《第2話 王城からの呼び出し》
翌朝、リリアは寝坊した。
と言っても、目が覚めた時にはもう日が高かった、というほどではない。いつもなら夜明け前には起きて薬草を仕分けているのに、その日は鳥の声で目を開けた時、窓の外がすでにやわらかく明るんでいた、という程度の遅れだ。
それでもリリアにとっては十分すぎる寝坊だった。
「……っ、やば」
跳ね起きて、寝台から転げるように降りる。昨夜のまま机に広げていたメモが床へ散らばり、椅子に掛けていた上着が足に絡まった。
慌てるとろくなことにならない。
わかっているのに、そういう日に限って慌てる。
髪をまとめる紐が見つからず、引き出しをひっくり返し、結局いつも使っている薬草色の紐が枕の下から出てきた時には、もう半分泣きそうになっていた。
「リリアー! 起きてるかー!」
一階から父の声が飛んでくる。
「起きてます!」
「返事が元気すぎる時はだいたい寝坊した時だな!」
「今すぐ降ります!」
急いで髪をまとめ、顔を洗い、机の上に置いていたメモ帳と小瓶を鞄へ押し込む。昨夜、拾ってきた《星灯り草》の観察記録を書きかけたところで眠気に負けたのだ。葉脈の形はやはり珍しい。あの環境で生えていた理由も気になる。今日こそもう少し詳しく見たかった。
――のに。
階段を駆け下りると、食卓にはもう朝食が並んでいた。
焼きたての黒パン、薄いスープ、刻んだハーブ入りの卵焼き。父のクラウス・アルヴェインは腕を組んで椅子に座り、わざとらしく深いため息をつく。
「おはよう、王都いち働き者の薬師様」
「嫌味ならもっと短くお願いします」
「嫌味じゃない。感心してるんだ。昨日もあれだけ動き回って、夜中まで薬草のメモを取って、それで朝寝坊する程度で済んでるんだから」
「済んでないです。今日、南区の施療院に顔を出すって約束してたんです」
「その前に飯を食え」
有無を言わせない声だった。
リリアはしぶしぶ席に着く。クラウスは無精ひげの似合う男で、娘と違って愛想はよくない。口を開けば小言も多い。けれど、それが心配の裏返しだとわかっているから、リリアも強くは出られない。
スープをひと口飲むと、体の中にようやく朝が入ってきた気がした。
「昨夜、また孤児院で遅くまで診てたんだろ」
「三人熱の子がいたので。あと、ちょっと市場で気になる薬草を見つけて」
「ほら出た」
クラウスは卵焼きを口に放り込みながら眉をひそめる。
「お前は薬草が絡むと、食うのも寝るのも後回しにする癖をどうにかしろ」
「後回しにはしてません」
「昨日の夕飯、冷めきるまで机に向かってたやつがよく言う」
「……反省はしています」
「してる顔じゃないな」
図星だったので返せない。
昨夜の《星灯り草》のことを思い出すと、今でも少しそわそわする。王都の市場に生えていた理由がどうしても気になる。薬草は、そこにあるだけで何かを語っていることがある。母がそう教えてくれたし、リリア自身も何度もそれを経験してきた。
クラウスは娘の顔を見て、半ば呆れたように肩をすくめた。
「まあいい。今日は午前中、城から使いが来るかもしれん」
リリアの手が止まる。
「……お城?」
「昨日、施療院経由で問い合わせがあった。春先の咳風邪の件で、薬師会に協力を求めたいそうだ」
「じゃあ、王城の薬品庫に納める薬の相談とかですか?」
「かもしれんし、ただの聞き取りかもしれん。まだわからん」
クラウスはパンをちぎりながら、少しだけ真面目な顔になった。
「いいか、呼ばれたら余計なことは喋るな。聞かれたことにだけ答えろ」
「余計なことって」
「お前、相手が困ってると、聞かれてもいないのにあれこれ説明し始めるだろう」
「それは、ちゃんと治すためには必要で……」
「王城は施療院じゃない。正しさより、言い方と順番を間違えると面倒な場所だ」
そう言われると、少しだけ背筋が伸びる。
リリアは王都で育ったが、王城とはそこまで縁が深いわけではない。アルヴェイン家は王家にも薬を納める家系だが、実際に城へ上がるのは主に父や番頭役の薬師で、リリアはまだ数えるほどしか入ったことがない。しかも大抵は薬品の受け渡しで、奥の事情に触れるような場ではなかった。
