「四人の実験」
三月になった。
論文を提出してから、三週間が経っていた。
査読の結果は、まだ来ていなかった。
通常、査読には数ヶ月かかる。カーター教授は「早くて夏、遅ければ秋」と言っていた。
待つ間も、研究は続いていた。
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月曜日の朝、サクは研究室に来た。
カーター教授がいた。
もう一人いた。
二十代前半の女性だった。
カーター教授に似ていた。目元が、特に似ていた。
「サク、紹介します」カーター教授は言った。「娘のエマです」
「はじめまして」エマは言った。日本語だった。少しぎこちなかったが、はっきりしていた。「カーター・エマです。よろしくお願いします」
「はじめまして、佐久間サクです。よろしくお願いします」
「父から話を聞いています」エマは言った。「すごい研究だと思っています」
「ありがとうございます」
カーター教授が言った。
「エマは現在、別の大学で生物魔法学を専攻しています。魔力保有者として、これまで術式の発動を試みたことが何度もあります。ただ、成功したことはありません」エマは苦笑いした。「父親が魔法使いなのに、私は魔力保有者止まりで」
「それが、今回の実験に一番関係しています」カーター教授は言った。
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会議室に移った。
四人で座った。
カーター教授、サク、エマ、そしてハルトだった。
カーター教授が言った。
「今日から始める実験について、全員で認識を合わせます。この実験は、四人以外には知らせません。エマ、それは理解していますか」
「はい。誰にも話しません」
「理由は二つあります」カーター教授は言った。「一つ目、実験がまだ仮説の段階です。成功するかどうかわからない段階で、外部に情報が出ることで、不必要な混乱が起きる可能性があります。二つ目、この実験が示す可能性が非常に大きい。世界の魔法に対する常識を変える可能性があります。そのような情報は、慎重に扱う必要があります」
「はい」エマは言った。
「ハルトさん、あなたはすでに経験者として参加してもらいます。エマへの説明と、実験中のサポートをお願いできますか」
「はい。できます」
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サクが実験の概要を説明した。
「今回の実験の仮説は、魔力保有者が術式を使えない理由は、魔力量の問題ではなく、使い方を知らないことにある、というものです」
エマが聞いていた。
「これまで、魔力保有者が術式を発動できないのは、魔力が足りないからだという説が一般的でした。ただ、先月の実験で、魔力量が非常に少ない状態でも術式が発動したケースが確認されました」
「ハルトさんのケースですか」エマは言った。
「はい」サクは言った。「ハルトさんは非適合者なので、装置を使って魔力を生成しました。ただ、生成できた魔力量は、魔力保有者の平均的な保有量と同程度か、それ以下でした。それでも、術式は発動しました」
「なぜ発動できたんですか」
ハルトは少し間を置いた。
「一つは、術式の記録を持っていたからです」ハルトは言った。「術式の図式を頭の中で展開して、その通りに動こうとしました。ただ、それだけでは足りなかったかもしれません」
「もう一つは、何ですか」
「実際に術式が使われている場面を、見たことがあったからだと思っています」
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エマが少し前のめりになった。
「見たことがある、というのは」
「日本の魔法庁に出向していた時期がありました。そこに、月に二回、訓練場での実技訓練がありました」ハルトは言った。「私は非適合者なので、参加はしませんでした。ただ、見学は何度もしました」
「その訓練を見ていたことが、関係しているんですか」
「今回、発動した術式は、風系基本術式第三号です。その術式を、訓練場で藤本さんという方が使っているのを、何度も見ていました」
「記録として持っている図式と、実際の動きを、両方持っていた、ということですか」
「はい」ハルトは言った。「記録は、文字と図式です。平面です。ただ、実際に使われている術式は、空間の中で動いています。立体です。その差が、記録と実践のギャップだと思っていました。訓練場で術式を見たとき、記録が平面から立体になった感覚がありました」
エマは少し間を置いた。
「記録が立体になった、か」
「はい。図式として知っていたものが、実際に空間の中で動いているのを見て、繋がりました。手のひらに魔力の感覚があったとき、その立体のイメージを合わせたら、動きました」
「つまり、平面の記録を立体として感覚的に掴めたから、発動できた、ということですか」
「そう思っています」
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カーター教授が口を開いた。
「それが、魔法使いと魔力保有者の違いかもしれません」
「どういうことですか」エマは言った。
