《第3話 星喰い病の夜》
薬研に薬草を入れた瞬間、乾いた葉がかすかに鳴った。
リリアは深く息を吸い、手元へ意識を落とす。
焦ってはいけない。
手を震わせてもいけない。
今必要なのは、不安でも怒りでもなく、正確さだ。
星喰い病の初期症状に似た高熱、咳、そして白い筋状の変色。
まだ確定ではない。だが、もしそうだった場合に備えるなら、最初に必要なのは魔力暴走を抑える鎮静剤と、呼吸器への負担を減らすための咳止め、それから熱による消耗を抑えるための解熱薬。
リリアは棚から《月白草》を取り出し、乾燥させた根を細かく砕いた。そこへ《青露花》の花弁を少量。鎮静を強めたいが、子どもの体に負担をかけすぎる配合は駄目だ。ミーナは体が小さい。普段の薬も大人の半量より少し下で調整している。
乳鉢へすり潰した薬草を移し、匙で混ぜる。
白い粉がふわりと舞い、鼻先に苦みのある香りが届いた。
「……違う」
リリアは小さく呟き、混ぜかけた粉を見つめた。
《月白草》をほんの少し減らす。
その代わり、《夜鈴草》の乾燥粉を一つまみ。
星喰い病の初期には、咳と同時に喉奥の熱感が強く出ることがある。あの子は苦い薬が苦手だから、飲みやすさも考えないといけない。夜鈴草を入れれば刺激はやわらぐ。代わりに効きが少し遅くなるが、初期鎮静なら許容範囲だ。
手は動いているのに、頭のどこかでは別のことばかり考えてしまう。
ミーナの顔。
王城の会議室。
消えた見張り。
そして、セレフィナのあの表情。
――わかっている、けれど。
あの一言が、耳に残って離れない。
本当に罪人だと思っているなら、あんな顔はしないはずだ。
けれど、庇ってくれたわけでもない。
何も言わなかった。
言えなかったのかもしれないし、言うつもりがなかったのかもしれない。
そこまで考えて、リリアは首を振った。
今は関係ない。
乳鉢の中の粉を瓶へ移し、次の薬へ取りかかる。咳止めは液状の方が飲ませやすい。蜂蜜漬けの《銀雫果》を煮出し、《風鳴り草》の抽出液を合わせる。普段なら喉に優しいよう柑橘の皮も少し使うが、今日は刺激が怖い。余計なことはしない。
鍋の縁で薬液が小さく泡立ち始めた時、クラウスが出ていく音がした。
玄関の扉が開き、閉まる。
家の中が急に広くなった気がした。
◇
クラウスが孤児院へ向かってから、一時間も経っていないはずだった。
けれどリリアには、夕方が丸ごと引き延ばされたみたいに長く感じられた。
解熱薬を小瓶へ移し、次に予備の鎮静剤を作る。念のため、結晶化が始まった場合に患部の痛みを和らげる塗り薬も用意する。実際に使うかはわからない。使わないで済むなら、それが一番いい。
それでも手を止められなかった。
薬師は、待つだけの時間がいちばん苦しい。
診察できない。
脈も、呼吸も、顔色も、自分の目で見られない。
なのに、症状だけは頭の中でどんどん悪い方へ転がっていく。
何度目かのため息をつきかけた時、控えめに扉が叩かれた。
「リリア姉ちゃん……いる?」
聞き慣れた声だった。
リリアが玄関へ向かうと、そこに立っていたのは南区の孤児院の子ども――トマだった。十歳の少年で、ミーナとはよく喧嘩して、よく一緒に怒られている。息を切らし、目を真っ赤にしている。
「トマ? どうしてここに……」
「ミーナが、リリア姉ちゃん呼んでる」
胸の奥がひやりとした。
「クラウス先生が来てくれたけど、ミーナ、ずっと『リリア姉ちゃんは』って……」
トマはそこで鼻をすすった。
「俺、連れてきちゃ駄目だって言われた。でも、あいつ、すごく苦しそうで……」
リリアは思わず目を閉じる。
駄目だ。
行ってはいけない。
