第15話(最終話) 今度は、離さない
一
あの日のことを、私は全部覚えている。
山に入って三日目の朝だった。山小屋の部屋で、湊は顔を洗いに出ていた。ほかの客はもう出発していて、たたんだ布団が壁ぎわに積んであった。私は地図を見ようとして、湊のザックの上のポケットを開けた。
地図の下に、白い封筒があった。表に、湊の字で「千尋へ」と書いてあった。封は、されていなかった。
便箋は一枚だった。
好きな人がいる。大学のころに付き合っていた人だ。その人と、ベルリンへ行く。君と出会ったこの山で、始まったことを終わらせたい。すまない。
図面の線と同じ、迷いのない字だった。
二度読んだ。二度目は、字の形だけを見ていた。
思い当たることは、いくつもあった。春から、湊は携帯を伏せて置くようになった。事務所の棚に、ドイツ語の入門書が一冊増えていた。式場の話をすると、返事が半拍遅れた。どれも、気づかないふりをしてきた。
便箋をたたんで封筒に戻し、地図の下に入れて、ポケットの口を閉めた。
小屋の外に出て、七海に電話をかけた。壁ぎわでも、風が強かった。
「七海、私ね……」
今日、振られるの。そう言うつもりだった。誰かに言わなければ、山頂まで歩けない気がした。
「ごめん、これから実習なの。あとでかけ直すね」
電話は切れた。あの子は、看護師になる途中だった。それでよかった。あとで、のころには、私はもう山の上にいる。電源を切って、携帯をザックの底に入れた。
戻ると、湊が地図を広げていた。
「今日は、風が出るかもしれない」
「平気よ」
私は笑った。笑えたことに、自分で驚いた。
尾根の道では、湊が前を歩いた。この山で、私たちは出会った。山頂でカメラを据えていた私に、何を撮っているんですか、と訊いた人だった。時間です、と私は答えた。
その背中だけを見て歩いた。ザックの上のポケットが、一歩ごとに揺れた。
岩の多いところに来るたびに、湊は振り返った。私の足もとを確かめる目だった。別れる日にも、この人はそうするのだ。その目が、手紙の字よりもこたえた。
涙は、出なかった。山頂まで、五時間あった。
二
山頂に着いて、私はカメラを据えた。十秒ごとに、一枚。ただの癖だった。この人と登る最後の山を、残しておきたかったのかもしれない。
13:50:00
岩と、空。遠くの山並み。人は写っていない。
風はあったが、雲は一つもなかった。
14:00:00
岩に並んで座る男と女。水筒の湯気。女が、水筒のふたを男に差し出している。
湊は、ふたを受け取って「ありがとう」と言った。いつもと同じ声だった。この人は、いつザックに手を伸ばすのだろう。私は、そればかり考えていた。
14:08:00
二人とも、遠くの山を見ている。
手を伸ばせば届くところに、湊の手があった。伸ばさなかった。
14:12:00
女が立ち上がり、右へ歩いていく。
待つことに、耐えられなくなった。「向こう、見てくる」と言って、岩の陰に回った。
岩に背中をつけて、しゃがんだ。そこで初めて泣いた。声は、風が消してくれた。岩は冷たく、日の当たらない側だけが、まだ朝のままだった。
子どものころから、二つあれば、いいほうを人に渡してきた。そうするのが楽だった。この人のことも、そうやって渡すのだ。そう思うと、涙が止まらなかった。
私の写真に、私は写らない。泣いていた十一分も、どの一枚にも残っていない。
14:18:50
男が、白い封筒を両手に持っている。動かない。
14:19:40
封筒が、二つに裂けている。
14:20:00
男の手もとから、白い紙片が風に散っている。
この時刻、私は岩の陰で膝を抱えていた。下りたあとのことを考えていた。部屋をどうするか。母に、どう言うか。岩一つ向こうで何が破られたのかを、知らなかった。
14:23:00
女が、岩の向こうから戻ってくる。男が立ち上がる。
顔は、袖でふいてあった。湊は私を見て、口を開き、一度閉じた。それから言った。
「下りたら、話がある」
ここでは言わないのだ、と思った。終わりが、ふもとまで延びただけだった。「うん」と私は答えた。あと数時間は、この人の婚約者でいられる。それを喜んだ自分が、みじめだった。
14:31:20
下り口に立つ女。男は、ザックを背負い直している。
ここから先の何枚かは、戻らなかった。それでも、何が写っていたかは知っている。そこにいたのは、私だ。