「そんなに怖い場所なんですか」
「怖いというより、面倒だ」
「同じ意味では」
「違う。怖い相手は殴ってくるが、面倒な相手は笑って足を払ってくる」
「朝食の席で聞きたくない例えです」
クラウスは鼻を鳴らした。
「覚えておけってことだ」
その時、表の扉を叩く音がした。
父娘そろって顔を上げる。
朝の来客自体は珍しくない。薬を求める客か、施療院からの使いかもしれない。けれど、二度、三度と規則正しく続くノックは、いつもの患者や近所の人間のものとは少し違っていた。
クラウスが立ち上がる。
「……まさか本当に来たか」
扉を開けた瞬間、家の中の空気がわずかに変わった。
玄関先に立っていたのは、王城の使者だった。
濃紺の制服に白銀の縁取り。胸元には王家の紋章。若い騎士で、年は二十代半ばほどだろうか。姿勢がまっすぐで、余計な愛想がない。けれど無礼な印象もなかった。
「薬師クラウス・アルヴェイン殿、ならびにリリア・アルヴェイン殿に、王城より出頭の要請が出ています」
リリアは思わず椅子から腰を浮かせた。
「私もですか?」
騎士の視線がこちらへ向く。
「はい。特にリリア殿へは、至急とのことです」
クラウスが一歩前に出る。
「用件は」
「詳しい内容は、王城にて直接と伺っています。ただし、薬品庫に関する確認があると」
薬品庫。
その単語に、昨夜父が言っていた“問い合わせ”より少し重い響きを感じた。
リリアは食卓から立ち上がり、鞄を抱えたまま父を見る。クラウスの顔つきも、さっきまでの軽口とはまるで違っていた。
「準備をします。少し待っていただけますか」
「馬車を表に回しています。急ぎますが、身支度の時間くらいは取れます」
騎士はそう言って一礼し、扉の外へ下がった。
閉まった扉を見つめたまま、リリアは小さく息を呑む。
「お父さん、薬品庫って……」
「まだわからん」
クラウスは低い声で言った。
「だが、いい知らせじゃないのは確かだ」
◇
王城へ向かう馬車の中は、妙に揺れが大きく感じた。
実際に道が悪いわけではない。石畳はいつも通りだし、御者の腕も安定している。ただ、リリアの方が落ち着かないだけだった。
向かいに座るクラウスは腕を組み、窓の外を見ている。普段から無口な人だが、こうして黙られると余計に緊張する。
リリアは膝の上で指を組み直した。
「お父さん」
「なんだ」
「私、何か変なことしましたかね」
「昨日の話なら、変なことは年中してる」
「真面目に聞いてるんですけど」
「俺も真面目だ」
クラウスは一拍置いてから、ため息混じりに続けた。
「だが、薬品庫なんて言葉が出る以上、たぶん市場のことじゃない。城の中で何かあったんだろう」
「薬が足りないとか?」
「その程度ならわざわざ“至急”でお前を呼ばん。納品記録か、処方か、誰かの証言か……」
そこまで言って、クラウスは口を閉ざした。
言いかけた先を、リリアもなんとなく察してしまう。
良くない話だ。
少なくとも、ただの相談や依頼ではない。
喉が少し乾く。
リリアは窓の外へ目を向けた。王都の街並みが流れていく。昨日まで歩いていた市場も、川沿いの通りも、南区の施療院へ続く坂道も、今日は妙に遠く見えた。
王城の白い塔が近づくにつれ、胸の奥がじわじわ重くなる。
城門をくぐる時、衛兵たちが一斉に槍を鳴らした。その音だけで、普段の王都とは別の世界へ入った気がした。
◇
通されたのは、王城の応接室ではなかった。
石造りの廊下をいくつも曲がり、案内された先は、執務棟の一角にある小さな会議室だった。窓は高い位置にひとつだけ。陽は入るが、明るいというより白々しい。机と椅子がいくつか置かれているだけの、飾り気のない部屋だ。
応接用ではなく、話を詰めるための部屋。
入った瞬間にそうわかる空気だった。
先に中にいたのは三人。
ひとりは見覚えがある。宰相ヴァルディス。穏やかな老人の顔で、しかし少しも隙がない。