王城からはっきり自宅謹慎を言い渡されたばかりだ。ここで勝手に出歩けば、向こうに口実を与える。クラウスにも止められた。理屈は全部わかっている。
それでも、トマの後ろに見える夕暮れの色が、どうしても遠く感じられなかった。
「……今、ミーナはどんな様子?」
「熱が高くて、咳も止まらない。さっき、腕だけじゃなくて首のあたりにも白いのが出てきたって……」
やはり、ただの風邪ではない。
リリアは唇を噛む。
首筋まで白い筋が出ているなら、結晶化の前兆が進んでいる可能性がある。進行が早い。子どもだから、なおさら。
「トマ、ちょっと待ってて」
踵を返し、作業台へ走る。さっき作った薬の瓶を布で包み、予備の粉薬もまとめて鞄へ詰める。水筒、布、診察用の小さな灯り石。必要なものだけを手際よく押し込んで、玄関へ戻る。
「行くの!?」
トマがぱっと顔を上げる。
リリアは一瞬だけ躊躇した。
本当にこれでいいのか。
ここで出たら、後戻りできないかもしれない。
でも、迷っている時間がいちばん無駄だ。
「ミーナを診ます」
「でも王城が――」
「知ってます。でも、患者さんが呼んでるのに行かない方が、私には無理です」
それは誰に言い訳しているのか、自分でもわからなかった。
扉に鍵をかけ、リリアはトマと一緒に走り出す。
夕暮れの王都は、昼間より人通りが多い。買い物帰りの人々、店じまいの準備をする商人、家路を急ぐ親子。その間を縫うようにして、リリアは孤児院への坂道を駆け上がった。
途中で何人かに呼び止められた気がした。
「王城に呼ばれたって本当?」
「大丈夫なの?」
そんな声が飛んだ気もする。
けれど、もう耳に入らなかった。
◇
孤児院の扉を開けた瞬間、熱気と薬臭さが一気に押し寄せた。
古い木造の建物は、いつ来ても少しだけ甘い煮込みの匂いがして、子どもたちの笑い声がどこかで響いている場所だった。けれど今は違う。空気が張りつめていて、廊下を走る足音さえ憚られる。
院長のマルタが、部屋の前で振り向いた。
「リリアちゃん……!」
驚きと安堵と、少しの戸惑いが混じった声だった。
「ごめんなさい、来ちゃいました。ミーナは?」
「中よ。クラウス先生が診てる」
部屋へ入ると、熱気の中心がそこにあった。
狭い寝台の上で、ミーナが苦しそうに息をしている。頬は赤く、額には汗がにじみ、細い肩が呼吸のたびに上下していた。咳をこらえるたびに体が小さく折れる。首筋から左腕にかけて、白い筋のようなものが薄く浮いているのが見えた。
クラウスが顔を上げ、ぎょっとした顔になる。
「リリア! 何で来た!」
「ミーナが呼んでるって」
「だからって……!」
言いかけた父の言葉を、寝台の上の声が遮った。
「……リリア、姉ちゃん」
ミーナがうっすら目を開ける。
焦点の合わない瞳が、それでもリリアを見つけた瞬間だけ、少し安心したように揺れた。
その顔を見たら、もう迷いなんてどこにも残らなかった。
リリアは寝台の脇に膝をつき、額へ手を当てる。
熱い。
予想以上に。
「ごめんね、遅くなった」
「ううん……来て、くれた」
声が掠れている。
喉の炎症もかなり強い。
リリアは首筋の白い筋をそっと観察した。結晶化の前段階に近い。けれど、まだ完全に固まってはいない。今なら抑え込める可能性がある。
「お父さん、脈は?」
「速い。だがまだ乱れ切ってはいない。魔力の波が少し不安定だ」
「呼吸は浅いけど、肺に濁音は少ない……咳で体力が削られてる方が危ないですね」
クラウスは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに仕事の顔になる。
「持ってきた薬は」
