《第1話 春の市場と、金色のひと》
王都の朝は、城の鐘より市場の声の方が早い。
東の空が白み始める頃には、もう石畳の上に荷車が並び、パン屋の窯からは焼きたての匂いが流れてくる。青果の籠、吊るされた干し肉、まだ水気の残る魚。商人たちの怒鳴り声と笑い声が混ざって、眠っていた街を無理やり起こしていく。
その賑わいの中を、リリア・アルヴェインは大きな籠を抱えて歩いていた。
籠の中身は薬草だ。朝露の残る葉が何種類も詰め込まれていて、歩くたびに青い匂いがふわりと立つ。華奢な体つきには少し大きすぎる籠だったが、本人は慣れたもので、肩でうまく重さを逃がしながら人混みを縫っていく。
銀色の髪は後ろでゆるく結っていた。急いでまとめたらしく、細い毛先がいくつか頬にかかっている。
「リリア様!」
甲高い声に呼ばれて、リリアは足を止めた。
振り返ると、七つか八つくらいの男の子が、母親に手を引かれながらこちらへ走ってくるところだった。勢いのまま突っ込んできそうだったので、リリアは慌てて籠を地面に下ろし、その場にしゃがみ込む。
「わ、ちょっと待って。転びますよ」
「お母さんの咳、止まったんだ!」
止まらなかった。
男の子はそのままリリアの目の前まで駆けてきて、得意満面で言った。
「昨日のお薬、ちゃんと飲んだら、夜ぜんぜん咳してなかった!」
「本当ですか?」
「ほんと! 苦かったけど!」
「苦かったんですね」
「すっごく苦かった!」
そこだけやけに力強く言うものだから、リリアは吹き出しそうになった。隣で母親が恐縮したように頭を下げる。
「ありがとうございました。夜になると咳き込んで、胸まで痛いって言っていたのに……今朝は熱も下がっていて」
「熱が下がったならひと安心ですね。あとは三日くらい、朝晩冷やさないようにしてください。喉が弱ってるので、湯気のあるものを食べた方がいいです」
「はい」
「あと、走るのはまだ少し控えた方が――」
「でも元気だよ!」
「そう見えます」
言いながら、リリアは男の子の額にそっと手を当てた。熱はない。頬の赤みも、病気のものというより元気が余っているせいだろう。
「うん、大丈夫そう。でもお母さんの言うことはちゃんと聞いてくださいね」
「……はーい」
返事だけは素直だ。
母親はまた頭を下げかけたが、リリアが慌てて手を振る。
「そんなに何度も頭を下げなくて大丈夫です」
「でも、お代までほとんど受け取ってくださらなくて……」
「そういうのは、元気になってから考えればいいんです。今は体が先ですから」
さらっと言ってしまうので、言われた方が困ってしまう。
母親は目元を潤ませたまま、何度も礼を言った。男の子の方はそんなことにはもう興味がなく、きらきらした目でリリアを見上げている。
「僕、大きくなったら薬師になる!」
「えっ」
「リリア様みたいになる!」
思いがけないことを言われて、リリアは少しだけ言葉に詰まった。
「……それは、なんだか責任重大ですね」
「なれるかな」
「苦い薬をちゃんと飲めるなら、なれるかもしれません」
「飲める!」
「昨日、泣いてたのに?」
と、母親が言う。
「泣いてない!」
「泣いてましたよね」
「泣いてないってば!」
市場のあちこちから笑いが起きた。
リリアもつられて笑う。笑うと、口元に小さな八重歯がのぞく。
こういうやり取りは、もう珍しくもなんともなかった。
アルヴェイン家は王都でも知られた薬師の家だ。王家へ薬を納めたこともあるし、施療院との付き合いも長い。けれど、王都の人間がリリアを見つけると気安く声をかけてくるのは、名家の娘だからというより、もっと単純な理由だった。
この娘は、困っている人間を見つけると止まる。
それが貴族だろうが、兵士だろうが、南区の貧民街の子どもだろうが変わらない。
熱を出した子がいれば往診に行くし、怪我人を見つければその場で膝をつく。金のない相手からは代金を取らないことも多い。孤児院には毎月、自分で調合した薬を抱えて通っていた。
そのせいで、商売としてはどうなんだと父に頭を抱えられているらしいが、本人はあまり気にしていない。
「リリアちゃん、あとでうちにも寄れるか?」
干物屋の主人が店先から声を張った。
「おかみさんの膝、また痛むんだと」
「お昼過ぎなら行けます。今日は孤児院に届け物があるので、その帰りでよければ」
「助かる」