もうひとりは薬品庫の管理責任者らしい中年の男で、机の上に何冊も帳簿を積んでいた。神経質そうな顔つきで、リリアたちが入ってきた瞬間から値踏みするような目を向けてくる。
そして最後のひとり。
部屋の奥、窓際に立っていた金色の髪が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
セレフィナ・ルミエール。
昨日、市場で見た第一皇女がそこにいた。
リリアの喉がきゅっと鳴る。
セレフィナの方も、ほんの一瞬だけ目を見開いたように見えた。けれどすぐにいつもの、感情を読み取りにくい顔へ戻る。
「急な呼び出しに応じていただき、感謝します」
ヴァルディスが口火を切った。
相変わらず柔らかな声だ。人の警戒心をほどくために作られたみたいな声音で、逆にぞっとする。
「単刀直入に申し上げましょう。王城の薬品庫より、管理下にある希少薬草が一部紛失しました」
リリアは目を瞬いた。
「紛失……?」
「ええ。数量としては決して多くはありません。しかし、扱いを誤れば毒にもなり得る薬草です。看過できる話ではない」
クラウスが低く問う。
「それで、我々を呼んだ理由は」
薬品庫管理官が帳簿を開き、苛立ったように言った。
「持ち出し記録の一部に不備がありました。その日、薬品庫へ出入りした関係者の中に、リリア・アルヴェイン殿の名があります」
リリアは一瞬、意味がわからなかった。
「……私?」
「十日前の午後。施療院へ納める薬材の確認のため、王城内の薬品庫へ立ち入っている」
「それは、はい。でも父の指示で納品の確認を――」
「その際、薬品庫の奥区画へ一人で立ち入った記録が残っています」
「奥区画?」
そんなはずはない。
リリアは思わず首を振った。
「行っていません。私は外側の棚で受け取りの確認をしただけです。奥には鍵もかかっていましたし、そもそも立ち入る許可なんてありません」
「ですが記録はある」
管理官は冷たく言う。
「見張りの証言も一致しています。銀髪の若い娘が、しばらく奥区画にいたと」
「違います」
反射的に声が出た。
違う、と言った瞬間、自分の声が思ったより強かったことに気づく。けれど引っ込められない。
「私、そんなことしてません。本当に」
薬師として、という以前に、人としてそんなことをする理由がない。
まして王城の薬品庫から、毒にもなる薬草を盗むなんて。
クラウスが横で一歩前に出た。
「娘は嘘をつかん。何かの見間違いだろう」
「親の情は理解しますが」
管理官の声音がわずかにきつくなる。
「こちらも根拠なく申し上げているわけではありません。帳簿、出入り記録、当日の見張りの証言。さらに――」
言葉を切り、男は別の書類を取り出した。
「南区で最近、王城管理下の希少薬草と同系統の成分が使われた薬が確認されています」
リリアの背筋が冷たくなる。
「それ、何の薬ですか」
「咳止め、解熱剤、鎮静薬。形を変え、薄められてはいますが、元の成分は共通している可能性が高い」
「……そんなの、おかしいです」
リリアは思わず机へ身を乗り出した。
「王城管理の薬草と同系統のものなんて、民間の薬師でも使うことがあります。調合法が違うだけで、効能が似ることはありますし、似た成分の代用品だって――」
「聞かれたことに答えなさい」
ぴしゃりと遮ったのは、管理官ではなかった。
セレフィナだった。
リリアははっとして口をつぐむ。
皇女の声は高くも低くもない。怒鳴ったわけでもない。けれど、刃のようにまっすぐだった。
セレフィナは机越しにリリアを見つめる。
「あなたは、十日前に王城の薬品庫へ入った」
「……はい」
「その際、奥区画には立ち入っていない」
「立ち入っていません」
「紛失した薬草にも、心当たりはない」
「ありません」
「では、なぜ見張りがあなたを見たと言うの」
その問いに、リリアは答えられなかった。
わからないからだ。
本当にわからない。