「初期鎮静、解熱、咳止め。あと塗り薬も」
リリアは鞄を開き、薬瓶を並べた。
ミーナの目がぼんやりとその動きを追う。
「……また、苦いやつ?」
「今回は少しだけましです」
「少しだけって、たいてい苦い」
こんな時なのに、そんな文句を言う余裕があるのかと、少しだけ泣きそうになった。
「飲めたら、あとで昔話をひとつ追加します」
「二つ」
「欲張り」
「病人だから……」
声が小さくなる。
次の咳で、ミーナの体がびくりと跳ねた。苦しそうに胸元を押さえる。
リリアはすぐに咳止めの液を匙に取り、唇へ運んだ。
「ゆっくりでいいから、飲んで」
ミーナは顔をしかめながらも、どうにか飲み込む。続けて鎮静剤を少量ずつ。喉が荒れているから一度に流し込まない。少し待ち、呼吸が落ち着いたところで次を飲ませる。
その間に、リリアは塗り薬を指に取り、白い筋の浮いた首筋へやさしく塗り込んだ。触れると、皮膚の下で熱とは別のざらつきがある。結晶化の芽だ。
――早い。
嫌な汗が背中を伝う。
もしこれが本当に星喰い病なら、ここまで進むのが早すぎる。発熱して半日程度でこの状態はおかしい。何か別の要因があるか、あるいは最初の異変に気づくのが遅れたか。
リリアは目を細める。
ミーナの髪の生え際、首筋、指先。
呼吸の間隔。
瞳の揺れ。
何かがおかしい。
「ミーナ、今日、何か変わったもの食べた?」
「……パンと、スープ」
「薬は? 私が置いていったやつ以外で飲んだものは?」
「朝、ちょっと咳したから……棚の瓶、飲んだ」
クラウスとリリアの視線が同時に上がる。
「棚の瓶って、どれ」
「昨日、マルタ先生がもらったって……茶色い小さいやつ」
マルタがはっとした顔をする。
「まさか、あれ……? 南区の商人が“咳に効く新しい薬だ”って寄付していった瓶があって……」
「どこです」
リリアの声が鋭くなる。
マルタは慌てて棚の上から小さな茶色の瓶を持ってきた。栓を抜いた瞬間、鼻を刺すような匂いが立つ。
リリアは目を見開いた。
「これ……」
「知ってるのか」
クラウスが低く問う。
リリアは瓶の口へ鼻を近づけ、ほんのわずかだけ液を指先に取った。舌先に触れない程度に香りだけ確かめる。
間違いない。
「《白哭きの蜜》が混じってる」
部屋の空気が止まった。
《白哭きの蜜》。
本来はごく少量なら鎮静にも使えるが、扱いを誤れば魔力の流れを乱し、星喰い病に似た症状を引き起こす危険な薬材だ。王城管理の希少薬草からしか精製できないはずのもの。
リリアの指先が冷たくなる。
王城の薬品庫から消えた希少薬草。
それと同系統の成分が南区で見つかったという話。
そして、今、孤児院に届いた“咳に効く新しい薬”。
偶然で済むはずがない。
「誰がこれを持ってきたんですか」
マルタは青ざめた顔で首を振る。
「商人風の男だったわ。顔までは……でも、いつも寄付に来る人じゃなかった」
「いつ来たの」
「昼前よ。ちょうどあなたが王城へ呼ばれた頃だったと思う」
リリアは息を呑んだ。
あまりにも出来すぎている。
まるで、王城で自分へ疑いが向くのと同じタイミングで、南区に“証拠”をばらまいたみたいだ。
クラウスが瓶を受け取り、眉間に深い皺を刻む。
「……やられたな」
「お父さん」
「これはただの冤罪じゃ済まん。南区で実害が出れば、“王城の薬を盗んで民へ危険な薬をばらまいた薬師”という筋書きが完成する」
その言葉に、マルタが口元を押さえた。
トマや他の子どもたちも、部屋の外から不安そうに覗いている。
リリアは一瞬、立ちくらみのような眩暈を覚えた。
自分を陥れるために、子どもが利用された。
もしミーナがこれを飲まなければ。