「リリア様、うちの娘が昨夜から熱を出して」
「咳はありますか?」
「少しだけ」
「喉の痛みは?」
「あるって言ってた」
「じゃあ帰りに寄ります。水だけはちゃんと飲ませておいてください」
ひとつ答えると、また別の声が飛ぶ。
「この草、煎じたら腹に効くやつだったか?」
「それは腹痛には使いません。干したら香りが出る方です」
「なんだ、じゃあ昨日の鍋に入れたのは失敗か」
「入れたんですか!?」
「うまくはなかったな」
「でしょうね……」
朝からそんな調子で、リリアはちっとも先へ進めない。
本人も急いでいないわけではない。昼までに孤児院へ薬を届けて、帰りに施療院へ顔を出して、それから干物屋の女将の膝を診て、夕方までに家へ戻ったら昨日の調合の続き――と、頭の中ではきちんと予定が並んでいる。
ただ、目の前で困っている人がいると、どうしてもそちらを優先してしまうだけだ。
「……あれ?」
ふと、足が止まった。
市場の端、石垣の隙間に、見慣れない草が生えていたからだ。誰かに踏まれかけたのか、葉の先が少し傷んでいる。けれど形ははっきりしていた。
リリアはその場にしゃがみ込む。
「え、なんでこんなところに……」
細い葉をそっとつまみ、角度を変えて眺める。葉脈の入り方、茎の斑点、葉の縁の細かなぎざぎざ。見間違えようがない。
「《星灯り草》……?」
思わず呟いた。
山間部の湿った岩場にしか生えないはずの薬草だ。王都の、それも市場の石垣に生えていていいものではない。
「葉の縁が三重で、茎に薄い斑……でも、こんな場所で?」
もう完全に周りが見えていない声だった。
近くにいた八百屋の主人が、あーあという顔をする。
「始まったな」
「始まりましたね」
花売りの娘も頷く。
「この前も、道端で薬草見つけて、約束の時間すっかり忘れてたんだろ」
「違います、忘れてません。ちょっと遅れただけです」
「院長先生が、日が暮れてから泣きそうな顔で探してたぞ」
「それは……その、すみませんでした……」
素直にしょんぼりするので、余計に笑われる。
リリアは耳を赤くしながらも、最後にもう一度だけ《星灯り草》を見た。母が生きていた頃から、珍しい薬草を見るとこうなる。頭の中がそのことでいっぱいになって、他のことが少し飛ぶ。
――薬草は、ちゃんと見れば答えてくれるのよ。
昔、母が言っていた。
どんな病に効くか。
どうすれば毒になるか。
どこで、どんなふうに育ったか。
見て、触って、匂いを嗅いで、煎じてみて、初めてわかることがあるのだと。
リリアはそっとその薬草を摘み、布に包んで籠へ入れた。帰ったら調べよう。どう考えても不自然だ。けれど、こういう不自然さが新しい薬の手がかりになることもある。
立ち上がりかけた、その時だった。
市場のざわめきが、ふっと一段階下がった。
怒鳴り声も、笑い声も、ぴたりと止まったわけではない。けれど、人の波がさっと割れていく気配があった。何か大きなものが通る時の、あの独特の静けさだ。
リリアも顔を上げる。
白銀の紋章をつけた馬車が、ゆっくりと市場の中央へ入ってきていた。
王家の紋章。
それも、第一皇女の専用車だ。
「皇女殿下だ」
「どうして市場に……」
「視察か?」
囁きが広がる。
商人たちが慌てて背筋を伸ばし、通り道を空ける。子どもを抱き上げる母親、頭を下げる老人、さっと帽子を取る職人。市場の空気が、さっきまでとはまるで別のものになった。
馬車が止まり、扉が開く。
最初に見えたのは、淡い金糸の刺繍が入った靴の先だった。続いて裾の長いドレス、白い手袋、陽の光をそのまま撚ったみたいな金色の髪。
第一皇女セレフィナ・ルミエール。
噂だけなら、リリアも何度も聞いたことがある。美しい皇女だとか、若いのに政務に熱心だとか、気位が高いだとか、いや本当は気難しいだけだとか。王都の人間は好き勝手に言うけれど、こうして実際に見るのは初めてだった。
綺麗な人だ、と思った。
けれど、それだけじゃない。
肌が白いとか、顔立ちが整っているとか、そういうことより先に、近寄りにくさがあった。人を拒むというより、最初から誰も入れないように線を引いている感じだ。立っているだけで周囲の空気が少し張る。
リリアも慌てて立ち上がり、周りに倣って頭を下げた。
「皇女殿下に、礼を」
視察だろうか、とぼんやり考える。
