「定着」
五月の第三週だった。
エマの実験は、週に一度のペースで続いていた。
六回目になっていた。
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土曜日の午後、四人が仮の作業場に集まった。
カーター教授、サク、エマ、ハルト。
いつもの四人だった。
ただ、今日は少し雰囲気が違った。
エマが来たとき、いつもより表情が落ち着いていた。
緊張していない、ということではなかった。
ただ、最初の実験のときとは違う落ち着き方だった。
「準備できています」エマは言った。開口一番に言った。
「今日は、確認したいことがあります」カーター教授は言った。「前回の実験から一週間、日常の中で魔力の感覚を意識できていましたか」
「はい」エマは言った。「毎日、少し意識するようにしていました。通学中とか、食事のときとか」
「どうでしたか」
「最初の頃は、意識しないとわからなかったです。今は、意識しなくても、ある感じがわかります」
「常時、感じられるようになった、ということですか」
「はい。前は、目を閉じて集中しないと見つけられなかった。今は、普通にしていても、ここにある、という感覚があります」
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カーター教授がサクを見た。
サクが言った。
「今日の実験は、二段階でやりましょう。一段階目、術式を発動する。二段階目、発動したまま、別のことを話してみる」
「別のことを話す、ですか」エマは言った。
「はい」サクは言った。「術式が定着しているかどうかを確認したいんです。最初の頃は、発動することだけに集中しなければなりませんでした。定着すれば、別のことに意識を向けながらでも、術式が維持できるはずです」
「それが、日常での使用に繋がるんですね」
「はい。魔法使いが術式を使いながら会話できるのは、定着しているからです。エマさんにも、同じことができるかどうか、確認したいと思っています」
「やってみます」エマは言った。あっさりした言い方だった。
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実験を始めた。
エマは右手のひらを上に向けた。
目を閉じた。
三十秒が経った。
手のひらの上で、気流が生まれた。
三十秒かからなかった。
先月より、速かった。
「出ています」サクは計測機器を見ながら言った。
エマは目を閉じたまま言った。
「今日、ここに来るとき、電車が混んでいました」
「はい」カーター教授は言った。
「隣に座っていた人が、大きな荷物を持っていて、少し狭くて」
「計測値、維持されています」サクは言った。「続けてください」
「荷物を持っていた人が、途中の駅で降りて、広くなりました。そのとき、少し気流が乱れた気がしました」
「気流が乱れた、というのは感覚ですか」ハルトは言った。
「はい。意識が外れた瞬間、手のひらの感覚が薄くなりました。すぐに戻しましたが」
「どうやって戻しましたか」
「図式を、もう一度頭の中に展開しました。それだけで、すぐ戻りました」
「計測値、安定しています」サクは言った。「維持時間、三十秒を超えました」
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四十秒が経った。
五十秒が経った。
エマは話し続けていた。
「大学で今、気候変動に関する授業を取っています。今週、魔法技術が環境に与える影響についてのレポートを書きました。火系の術式が大気に与える影響について調べていて」
「計測値、六十秒を超えました」サクは言った。声が少し変わっていた。
「一分、超えましたか」エマは言った。目を閉じたままだった。
「はい。まだ維持されています」
「続けます」エマは言った。「レポートを書きながら、火系の術式のエネルギー変換効率について調べていたら、サクさんの研究と関連する論文を見つけました。査読前のプレプリントだったんですが」
「サクの論文ですか」カーター教授は言った。
「はい。タイトルを見て、すぐわかりました。面白くて、全部読みました」
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一分三十秒が経った。
「計測値、維持しています」サクは言った。「エマさん、今、術式を意識していますか」
「正直に言うと、今は話すことに集中しています。術式は、意識の端にある感じです」
「意識の端に、ですか」
「はい。前は術式が全部でした。今は、端にあっても維持できています」
「計測値から見ても、そうです」サクは言った。「数値が安定しています。会話しながらでも、乱れていません」
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二分が経った。
エマが少し間を置いた。
「止めます」エマは言った。
気流が止まった。
目を開けた。
「二分間でした」サクは言った。
エマはしばらく、自分の手のひらを見ていた。
「意識の端に置いたまま、話せました」エマは言った。
「はい。データとしても確認できました」カーター教授は言った。「定着していると言っていいと思います」
「定着、か」エマは繰り返した。
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少し間があった。
「教授」エマは言った。
「はい」
「定着したということは、訓練を続ければ、さらに長くできますか」
「そうです。魔法使いの場合、長時間の訓練を経て、無意識に近い状態で術式を維持できるようになります。同じことが、あなたにも起きると思います」
「無意識に近い状態」エマは言った。「それって、魔法使いと同じことができる、ということですか」
「術式の発動という点では、同じことができると思います」カーター教授は言った。「センスの差ではなく、訓練の差だったということが、今日のデータでさらに裏付けられました」
「そうですか」エマは言った。少し間を置いた。「私、ずっと、自分には才能がないと思っていました。父が魔法使いで、私だけが使えなくて。才能がないから仕方ないと、どこかで諦めていました」
「はい」
「ただ、才能がなかったのではなく、訓練の機会がなかっただけだった」エマは言った。「それが、今日、改めてわかりました」