自分はやっていない。けれど、見張りがそう証言しているなら、何かがあるはずだ。勘違いか、嘘か、あるいは――。
そこまで考えて、ふと昨日の市場で拾った《星灯り草》が頭をよぎった。
王都ではまず見ないはずの薬草。
不自然な場所。
母なら、あれを見て何を考えただろう。
けれど今ここで、その話をしていいのかはわからない。話したところで、言い逃れと取られるだけかもしれない。
沈黙が落ちる。
ヴァルディスがその隙間へ、静かに声を差し込んだ。
「リリア殿。あなたが民のために尽くしてきたことは、私も聞き及んでおります。ですから、こちらとしても軽々しく罪を決めつけたいわけではない」
その言い方に、かえって嫌な予感が強くなる。
「ただ、状況が悪いのです。あまりに」
「……状況?」
「ええ」
ヴァルディスは机上の書類を指先で整えた。
「紛失した薬草の一部は、毒にも薬にもなる。扱うには高い知識が必要です。そして、あなたはその知識を持つ。さらに、最近あなたの周辺では、王城由来の成分と近い薬が流通している可能性がある」
「そんな……」
「加えて、見張りの証言がある」
まるで逃げ道をひとつずつ塞ぐみたいに、穏やかな声で積み上げてくる。
リリアは唇を噛んだ。
違う。
違うのに。
そう思うほど、言葉が空回りしそうになる。
「リリア」
横からクラウスが呼んだ。
低く、落ち着いた声だった。
「深呼吸しろ」
言われて初めて、自分がまともに息をしていなかったことに気づく。リリアはこぶしを握りしめ、ゆっくり息を吸った。
父がいる。
それだけで、少しだけ頭が冷える。
「……見張りの方に会わせてください」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
部屋の空気が少し動く。
「話を聞けば、何か思い出せるかもしれません。勘違いがあるなら解きたいですし、誰かが私の名前を使ったなら、それも確かめないと」
管理官が鼻で笑う。
「都合のいいことを」
「都合じゃありません。私がやってないなら、そう証明しないといけないでしょう」
「証明するのは我々だ」
「だったら、ちゃんと調べてください」
言ってから、しまったと思った。
クラウスに“余計なことは喋るな”と言われたばかりだ。なのにもう、少し喧嘩腰になっている。
だが、セレフィナは意外にもそこで管理官を制した。
「……見張りは、今朝から姿を消しているわ」
リリアは固まる。
「え?」
「宿舎からいなくなった。部屋には荷物も残っていない。夜のうちに逃げた可能性が高い」
静かな声だった。
けれど、その内容は静かではない。
リリアだけでなく、クラウスの顔色も変わる。
見張りが消えた。
しかも、自分を見たと証言した直後に。
そんなの、どう考えてもおかしい。
「……では、その人の証言だけで私を疑ってるんですか」
気づけば、問いかける声は少し震えていた。
セレフィナはわずかに目を伏せる。
「それだけではないわ。帳簿の改ざんもある。薬品庫の鍵の管理にも不審な点が見つかっている」
「でも、だからって私が盗んだ証拠にはなりません」
「わかっている」
その一言が、思いのほかまっすぐ返ってきた。
リリアは息を止める。
セレフィナの紅い瞳が、今度は逸れずにこちらを見ていた。
「わかっている、けれど……」
言いかけて、セレフィナは唇を閉じた。
その横顔を見た瞬間、リリアは妙な違和感を覚える。
この人は、本当に自分を犯人だと思っているのだろうか。
疑っている。けれど、疑いきれていない。
そんなふうに見えた。
だが次の瞬間、ヴァルディスが話を継いだ。
「本件は、王城内の薬品管理に関わる重大な問題です。民への影響も考えれば、これ以上長く曖昧にしておくわけにはいかない」
穏やかな声。
だが、そこに混じるものが少し変わった。
「よって、正式な調査が終わるまでの間、リリア・アルヴェイン殿には自宅謹慎を命じます」
「……は?」
リリアは目を瞬いた。
自宅謹慎。
一瞬、意味が頭に入らない。
「待ってください」
クラウスが低く言う。