最近、王都では咳風邪が少し流行っている。施療院も忙しいと言っていた。もしそれで様子を見に来たのなら、思っていたよりずっと真面目な人なのかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「リリア様だ!」
「この前、父ちゃんの怪我を治してもらったんだ!」
「うちの妹も、あの薬で熱が下がったの!」
子どもの声が、ぱんと弾けた。
たぶん悪気はなかった。本当に、まったくなかったのだと思う。
むしろ、ただ嬉しくて、見つけたから呼んだだけだ。
けれど、その一声で流れが変わった。
「リリア様、帰りに寄ってくださいね」
「この間の湿布、あれ本当に効いたよ」
「孤児院の子らも待ってるぞ」
「薬草、今日もそんなに抱えて大丈夫かい」
市場の人間たちが、いつもの調子で次々と声をかけてくる。
頭を下げていたはずの子どもが笑いながら近寄ってきて、商人が手を振り、母親たちが礼を言う。ほんの数瞬前まで、皇女のために割れていた人の輪が、今度は自然とリリアの方へ寄ってきた。
リリアはぎょっとした。
違う、と思う。
これは違う。
「み、皆さん、今は――」
止めようとしたが、うまく声が出ない。
今この場で、民の視線の中心にいるべきなのは自分じゃない。そんなことは考えるまでもなくわかる。なのに人々は悪気なく、いつものように笑いかけてくる。
背中がひやりとした。
そっと顔を上げる。
セレフィナが、こちらを見ていた。
紅い瞳がまっすぐ向けられている。
怒っているのかと思った。
睨まれるかもしれないと思った。
でも、ほんの一瞬そう見えただけで、次の瞬間には何も読めなくなった。感情を飲み込んだ顔、というのがいちばん近い。何かが揺れた気はしたのに、もうそこには蓋がされている。
「……行きます」
護衛へ向けた声は、驚くほど静かだった。
それだけ言って、セレフィナは馬車へ戻る。護衛たちも何も言わず、ただ周囲へ鋭い目を向けながら後に続いた。
扉が閉まる。
車輪が石畳を鳴らす。
白銀の馬車は、そのまま市場を抜けていった。
あとに残ったのは、なんとも言えない気まずさだった。
さすがにまずかったか、と気づいたらしい人々が、そろそろと視線を逸らし始める。咳払いをする者、店先へ戻る者、気まずそうに頭を掻く者。
「……怒らせたかね」
「いや、でもこっちは何も」
「リリア様、気にしないでおくれよ」
慰められるのも違う気がして、リリアは曖昧に笑うしかなかった。
「いえ、その……私の方こそ、すみません」
何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。
最後に見たセレフィナの顔が、妙に頭から離れなかった。
腹を立てていた、というのとは少し違う気がした。
もっと別の――うまく言えないけれど、ひどくひとりぼっちの顔に見えたのだ。
もちろん、そんなのは勝手な思い込みかもしれない。
王家の皇女だ。自分なんかが、ほんの一瞬見ただけで何かわかったような気になる方が失礼だろう。
それでも、胸の奥に小さな棘みたいなものが残った。
◇
王城の執務室は、静かだった。
静かすぎて、窓の外で風が木を鳴らす音まで聞こえる。
セレフィナは窓際に立ったまま、しばらく外を見ていた。市場から戻ってきて外套を脱ぎ、侍女に髪を整えさせ、書類を運ばせたあとも、どうにも椅子に座る気になれなかった。
窓の外には王都が広がっている。
南区の施療院も、川沿いの孤児院も、さっきまでいた市場も、この高さから見れば全部同じ街並みの一部だ。人の顔なんて見えない。誰が笑っているかも、誰が泣いているかもわからない。
「お疲れのようですな」
背後から声がして、セレフィナは振り返った。
宰相ヴァルディスだった。
年老いてなお背筋の曲がらない男だ。白髪も皺も品のよさに変えてしまうような穏やかな顔立ちで、王城の者の多くが彼を敬っている。セレフィナにとっても、幼い頃から見知った相手だった。
「市場の視察はどうでした」
「別に」
短く返す。
「流行り病の様子を見に行っただけよ。大したことはなかったわ」
「それは何よりです」
ヴァルディスは一礼し、机の上にいくつか書類を置いた。その動きに無駄がない。けれど、すぐには下がらなかった。
「薬師の娘もいたそうですね」
セレフィナの指先が、わずかに止まる。
「リリア・アルヴェイン。最近、王都で評判の」
