「二月」
二月になった。
サンフランシスコは、冬でも晴れる日が多かった。
一月の実験から、三週間が経っていた。
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実験は、続いていた。
カーター教授と週に一度、実験室に入った。
一月の最初の実験から、少しずつ進んでいた。
二回目の実験では、魔力の生成時間が六秒になった。
三回目では、十一秒になった。
四回目では、二十秒を超えた。
毎回、数値が積み上がっていった。
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四回目の実験の後、カーター教授が言った。
「神崎さん、今日の実験で、一つ確認したいことがあります」
「はい」
「術式を発動するとき、何を意識していますか。毎回、同じ方法ですか」
「はい。毎回、記録の図式を頭の中で展開します。その上で、手のひらの感覚に向かって、図式通りに動かそうとします」
「それが、安定して機能しているということですね」
「はい。ただ、続く時間が、毎回少し長くなっています」
「なぜだと思いますか」
「わかりません。ただ、回数を重ねるごとに、図式と感覚の対応が、より明確になっている気がします」
「対応が明確になる、というのは」
「記録として持っている図式と、実際の感覚の間に、最初は少しずれがありました。数値記録で見たパターンと、感覚として感じるパターンが、完全には一致していなかった」ハルトは言った。「回数を重ねるごとに、そのずれが小さくなっています」
「記録と感覚が、一致してきている、ということですか」
「はい。そう思います」
カーター教授は少し間を置いた。
「神崎さん、それは非常に重要な知見です。術式の習得において、記録の精度と感覚の対応が鍵になる可能性があります。魔法使いの場合、感覚から始めて記録で補完します。あなたの場合は、記録から始めて感覚で確認している。順序が逆ですが、到達する場所は同じかもしれません」
「方法が違うだけで、到達できる場所は同じかもしれない、ということですか」
「はい」カーター教授は言った。「それが、今日確認できたことです」
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実験室を出た。
サクが廊下で待っていた。
「どうだった?」
「二十秒を超えました」
「また伸びた」サクは言った。「毎回、記録が更新されてる」
「教授と話していたことで、一つ確認したことがあります」
「何?」
「記録から始めて感覚で確認する方法が、感覚から始めて記録で補完する魔法使いの方法と、到達する場所は同じかもしれないということです」
「方法が違うだけで、同じ場所に行ける、ってこと?」
「はい」
サクは少し間を置いた。
「それって、私が研究で証明しようとしていることと、同じだ」サクは言った。「非適合者でも、方法が違うだけで、魔法使いと同じ場所に行ける」
「はい。今日の実験が、それを示しているかもしれません」
「論文に入れたい」サクは言った。少し声が速くなった。「教授に相談する。この実験の知見、論文に加えられるか確認する」
「はい。確認してください」
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二月の第二週になった。
論文の提出日だった。
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朝、サクから電話が来た。
「ハルトくん、今日だよ」
「はい。今日ですね」
「緊張してる」
「はい。サクさんが緊張しているのは、わかります」
「ハルトくんは?」
「私も、少し緊張しています」
「ハルトくんが緊張するの、珍しいね」サクは言った。
「サクさんの大事な日なので」
「そっか」サクは言った。少し間を置いた。「ありがとう」
「はい」
「今日、午後に提出する予定。教授と一緒に、オフィスに出す。終わったら連絡する」
「はい。待っています」
「長かったな」サクは言った。静かな声だった。「日本で研究を始めてから、ずっとこれを目指してた」
「はい」
「申請が買収されたときも、IMPに連行されたときも、やめなかった」
「はい」
「やめなくてよかった」
「はい。そう思います」
「ハルトくんが待っていてくれたから、やめなかった部分もあると思う」サクは言った。「だから、今日、ハルトくんに最初に言いたかった」
「はい。受け取りました」
「じゃあ、午後に提出してくる。また連絡する」
「はい。頑張ってください」
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IMPOに出勤した。
通常の業務をこなした。
ドイツとの翻訳辞書作業が、百五十件を超えた。
フランスとの照合も、六十件に達していた。
動作の方向性を軸にした分類は、先月の会議で正式な提案として採択されていた。
各国がそれぞれの記録を、新しい分類に沿って整理し始めていた。
仕事は、着実に進んでいた。
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昼過ぎ、デイヴィッドが声をかけてきた。
「神崎さん、今日、何かありますか。少し、雰囲気が違う気がして」
「今日、関係者が大切な提出をする日です」
「ご家族ですか」
「知人です。研究者です。長い間、目指してきた論文の提出日です」
「そうですか」デイヴィッドは言った。「それは、大切な日ですね」
「はい」
「うまくいくといいですね」
「はい。そう思っています」