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サクが言った。
「エマさん、今日のデータは、この研究にとって大事なデータです。魔力保有者が、訓練を経て術式を定着させた最初の記録です」
「世界初、ですか」エマは言った。
「はい。今日付けで記録されます」
「そうですか」エマは言った。「なんか、実感がないですね。ただ手のひらから風が出ているだけなのに」
「それが全部です」ハルトは言った。「大きなことは、小さなことの積み重ねです」
エマはハルトを見た。
「ハルトさんって、いつもそういうことを言いますね」
「事実だと思っています」
「うん」エマは言った。「わかってきました、最近。ハルトさんが事実と言うとき、本当に事実なんだって」
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片付けをしながら、エマがサクに言った。
「サクさん、論文の修正、大変ですか」
「大変だけど、楽しい」サクは言った。「修正することで、論文が強くなっていくのが、わかるから」
「そうですか。私も、読んだ感想を言ってもいいですか」
「もちろん」
「非常に読みやすかったです。専門的な内容なのに、なぜそれが重要かが、最初から丁寧に書いてありました。私みたいに専門外の人間でも、意義がわかりました」
「それは嬉しい」サクは言った。「研究者じゃない人にも伝わるようにしたかったから」
「ちゃんと伝わっていました」エマは言った。「この論文が出たとき、私みたいな人間が、自分のことだと気づくと思います。使えないのではなく、使い方を知らなかっただけだって」
サクは少し間を置いた。
「そう思ってもらえたら、この研究を続けてきた意味があります」
「あります」エマは言った。「確実に」
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実験が終わった。
四人で仮の作業場を出た。
廊下を歩きながら、カーター教授がハルトに言った。
「神崎さん、帰国まであと少しですね」
「はい。二ヶ月を切りました」
「この実験に参加してもらえてよかったです」カーター教授は言った。「あなたが最初の被験者として参加してくれたから、エマの実験に繋がりました。あなたの記録が、今日のデータの根拠の一つになっています」
「はい。参加できてよかったです」
「帰国後も、この研究との関わりを持ち続けてもらえますか」
「はい。できる範囲で」ハルトは言った。「記録は、持ち帰ります」
「記録を持ち帰る、ですか」カーター教授は言った。少し笑った。「あなたらしい言い方ですね」
「事実として言っています。この実験で積み上がった記録は、全部頭の中にあります。日本に帰っても、消えません」
「それは、心強いです」カーター教授は言った。「今後も、何かあれば相談させてください」
「はい。いつでも」
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キャンパスを出た。
五月の夕方だった。
少し風があった。
エマが足を止めた。
手のひらを上に向けた。
「試してみていいですか」エマは言った。
「どうぞ」カーター教授は言った。
エマは少し目を閉じた。
数秒後、手のひらの上で、小さな気流が生まれた。
風があった。
エマが作った気流と、自然の風が混ざった。
二秒、三秒、四秒。
続いた。
エマが目を開けた。
「外でもできました」エマは言った。
「はい」カーター教授は言った。静かな声だった。
「外でできるということは、日常で使えるということですね」
「そうです」
エマは空を見た。
「父が魔法使いで、子どものころ、父が術式を使うのをよく見ていました」エマは言った。「外で使っているのを見て、いいなと思っていました。自分にはできないと思っていた。今日、同じことができました」
「はい」カーター教授は言った。
父と娘が、並んで立っていた。
何も言わなかった。
ただ、並んで、空を見ていた。
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電車に乗った。
ハルトとサクが並んで座った。
「どうだった、今日」サクは言った。
「よかったと思います」
「うん。二分間、定着した。外でもできた」サクは言った。「データとして大事なのはわかってる。ただ、今日一番大事だったのは、エマさんが外でやってみようと思ったことだと思う」
「はい。自分から試していました」
「定着すると、使いたくなる。使いたくなるから、使い続ける。そのサイクルが始まった気がした」サクは言った。「才能がないと思っていた人が、使えるようになって、使いたいと思う。それが、この研究が目指していたことの一つだと思う」
「はい」
「ハルトくん、今日、カーター教授に何か言われてたね。廊下で」
「記録を持ち帰ると言いました」
「記録を持ち帰る、か」サクは言った。「ハルトくんが日本に帰っても、ここで積み上がったことは、全部ハルトくんの中にある、ということだよね」
「はい。消えません」
「そっか」サクは言った。「なんか、それが一番の安心だな」
「そうですか」
「うん」サクは言った。「ハルトくんが覚えていてくれれば、この記録は消えない。それだけで、安心できる」
「はい。消えません。全部、持って帰ります」
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窓の外に、夕方の街が流れていった。
今日のことを頭の中に入れた。
エマの三十秒かからない発動。会話しながらの二分間。「意識の端に置いたまま維持できた」という言葉。外での発動。父と娘が並んで空を見ていた場面。サクの「使いたくなるサイクルが始まった」という言葉。
全部、残った。
今日、定着が確認された。
エマが術式を発動できるようになってから、二ヶ月が経っていた。
最初は二秒だった。
今日は二分になった。
それが、記録として積み上がっていた。
センスの差ではなく、訓練の差だった。
それが、今日の数字として残った。
帰った。
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第九十四話 了