もし他の子が先に口にしていたら。
考えるだけで、胃の奥が冷たくなる。
けれど、倒れている場合ではない。
「ミーナは星喰い病そのものじゃありません」
リリアはきっぱり言った。
「症状は似てるけど、原因はこれです。《白哭きの蜜》で魔力の流れが乱されてる。放っておけば結晶化まで進むかもしれないけど、まだ戻せます」
マルタが泣きそうな顔で縋る。
「本当に……?」
「やります。絶対」
自分に言い聞かせるように、リリアは頷いた。
「お父さん、《青露花》の抽出液をもう少し濃くします。あと、《灰月樹》の樹皮を煮てください。魔力の逆流を抑える方を優先したい」
「わかった」
「マルタ先生、ぬるま湯と清潔な布を。トマ、他の子を部屋から離して。瓶には触らせないで」
「う、うん!」
みんなが動き出す。
それだけで、部屋の中の空気が少しだけ前へ進んだ。
リリアは再びミーナの傍らへ膝をついた。
「ミーナ、ちょっとだけ苦い薬、増えます」
「さっき……少しましって言ったのに」
「ごめん。あれは、あの時点では本当だったんです」
「ずるい……」
かすれた抗議に、思わず笑いそうになる。
笑ってはいけない場面なのに、その弱々しい文句が、妙にいつものミーナらしかった。
リリアは額の汗を拭ってやりながら、そっと囁く。
「でも、治ったら昔話は三つに増やします」
「……五つ」
「交渉上手になりましたね」
「リリア姉ちゃんが……甘いから」
そのまま、ミーナは少しだけ目を閉じた。
呼吸はまだ浅い。
けれど、咳止めが効き始めたのか、さっきより苦しそうな波は減っている。
今のうちに、逆流した魔力を落ち着かせる。
リリアは薬を調合しながら、頭の中で別の計算もしていた。
《白哭きの蜜》が王城由来なら、誰かが意図的に南区へ流したことになる。
しかも、王城で自分が疑われるタイミングに合わせて。
つまり、犯人は少なくとも王城の動きを把握している。
そして、リリアに罪を着せるつもりでいる。
◇
夜が完全に落ちる頃、ようやくミーナの熱が少し下がった。
まだ油断はできない。
白い筋も残っているし、眠りも浅い。
それでも、さっきまでの危うい呼吸は落ち着き、脈も少し整ってきた。
リリアは寝台の脇に座ったまま、長く息を吐く。
マルタが涙ぐみながら頭を下げた。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
「まだ終わってません。今夜は二時間おきに様子を見てください。咳が強くなったらすぐ起こして、手足が冷え始めたら毛布を一枚追加して」
「ええ、ええ」
クラウスも、ようやく少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「今夜は俺が残る」
「お父さんが?」
「お前を一人で帰らせるわけにもいかんし、ミーナもまだ不安定だ」
「でも家の方は」
「家よりこっちだ」
短い言葉だったが、リリアも同じ気持ちだった。
その時、廊下の向こうで慌ただしい足音がした。
誰かが走ってくる。
ひとりではない。重い靴音がいくつも重なっていた。
リリアとクラウスが同時に顔を上げる。
扉が勢いよく開いた。
現れたのは、王城の騎士たちだった。
先頭に立つ若い騎士は、昼にアルヴェイン家へ迎えに来た男と同じ人物だ。だが、今の顔には朝の事務的な静けさがない。緊張と、どこか困ったような色が浮かんでいる。
「リリア・アルヴェイン殿」
部屋の空気が一気に凍りつく。
騎士は一礼し、それでもはっきり告げた。
「王命に背き、自宅謹慎中にもかかわらず無断外出した件、ならびに南区孤児院にて危険薬物を使用した疑いにより、あなたの身柄を一時拘束します」