「それでは施療院も孤児院も回れん。娘が抱えている患者はどうする」
「他の薬師へ引き継いでいただくしかありません」
「この時期にか?」
「やむを得ません」
やむを得ない、で片づけられることじゃない。
南区の施療院には、昨日の時点で熱を出している子どもが何人もいた。孤児院だって同じだ。リリアの薬を待っている人がいる。もちろん、自分でなければ治せない病ばかりではない。けれど、引き継ぎが必要な患者も、細かな経過を見てきた症例もある。
「そんな急に……!」
「リリア」
クラウスに名前を呼ばれ、リリアははっと口を閉じた。
父の横顔は険しい。
だが怒鳴らない。怒鳴ったところで、この場では意味がないとわかっている顔だ。
ヴァルディスは申し訳なさそうに眉を下げてみせた。
「理解しております。しかし、これは王家の判断です」
王家の判断。
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が決まってしまった気がした。
リリアは思わずセレフィナを見る。
第一皇女は、何も言わなかった。
言えないのか、言わないのか、それはわからない。
ただ、机の下で握られた右手が、白くなるほど強く力んでいるのだけは見えた。
◇
王城を出る頃には、昼を少し回っていた。
春の陽射しは明るいのに、城の外の空気は妙に冷たく感じた。
馬車へ戻るまでの道、リリアはほとんど口を開けなかった。クラウスも同じだった。さっきまでいた部屋の重さが、まだ服の裾にでもまとわりついているみたいで、何を話せばいいのかわからない。
ようやく馬車に乗り込み、扉が閉まったところで、クラウスが深く息を吐く。
「……想像より悪い」
「私、本当に何もしてません」
リリアはすぐに言った。
言わなければ、自分でも不安に呑まれそうだった。
「わかってる」
クラウスは短く答える。
「だが、誰かが意図的にお前へ被せてきてる可能性は高い」
「どうして私なんでしょう」
「民の人気がある。薬の知識がある。王城への出入り記録もある。表に出すには、都合がいい」
都合がいい。
その言葉が胸に刺さる。
冤罪なんて、物語の中の話だと思っていた。
悪い貴族が、気に入らない相手を陥れるために仕組むもの。どこか遠くの、縁のない話だと。
でも、もし本当に誰かが仕組んでいるのだとしたら。
しかも王城の中で。
リリアは膝の上でぎゅっと手を握った。
「……患者さんたちに連絡しないと」
「まず家に戻る」
「でも孤児院も施療院も――」
「戻るんだ、リリア」
クラウスの声が少し強くなる。
「今、お前が勝手に動けば、向こうの思うつぼだ。謹慎を破ったとでも言われたら、それこそ終わる」
悔しいけれど、正しい。
リリアは唇を噛んで頷いた。
家へ戻れば、少なくとも施療院への引き継ぎは父と相談できる。患者ごとの薬の配合もメモもある。できることはまだある。そう思わないと、やっていられなかった。
窓の外を王都の景色が流れていく。
けれど、今朝見た時とはもう同じ街には見えなかった。
◇
アルヴェイン家へ戻ると、すでに噂は先回りしていた。
門の前に、近所の女たちが立っていたのだ。露骨に騒ぎ立てるような人たちではない。むしろ皆、リリアに世話になったことのある顔ばかりだった。だからこそ、その困ったような、不安そうな視線が痛い。
「リリアちゃん、大丈夫なのかい」
「王城に呼ばれたって聞いて……」
「変な噂が流れてるけど、まさか本当じゃないだろうね」
クラウスが一歩前へ出て、低く言う。
「今は何も話せん。娘を休ませてくれ」
それで引き下がってくれる程度には、皆クラウスを怖がっていたらしい。女たちは顔を見合わせ、渋々といった様子で道を空けた。けれど完全に納得したわけではないのが、背中に刺さる気配でわかる。
家の中へ入ると、ようやく少しだけ息がつけた。
だが休む暇はなかった。
クラウスはすぐに帳面と処方箋を広げ、施療院や孤児院へ回している患者の一覧を確認し始める。リリアも鞄を置くより先に机へ向かった。誰にどの薬を何日分渡しているか、熱の推移、咳の頻度、食欲の有無。細かく書き留めてきたメモが、こんな形で役立つとは思わなかった。