カメラを片づける前に、下り口の足場を見ておこうとした。縁の岩に足をかけた。その岩が、動いた。
足もとが抜けた。帽子が飛んだ。私は、残った岩の縁に両腕でしがみついた。胸から下は、もう宙にあった。
「千尋」
湊の声がした。岩を蹴る靴の音が、近づいてきた。腕が、少しずつ滑った。左手が、外れた。
右の手首に、強い力がかかった。
湊が腹ばいになって、両手で私の手首を掴んでいた。私も、湊の手首を掴み返した。足の下には、何もなかった。
湊の手は、熱かった。
湊は、私の顔だけを見ていた。歯を食いしばって、何か言っていた。風で聞こえなかった。初めて見る顔だった。別れるつもりの女を、この人は本気で引き上げようとしている。
湊の腕は、伸びきっていた。私の体は、少しも上がらなかった。
そのとき、見えた。湊の胸の下の岩に、黒い線が一本、斜めに走っていた。
同じ一瞬に、二つの声がした。
このままでは、二人とも落ちる。
この手を離せば、この人は助かる。そして一生、私から離れられない。
私は、指を開いた。
14:32:00
腹ばいの男が、両手で女の手首を掴んでいる。女の指は、開いている。男のそばに、帽子が一つ転がっている。
落ちなかった。私が離しても、湊の手は緩まなかった。手首の骨がきしむほどの力だった。
この人は、離さない。岩が割れても、離さない。握られた手首で、それがわかった。
二つの声は、まだどちらも消えていなかった。
私は、手首をひねった。湊の親指のほうへ。握った手の、いちばん弱いところへ。
手首は、湊の手の中で回って、抜けた。
落ちながら、湊の顔を見ていた。口が、大きく開いていた。その向こうに、空があった。
死ねば、この人の中で永遠になれる。そう思った。
14:32:10
男の両手は、空になっている。指は、開いたままだ。帽子は、同じ場所にある。岩の縁は、崩れていない。
私がいなくなった岩は、崩れなかった。
三
三日後、病院で目を覚ました。脚の感覚はなかった。生きているとわかって最初に思ったのは、湊に顔を見られたくない、ということだった。死んで残るつもりだった。生きて残ることは、考えていなかった。
落ちる前の数秒は覚えていない、と医師に答えた。頭を打った人にはよくあることだと、誰も疑わなかった。
カメラは、病室の棚にあった。看護師に頼んで出してもらい、画面を見ないようにして、全部を消した。指を開く私が、写っているはずだった。母には、捨てて、と頼んだ。母は、わかった、と言った。理由は訊かなかった。
湊は毎日来て、丸椅子に座り、何も言わずに帰っていった。指には、ばんそうこうが何枚も巻かれていた。手紙を渡しそびれた人が、帰れずにいるのだと思った。
一か月後、湊は私の手を両手で握って、結婚しよう、と言った。手紙のことは、言わなかった。
私は、うなずいた。断ることは、できた。断らなかった。願ったとおりになった。この人は、私から離れられなくなった。
湊は家から段差を消し、白い手すりをつけ、私の体のことを私よりよく覚えた。ソファへ移る私の腰のそばに、湊の手はいつも浮いていた。そのやさしさの一つ一つを、私は罪悪感と読んだ。落ちた女を、この人は捨てられない。そうさせたのは、私だ。隣で笑うたびに、それを思い出した。
夜中に、湊が暗い台所で自分の手を見ていることがあった。掴みきれなかった手を、悔やんでいるのだと思っていた。
山は、撮れなくなった。代わりに、湊の建てる家を撮った。段差のない廊下。光の入る窓。
真柴さんには、あの人は自分で選んでここにいる、と言った。その言葉をいちばん信じていなかったのは、私だ。かばんを持って出ていこうとした湊の手首を、私は掴んだ。
写真が戻った夜、破られる封筒を、私は初めて見た。封筒が破られてから、私が指を開くまで、十二分あった。
カメラを抱えて、泣いた。ずっと、このカメラの中にあった。それを、見ないまま消した。
知っていたら、指を開かなかったのか。その問いには、今も答えられない。
同じ夜、湊は言った。あの一瞬、この手が緩まなかったか、と。十二年、そればかり考えてきたのだと。
暗い台所の、あの背中を思い出した。緩めたかもしれないと疑っていたとは、考えたこともなかった。私のしたことが、この人に、自分の手を疑わせてきた。