「知っています」
「ご存じでしたか」
「施療院から上がる報告書くらいは読んでいます」
「なるほど」
たったそれだけのやり取りなのに、妙に気分が悪かった。
ヴァルディスはいつもこうだ。相手が口にしたくないことほど、柔らかい声で、逃がさないように差し出してくる。
「民衆からの支持も厚いようですな。孤児院へ薬を運び、兵士の怪我まで診るとか。市場でもずいぶん声をかけられておりました」
セレフィナは何も言わなかった。
窓の外へ視線を戻す。
だが、視界に入っているはずの街並みは少しも頭に入ってこない。
市場の光景が蘇る。
自分のために空いた道。
その先で、結局民衆が振り向いたのは別の娘の方だったこと。
子どもたちがあんなに自然に、嬉しそうにその名を呼んでいたこと。
「良いことです」
しばらくして、セレフィナは言った。
「民が元気で、腕のいい薬師がいるなら、それは国にとって良いことだわ」
「もちろん」
ヴァルディスは頷く。
「ただ、民は時に無邪気で残酷です。誰かを褒める時、別の誰かを傷つけていることに気づかない」
その言葉に、セレフィナはゆっくり振り返った。
ヴァルディスは相変わらず穏やかな顔をしている。心配しているようにも、慰めているようにも見える。だが、どちらにしても余計なお世話だった。
「何が言いたいの」
「何も。殿下が気に病むようなことではないと申し上げたいだけです」
「気に病んでなんかいないわ」
思ったよりきつい声が出た。
言ってから、少しだけ後悔する。
けれどヴァルディスは気にした様子もなく、ただ小さく頭を下げた。
「失礼いたしました」
そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、セレフィナはようやく息を吐いた。
気に病んでいない。
それは半分本当で、半分嘘だった。
リリア・アルヴェインがどうとか、そういうことではない。
ひとりの薬師の娘に嫉妬するほど、自分は狭量ではない――そう思いたい。
ただ、あの市場で向けられていた視線が、少しだけ羨ましかった。
敬意ではなく、恐れでもなく、打算でもなく。
「会えてうれしい」とそのまま顔に出るような好意。
そんなふうに誰かに名前を呼ばれたことが、自分にあっただろうかと考えてしまっただけだ。
「……馬鹿らしい」
呟いて、机へ向かう。
今日中に片づけるべき書類は山ほどある。農地税の改定、西方国境の兵糧、施療院の予算、春祭りの警備配置。余計なことを考えている暇など、本当はない。
椅子に腰を下ろし、最初の書類へ手を伸ばす。
だが、指先が紙をめくるたび、銀色の髪と薄青い目がちらついた。
◇
夕暮れの孤児院は、今日も騒がしかった。
門をくぐった途端、庭先で遊んでいた子どもたちが一斉に振り返る。
「リリア姉ちゃん!」
「来た!」
「今日こそ最初に抱きつくの私!」
「ずるい、先に見つけたの俺だ!」
わっと駆け寄られて、リリアは思わず笑った。
「ちょ、ちょっと待ってください。走ったら危ないですって」
言いながらも、結局三人くらいに同時にしがみつかれる。薬箱まで取られそうになって、慌てて持ち直した。
「これは駄目です。中で瓶が割れたら大惨事ですよ」
「じゃあ僕が持つ!」
「僕も!」
「じゃあ二人でお願いします。喧嘩しないなら」
任せると、男の子二人が張り切って薬箱を抱えた。重さでふらついているのに、妙に誇らしげだ。
院の中に入ると、院長が奥から顔を出した。
「助かるわ、リリアちゃん。二日前から熱の子が三人いてね」
「市場でも少し流行ってました。喉は赤いですか?」
「ええ、咳も少し」
「わかりました。順番に診ます」
袖を軽くまくり、リリアはいつものように子どもたちの前へしゃがみ込んだ。
熱のある子の額に手を当てる。
喉を見せてもらう。
胸の音を聞いて、水をどれくらい飲んだか確かめる。
苦い薬が嫌いな子には、蜂蜜を少し混ぜる約束をする。
怖がる子には、薬匙を見せながら「こっちの方が怖い顔してますよ」とどうでもいい冗談を言う。泣きそうな子の背中はさりげなく撫でる。年長の子には、「この子、夜に咳がひどくなったらすぐ呼んでくださいね」と役目を頼む。
それらが特別なことだとは、たぶん本人は思っていない。
ただ、子どもたちが少しでも安心して薬を飲める方がいいと、自然にそうしているだけだ。