「ミーナのところには私が行きます」
「駄目だ」
「でも、あの子、薬の飲み方を私にしか――」
「俺が行く。必要なら施療院のラグナーにも頼む」
「孤児院の子たち、知らない人の薬だと嫌がる子もいて」
「だからってお前が出歩いたら意味がないだろうが」
机を挟んだ言い合いになりかけて、二人とも同時に黙る。
苛立っているのは同じだった。
リリアは唇を引き結び、深く息を吐く。
「……ごめんなさい」
「俺も怒鳴りたいわけじゃない」
クラウスは額を押さえた。
「だが、まずは動く順番を決める。患者を放り出さない。その上で、お前に被せられた汚名をどう剥がすか考える。いいな」
リリアは小さく頷いた。
父の言う通りだ。
今、やるべきことをひとつずつ片づけるしかない。
そうして二人で慌ただしく引き継ぎを書き出していた時、再び扉が叩かれた。
今度は、さっきのような王城の騎士ではない。
もっと軽い、けれど急いだノックだった。
クラウスが眉をひそめて立ち上がる。
扉を開けると、そこに立っていたのは、南区の施療院で働く見習いの少年だった。息を切らし、額に汗を浮かべている。
「クラウス先生! リリアさん!」
嫌な予感が、胸の真ん中を冷たく撫でた。
「どうした」
「孤児院のミーナちゃんが……!」
リリアの手から羽根ペンが落ちる。
少年は青ざめた顔で、必死に言葉を継いだ。
「朝から高熱で倒れて、さっき急に咳がひどくなって……それで、その、咳だけじゃなくて、腕に変な白い筋みたいなのが出てきてるって……!」
部屋の空気が凍った。
白い筋。
高熱。
ひどい咳。
ただの風邪なら、そんな症状は出ない。
リリアの脳裏に、ひとつの病名がよぎる。
星喰い病。
王国の誰もが名前だけは知っている、治療法の確立していない厄介な病だ。初期症状は咳や熱に似ているくせに、進行すると魔力の暴走と結晶化を引き起こす。しかも、子どもほど進行が早いことがある。
「嘘……」
「まだ決まったわけじゃない」
クラウスが即座に遮る。
だが、その顔色は悪い。
「リリア、処方箋をまとめろ。俺が行く」
「私も――」
「駄目だ!」
わかってる、と言い返しそうになって、リリアは言葉を飲み込んだ。
自宅謹慎。
今、外へ出れば、それだけで問題になる。
でも、ミーナがもし本当に星喰い病なら。
あの子はまだ十二歳だ。苦い薬が嫌いで、でも我慢すると決めた時だけ妙に大人びた顔をする。眠れない夜は昔話をせがんで、怖い夢を見た朝はリリアの袖を掴んで離さない。
そのミーナが、今苦しんでいる。
「お父さん……!」
「わかってる!」
クラウスの怒鳴り声に近い声が、部屋へ落ちた。
たぶん、父だって同じだけ焦っている。
薬師としても、ミーナを知る大人としても。
クラウスは数秒だけ目を閉じ、すぐに決断した。
「リリア、お前はここで薬を作れ。星喰い病だった場合の初期鎮静剤、解熱、咳止め、全部だ。俺が症状を見て、必要なものを持っていく」
「でも診断は――」
「現場でやる。時間がない」
「……はい」
返事をした瞬間には、もう体が動いていた。
棚から必要な薬草を取り出し、乳鉢を引き寄せ、水を計る。手が震えそうになるのを、無理やり押さえ込む。
ミーナは大丈夫。
まだ星喰い病と決まったわけじゃない。
ただの高熱かもしれない。
そう自分に言い聞かせながらも、頭の隅では別のことがぐるぐる回っていた。
どうしてこんな時に。
どうして今、自宅謹慎なんて。
まるで、誰かが一番困る形を選んで、全部を重ねてきたみたいだった。
窓の外では、昼の明るさが少しずつ陰っていく。
そしてリリアはまだ知らない。
この日の夜、ミーナの症状が王都を揺らす“次の火種”になることを。
そして、その報せが、再び第一皇女セレフィナを彼女の前へ引き寄せることを。
百キロの呪いは、まだ遠い。
けれど、その輪郭はもう、静かに二人の足元へ近づいていた。