「魔法使いは、平面の図式を立体として感覚的に掴む力が長けています。それが、これまでセンスと呼ばれてきたものの正体かもしれない」カーター教授は言った。「生まれつきその力が高い人間は、少し訓練するだけで術式を発動できた。それが魔法使いと呼ばれるようになった」
「では、魔力保有者は」
「平面を立体として掴む力が弱かった、あるいは訓練の機会がなかっただけかもしれない」カーター教授は言った。「ハルトさんは、記録という平面と、訓練場での実際の動きという立体の両方を持っていた。それが今回の成功に繋がった可能性があります」
「だとすれば」エマは言った。「私に、立体のイメージを持たせれば」
「その可能性を確認したいと思っています」カーター教授は言った。
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実験室に移った。
「今回の実験で使う術式は、風系基本術式第三号です」サクは言った。「構造がシンプルで、中心から外に向かって、均一に力を広げる術式です。ハルトさんも最初に発動したのが、この術式でした」
エマは図式を見た。
「シンプルですね」
「はい。まず、この図式を頭の中に入れてください」サクは言った。「ただし、今日は図式を覚えるだけではありません。実際に術式が使われている場面を、体で感じてもらいます」
「体で感じる、ですか」
「ハルトさんが発動できた理由の一つが、実際の動きを見て立体として掴んでいたことでした」サクは言った。「だから、今日は私と教授が実際に術式を使います。エマさんには、その場に一緒にいてもらいます。見るだけではなく、風が自分の肌に当たる感覚、空気が動く感覚を、体ごと覚えてほしいんです」
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カーター教授が立った。
「まず私が使います。エマ、目を閉じなくていいです。ただ、全部を感じてください。風の動き、空気の変化、音。全部です」
「はい」
カーター教授は足を肩幅に開いた。
両手を軽く広げた。
少し間を置いた。
それから、動いた。
空気が動いた。
カーター教授の周囲で、気流が生まれた。
最初は小さかった。
それが、円を描くように広がっていった。
エマの髪が揺れた。
サクのコートの裾が揺れた。
ハルトの頬に、風が当たった。
均一だった。
中心から外に向かって、一定の圧で広がっていた。
「これが、風系基本術式第三号の標準形です」カーター教授は言った。術式を使いながら話していた。「今、空気がどう動いているか、感じてください」
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エマは目を開けたまま、カーター教授を見ていた。
髪が揺れていた。
肌に、風が当たっていた。
「中心から、広がってくる感じ」エマは言った。
「はい。それが術式の動きです」
カーター教授が術式を止めた。
「今感じたことを、頭の中に残してください」
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次にサクが立った。
「私が使います」サクは言った。「教授の術式と、少し感じ方が変わると思います。個人によって、細部に差があります。その差も含めて、感じてください」
サクは両手を上げた。
少し時間がかかった。
カーター教授より、立ち上がるのに時間がかかった。
それから、気流が生まれた。
カーター教授の気流より、少し柔らかかった。
広がるスピードが、ゆっくりだった。
ただ、方向は同じだった。
中心から外に向かって、均一に広がっていた。
「同じ術式ですが、感じ方が少し違いますよね」サクは言った。「中心から外に向かう、という骨格は同じです。ただ、速さと強さは私のやり方になっています」
「うん」エマは言った。「教授の方が、少し力強い感じがした。サクさんのは、柔らかい」
「はい。ただ、どちらも同じ術式です」サクは術式を止めた。「骨格さえ合っていれば、細部は人によって違っていいんです」
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ハルトが言った。
「エマさん、今見た二つの術式と、この図式を照らし合わせてみてください」
ハルトは図式を差し出した。
エマは受け取った。
図式と、今見た動きを、頭の中で重ねようとしているのが、表情から伝わってきた。
「図式は平面です」ハルトは言った。「ただ、今見た術式は、空間の中で動いていました。この図式が、空間の中でどう動くかを、頭の中で想像してみてください」
「図式を立体にする、ということですか」
「はい。私が発動できたのは、訓練場で同じ術式を何度も見ていたからだと思っています。図式として平面で知っていたものが、実際の動きとして立体になりました。その立体のイメージを持った状態で、魔力の感覚に向かって動かしたとき、繋がりました」
エマはしばらく図式を見ていた。
「見た気流を、図式に当てはめると」エマは言った。「この矢印が、さっきの風の動きに対応しているんですね」
「はい。矢印は平面ですが、実際は空間の中で円を描いています」
「この曲線が、サクさんの柔らかい広がり方で」