あなたは、離してない。二枚の写真の前で、そう言った。なぜ知っているのかは、言えなかった。
七海には、電話のことを訊かれた。何を言おうとしたのか、忘れちゃった。そう答えた。今日、振られるの。その一言を渡せば、あの子は、姉がなぜ落ちたのかを考えはじめる。最後まで見る子だ。
七海が玄関へ立つと、湊は私の前に膝をついた。私の右の手首を、両手で包んだ。
下りたら話があると言ったでしょう、何の話か聞いておけばよかった。私はそう言った。それだけは、嘘ではなかった。
玄関の戸が、閉まる音がした。
湊は、しばらく黙っていた。それから言った。
「手の中で、千尋の手首が回ったんだ。親指のほうへ。握りが崩れた感触を、ずっと覚えてる。あれが、俺の手が緩んだ瞬間だと思ってきた」
回したのは、私だ。
「あなたは、離してない」
もう一度、そう言った。湊はうなずいて、泣いた。妻の慰めとして聞いているのが、わかった。
四
湊が事務所に出ている昼間、七海に渡されたUSBメモリを開いた。居間のカーテンを閉め、仕事の写真を選ぶのと同じ画面に、最後の二枚を並べた。
十四時三十二分の一枚。湊の胸の下に、黒い線がある。十秒後の一枚にも、同じ場所にある。岩の縁は、同じ形のままだ。
ひびなのか、影なのか。大きくしても、粒が粗くなるだけだった。明るくしても、暗くしても、線は線のままだった。光を読むには、影から見る。そう言って、仕事をしてきた。この一本だけは、どちらから見ても読めなかった。
あの岩の上で、私は本当にひびを見たのか。指を開く理由が欲しくて、そう見えたのか。
写真の中の湊は、一度も岩を見ていない。訊ける相手は、どこにもいない。
指を開かなかったら、どうなっていたか。
二人とも落ちた。湊の力が尽きた。湊が、私を引き上げた。
二つ目だけは、私は信じない。あの握りを、手首が覚えている。残りの二つは、何度並べても、どちらも消えなかった。
引き上げられていたら、私は自分の脚で山を下りた。そして、ふもとで湊の話を聞いた。
確かなことは、一つしかない。湊の手は、一度も緩まなかった。それを知っているのは、私だけだ。
カーテンのすきまの光が、いつのまにか傾いていた。スロープを上がってくる足音がした。私は、画面を閉じた。
五
八月の終わりになった。
湊は、寝室に戻った。夜中に起きる日は、減った。なくなっては、いない。
毎朝、湊は「行ってくる」と言って事務所へ出かける。私は「行ってらっしゃい」と言う。前は、帰ってくることを疑ったことがなかった。帰るしかない人だと思っていた。今は、夕方、スロープを上がってくる足音が聞こえると、仕事の手が止まる。
朝、七海に電話をかけた。夜勤が明ける時間だった。
「七海、私ね……」
あの朝と同じところで、声が止まった。風の音はしなかった。
「うん。聞いてる」
電話の向こうで、ロッカーの戸が閉まる音がした。七海は、待っていた。
「……山、撮りに行こうと思うの」
七海は、しばらく黙っていた。それから、泣いているような声で笑った。
「わたしも、行っていい?」
「うん」
夕方、居間のテーブルで、あのカメラを拭いた。底の傷は、そのままにした。レンズのふたを外して、明かりにかざした。ガラスの奥に、白いかびが出ていた。レンズは、替えればいい。本体は、動いた。
湊が、図面から顔を上げた。
「山か」
「うん。車で上がれるところまで。七海も来るって」
湊は、カメラをしばらく見ていた。それから手を伸ばして、底の傷に指で触れた。
「……俺も、行っていいか」
「うん」
湊の指は、まだカメラの上にあった。
「インターバル、何秒にする」
「一秒」
「……ずいぶん、細かいな」
「うん。どこにも、隙間ができないように」
湊は少し笑って、鉛筆を持ち直した。窓の外では、スロープの手すりが夕日を受けて、地面に長い影を落としていた。
夜中に、目が覚めた。
明かりは、つけなかった。カーテンのすきまから、街灯の光が細く入っていた。
隣で、湊が眠っていた。布団の上に、右手が出ていた。指は、開いたままだった。
十四時三十二分十秒の写真と、同じ形だった。眠っていても、この手はまだ、あの岩の上にある。
私は、その手首を両手で握った。あの岩の上で、湊がそうしたように。指の腹の下で、湊の脈が打っていた。
湊の寝息は、変わらなかった。
声には、出さなかった。
今度は、離さない。
(完)