マルタが息を呑む。
トマが悲鳴みたいな声を上げる。
寝台の上で眠りかけていたミーナが、びくりと肩を震わせた。
リリアは立ち上がる。
「危険薬物を使ったのは私じゃありません。この子が飲んだ瓶なら、そこにあります」
「事情は城で伺います」
「今この子を離れられません。まだ経過観察が必要なんです」
「それでも来ていただく」
クラウスが前へ出た。
「待て。娘は患者を診ていただけだ。しかも、その瓶は明らかに――」
「クラウス・アルヴェイン殿」
騎士の声が少しだけ低くなる。
「我々も本意ではありません。ですが、命令です」
本意ではない。
その一言が、かえって事態の悪さを物語っていた。
つまり、現場の騎士ですらおかしいと思っているのに、命令が覆らない程度には、上から強く押し込まれている。
リリアは一瞬だけ目を閉じる。
逃げることはできない。
ここで騒げば、ミーナが怯えるだけだ。
ゆっくり息を吸って、リリアは騎士へ向き直った。
「……ひとつだけ、待ってください」
「何でしょう」
「ミーナの薬の飲ませ方を、マルタ先生に伝えます。三分だけ」
若い騎士は迷うように視線を揺らし、それから短く頷いた。
「三分です」
リリアは寝台へ戻り、マルタへ早口で薬の順番と量を伝える。夜明けまでの経過観察の注意点、結晶化が強まった時の対処、もし意識が混濁したらすぐに呼ぶこと。クラウスにも追加の処方を確認し、最後にミーナの額へそっと触れた。
「ちょっとだけ行ってきます」
ミーナは半分眠ったまま、かすかに唇を動かした。
「……昔話、五つ」
胸がぎゅっと痛む。
「覚えてます。だから、起きたら請求してください」
立ち上がり、振り返る。
騎士たちの向こう、開け放たれた扉の外は夜だった。
南区の孤児院から王城へ。
昼とは逆の道を、今度は罪人として戻る。
理不尽だと思う。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に、腹の底が静かに熱かった。
誰かが、ミーナを巻き込み、自分へ罪を着せようとしている。
それだけは、もう間違いない。
なら、泣いて終わるわけにはいかない。
リリアは背筋を伸ばき、騎士の前へ歩き出した。
その時だった。
孤児院の外、夜の通りに、止まったばかりの豪奢な馬車の音が響く。
白銀の紋章。
王家の馬車だった。
騎士たちが一斉にざわめく。
リリアが足を止めるより先に、扉の向こうから、澄んだ声が夜気を裂いた。
「待ちなさい」
その声を、リリアは知っている。
昼の会議室で聞いた声。
市場で聞いたことはないのに、なぜか耳に残っていた声。
ゆっくりと、金色の髪の少女が孤児院の前へ姿を現す。
第一皇女、セレフィナ・ルミエール。
彼女は護衛を従えたまま、真っ直ぐリリアを見た。
紅い瞳が、逃がさないように、あるいは失わないように、まっすぐに。
そして次に放った言葉で、その場にいた全員を凍りつかせた。
「その拘束、私が止めます」
夜が、息を呑んだ。
罪人として連れて行かれるはずだった薬師の娘と、
昼には沈黙していたはずの第一皇女。
本来なら決して同じ側に立たない二人の距離が、
この瞬間、ほんの少しだけ動いたのだと、
その場にいた誰もが理解した。
けれど同時に、それは新しい火種でもあった。
皇女が罪人を庇った。
その事実は、明日の朝には王都中へ駆け巡るだろう。
そしてそれは、まだ見えない黒幕にとっても、
きっと想定外では終わらない。
百キロの呪いは、まだ刻まれていない。
それでも運命はもう、
二人を同じ渦の中へ押し込み始めていた。