診察がひと通り終わる頃には、窓の外がすっかり赤くなっていた。
年長の女の子が、湯気の立つ薄いスープを運んでくる。
「はい、今日のお礼」
「え、いいんですか」
「いいの。リリア姉ちゃん、いつも帰るの遅いし」
「でも、みんなの分が減りません?」
「減らないよ。院長先生が、今日はちゃんとリリアちゃんの分もあるからって」
そう言われると断れない。
リリアは中庭の木箱に腰掛け、スープを受け取った。少し塩気が強いけれど、疲れた体にはちょうどいい。温かいものが喉を通ると、それだけで肩の力が抜ける気がした。
しばらくして、隣に院長が腰を下ろす。
「市場で何かあったの?」
いきなり言われて、リリアは危うくむせかけた。
「そんなに顔に出てました?」
「ちょっとね。考え事してる時、あなた左の髪を耳にかける癖があるもの」
言われてみれば、今日だけでも何度やったかわからない。
リリアは少し迷ってから、ぽつぽつと話した。市場で皇女と鉢合わせたこと。みんながいつも通り声をかけてくれて、そのせいで場が変な空気になったこと。最後に見たセレフィナの顔が、どうしても頭に残っていること。
院長は最後まで口を挟まずに聞いていた。
「皇女様も、人間なのよねえ」
「……はい?」
「いや、変な意味じゃなくてね。どうしたって、王族って遠い存在みたいに思うでしょう。でも十八の女の子なら、そりゃ傷つくこともあるだろうなって」
リリアはスープの表面を見つめた。
皇女が傷つく。
その発想が、なかったわけではない。市場で見たあの顔を思い出すと、たしかにそう思えなくもない。けれど、それを口にするのはどこか不敬な気がした。
「でも、私に何かできるわけじゃありません」
「そうかしら」
院長は少し笑った。
「あなた、変なところで人の懐に入るのうまいもの」
「褒めてます?」
「半分は」
「残り半分が怖いです」
二人で小さく笑う。
笑ったはずなのに、リリアの胸のつかえは少しも取れなかった。
皇女のことなんて、自分には関係ない。
そう思うべきなのに、どうしてか引っかかる。
あの人は、あんな顔をする人だったのか。
それとも、今日だけたまたまだったのか。
答えはもちろんわからない。
だから、その日のうちに忘れてしまうつもりだった。
明日になれば、また別の患者がいて、別の薬草を探して、孤児院へ来れば子どもたちが騒いで、そんなふうに日常が流れていくはずだった。
本当に、そう思っていた。
◇
夜の王城で、セレフィナは書類を睨んでいた。
睨んだところで字は変わらないし、内容も頭に入ってこない。
農地税の見直し案。西方国境の兵站報告。施療院からの予算申請。どれも重要で、いつもの彼女ならすぐに目を通して必要な指示を書き込めるはずだった。
なのに今日は、一行読むたびに意識が逸れる。
市場の喧騒。
子どもの声。
銀色の髪。
「……どうかしてるわね」
自分に呆れて、セレフィナは額を押さえた。
その時、扉が叩かれる。
「失礼いたします。宰相閣下より、至急ご確認いただきたい書類が」
侍女が差し出した封書を受け取り、セレフィナは封を切った。
中には数枚の報告書が入っていた。
王城の薬品庫から、毒性の強い希少薬草が一部紛失していること。
持ち出し記録に不審な点があること。
関係者の聞き取りを進めていること。
そこまではいい。
最後の一枚に書かれていた名前を見て、セレフィナの指が止まった。
リリア・アルヴェイン。
喉の奥が、ひゅっと細くなる。
「……何、これ」
声に出したところで、答える者はいない。
根拠はまだ薄い。報告書にも“関与の可能性”としか書かれていない。けれど、ヴァルディスが夜のうちにこれを回してきた意味は軽くない。
さっきまで市場で笑っていた娘の名前が、王城の薬品庫の不正持ち出しに並んでいる。
馬鹿げている、と思った。
何かの間違いだとも思った。
だが同時に、嫌な予感が胸の底へ沈んでいく。
窓の外では、風が強くなっていた。
春の夜にしては冷たい風だ。
その夜、セレフィナはひとつの報告書に目を通した。
リリアは何も知らず、孤児院帰りの疲れのまま眠りについた。
数日後、自分が罪人として王都を追われることも。
数日後、二人の間に百キロの呪いが刻まれることも。
まだ、誰も知らない。
夜は静かだった。
静かすぎて、何かが壊れる前の気配だけが、やけにはっきりと耳に残った。