「はい」
「教授の方は、もう少し力強く広がっていたから、矢印の密度が高くなるイメージで」
「そうです」ハルトは言った。「今、図式が立体として見えてきていますか」
「少し」エマは言った。「さっきまで、ただの矢印だったのに」
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「今日は、ここまでにしましょう」カーター教授は言った。
「まだ試していません」エマは言った。少し前のめりだった。
「わかっています」カーター教授は言った。「ただ、今日の目的は、立体のイメージを持つことです。試すのは次回にします」
「なぜですか」
「記録として頭に入れる時間が、必要です」カーター教授は言った。「今日見たこと、感じたことを、一度持ち帰って、自分の中で整理してください。術式が動くイメージを、寝る前にも思い浮かべてください。立体として定着してから、試した方が、精度が上がります」
エマは少し考えた。
「わかりました」エマは言った。「ただ、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「ハルトさんは、訓練場で何度も見てから、試したんですか」
「はい。訓練場での見学を、何ヶ月も続けていました。同じ術式を、何度も何度も見ました」
「何ヶ月も」エマは繰り返した。「今日、一回見ただけの私が、すぐに試せるわけではないですね」
「そうかもしれません」ハルトは言った。「ただ、今日は教授とサクさんが直接見せてくれました。私が訓練場で見ていたのは、遠くからでした。今日のエマさんの方が、近くで感じられていたと思います」
「それは、有利ですか」
「有利だと思います」
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実験室を出た。
廊下を歩きながら、エマがハルトに言った。
「ハルトさん、訓練場で見続けていた話、もう少し聞かせてもらえますか」
「はい」
「どんなふうに見ていましたか」
「記録と照合しながら見ていました。データベースの術式記録と、実際の動きを照らし合わせて、どこが一致して、どこが違うかを確認していました。それを続けていると、記録の図式を見たとき、自然と動きが浮かぶようになりました」
「記録を見るたびに、動きが浮かぶ。それが、立体になるということですね」
「そうだと思います」
「私も、今日から試してみます」エマは言った。「図式を見るたびに、今日感じた動きを重ねてみます」
「それが、一番の準備だと思います」
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キャンパスを出た。
三月の夕方だった。
空が少しオレンジ色になっていた。
四人でしばらく並んで歩いた。
「次回、いつにしますか」エマは言った。
「来週でいいですか」カーター教授は言った。「一週間、図式と動きを頭の中で繰り返してください。準備ができたと思ったら、連絡してください」
「わかりました」エマは言った。少し間を置いた。「今日、少し、世界が変わった気がしました」
「まだ何もしていないのに、ですか」サクは言った。
「何もしていないわけじゃないです」エマは言った。「今日まで、使えないと思っていた。その前提が、今日、揺らぎました。それだけでも、十分です」
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駅で四人が別れた。
エマとカーター教授は同じ方向に向かった。
ハルトとサクは、少し残った。
「どうだった?」サクは言った。
「ハルトくんの訓練場の話、初めて聞いた」
「はい。今日、改めて整理できました」
「魔法庁に行っていてよかったんだね」サクは言った。「あの経験が、今日の話に繋がった」
「はい。ただ、あのときは、今日に繋がるとは思っていませんでした」
「記録って、そういうものだよね」サクは言った。「積み上がって、後から繋がる」
「はい。そうだと思います」
「ハルトくんが魔法庁で術式を見続けていなければ、今日の話は出なかった」サクは言った。「一番最初の伏線が、魔法庁だったんだね」
「そうかもしれません」
「来週、エマが使えるといいな」サクは言った。
「はい。使えると思います」
「根拠は?」
「今日、図式が立体として見えてきていると言っていました。入口は開いています」
「ハルトくんが言うなら、そうだと思う」サクは言った。「また来週」
「はい。また来週」
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電車に乗った。
窓の外に、サンフランシスコの夕方が流れていった。
今日のことを頭の中に入れた。
エマの登場。四人での会議。訓練場での記憶の話。カーター教授とサクの術式。エマが感じた風。図式が立体として見え始めた瞬間。
全部、残った。
訓練場で藤本さんの術式を見た日のことが、頭に戻ってきた。
あの日、記録が立体になった。
その経験が今日、エマに伝わった。
帰った。
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第八十五話 了




