋ではなく、段差のあった場所の正面に掛けようと言ったのは、姉だった。
引き渡しの日、工務店の年配の職人が、玄関のスロープを手でなでながら言った。
「瀬川先生、お姉さんのことになると、ほんとに細かくてね。スイッチの高さ一つで、何度も図面を引き直して。このスロープだって、雨の日のことまで考えて、ずいぶん緩くしたんです」
七海はうなずいた。スロープの手すりは、白く塗られていた。姉の家の坂と、同じ白だった。七海は、その手すりを握った。夏の日を吸って、金属は温かかった。
引き渡しの書類に、七海は自分の名前を書いた。早坂七海。この家の、今の主の名前だった。
その夕方、姉が初めて泊まりに来た。義兄は、玄関まで姉を送り、明日の朝迎えに来ると言った。帰りぎわ、義兄は七海に小さく頭を下げた。七海も、頭を下げた。言葉は、どちらも口にしなかった。
姉は、廊下の写真の前で車椅子を止めた。自分が撮った段差を、しばらく見ていた。それから、段差のない廊下を、自分の手で進んでいった。
玄関脇の小さな部屋。義兄が描き直した図面の、暮らすための部屋だった。けれど姉は、泊まりに来た、と言った。帰ってきた、とは言わなかった。
七海も、帰ってきて、とは言わなかった。言わなくても、姉は今夜、ここにいた。
この家で、姉と二人で食卓を囲むのは、母が亡くなってから初めてだった。姉は、母の湯のみでお茶を飲んだ。
「お母さんの味、七海はもう作れるの」
「……まだ、ぜんぜん」
姉は、笑った。母に似た笑い方だった。食卓の上で、二つの湯のみが並んで湯気を立てていた。
夜更けに、七海は自分の部屋の窓を開けた。山の見える部屋だった。
暗くて、山は見えなかった。けれど、そこにあることは知っていた。
部屋の戸を少し開けると、廊下の先で、姉の部屋の戸の下から、細く明かりが漏れていた。山の見えない側に窓のある部屋だった。七海は、戸の前には立たなかった。
目を閉じると、あの二枚の写真が浮かんだ。
掴んでいる手。空になった手。
姉は、離していない、と言った。七海は、その言葉を信じた。
それでも。
その十秒に何が起きたのかは、どの写真にも写っていない。
(第14話 了)
明日は最終話となります。