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午後三時過ぎだった。
スマートフォンが鳴った。
サクからだった。
席を外した。廊下に出た。
「ハルトくん」
「はい」
「出した」サクは言った。
ハルトは少し間を置いた。
「はい」
「さっき、教授と一緒に、正式に提出した。受付番号も発行された。記録として、残った」
「おめでとうございます」
電話口が少し静かになった。
「ありがとう」サクは言った。声が少し揺れていた。「ありがとう、ハルトくん」
「はい」
「変換効率七十五パーセントのデータと、実証実験の初期データも含めた。非適合者が装置を通じて術式を発動できた事実は、仮名で処理しているけど、ちゃんと入っている」
「はい」
「記録として残った。誰にも奪えない」
「はい。残りました」
「アルカナテックに買収されても、IMPに連行されても、消えなかった記録が、今日、論文として正式に出た」サクは言った。「なんか、色々なことが、今日に繋がってきた気がする」
「はい。繋がりました」
「ハルトくん、今夜、会える?」
「はい。行きます」
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定時になった。
デイヴィッドが声をかけてきた。
「神崎さん、今日お疲れ様でした。関係者の提出、うまくいきましたか」
「はい。無事に提出されました」
「よかったです」デイヴィッドは言った。「今夜、お祝いをするんでしょう」
「はい。これから会いに行きます」
「いいですね」デイヴィッドは言った。「楽しんできてください」
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電車に乗った。
サクの研究室の最寄り駅に向かった。
窓の外に、サンフランシスコの夕方が流れていった。
空がオレンジ色だった。
今日のことを頭の中に入れた。
朝の電話。通常業務。午後の着信。「出した」という一言。「記録として残った」という言葉。
全部、残った。
日本で申請を出したのは、三年前だった。
買収されて、研究の方向性が変えられた。
アメリカに来て、研究を続けた。
今日、論文として提出した。
記録は残った。
ハルトが特許番号を伝えた日があった。サクがアルカナテックの件を話してくれた夜があった。川沿いのベンチで話した午後があった。施設に連行された夜があった。
全部、今日に繋がっていた。
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駅に着いた。
改札を出ると、サクがいた。
コートを着ていた。いつもと同じ格好だった。
ただ、顔が違った。
疲れているようだったが、目が澄んでいた。
ハルトを見た。
「来た」
「はい」
サクは少し笑った。
「おなかすいた」
「はい。食べに行きましょう」
「うん」サクは言った。「今日はお祝いだから、少し良いところにする」
「はい」
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二人で歩いた。
サンフランシスコの夜が始まっていた。
街の明かりがついていた。
「ハルトくん、今日の実験の話、してもいい?」サクは言った。「教授と確認したから、今日の範囲では話せる」
「はい」
「論文に、実証実験の初期データを入れた」サクは言った。「非適合者が装置を通じて魔力を生成し、術式を発動したという事実が、論文の中に記録された」
「はい」
「仮名処理しているから、ハルトくんの名前は出ていない。ただ、事実としては残っている」
「はい」
「査読が通れば、世界に公開される」サクは言った。「非適合者が初めて術式を発動したという事実が、学術的な記録として残る」
「はい。それは、大きいことだと思います」
「うん」サクは言った。「ハルトくんが参加してくれなければ、このデータはなかった。だから、今日は特にありがとうを言いたかった」
「私は被験者として参加しただけです」
「それが全部だよ」サクは言った。「ハルトくんが体験したことが、今日、論文になった」
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店に入った。
少し良い店だった。窓から夜の街が見えた。
向かい合って座った。
「何を頼みますか」サクは言った。
「サクさんに任せます」
「また、任せるって言う」サクは笑った。「じゃあ、今日は私が全部選ぶ。お祝いだから」
「はい」
サクが料理を頼んだ。
飲み物が来た。
サクがグラスを持ち上げた。
「乾杯しよう」
「はい」
「何に乾杯する?」
ハルトは少し考えた。
「記録に」
「記録に」サクは繰り返した。少し笑った。「ハルトくんらしい」
「他に言葉が見つかりませんでした」
「いや、それがいい」サクは言った。「記録に、乾杯」
「記録に、乾杯」
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料理が来た。
二人で食べた。
しばらく、二人とも黙って食べた。
悪い沈黙ではなかった。
温かい沈黙だった。
「ハルトくん、いつ日本に帰るんだっけ」サクは言った。
「今年の夏です。七月か八月になります」
「まだ半年以上あるね」
「はい」
「その間に、査読の結果が出るといいな」サクは言った。「査読を通れば、正式に発表される。そのとき、ハルトくんがまだここにいてくれると嬉しい」
「いると思います」
「いてくれると思うけど、確認したかった」サクは言った。「大事なことは、ちゃんと聞くようにしてる、最近」
「ハルトくんの影響ですか」
「そうかも」サクは笑った。「確認できることは確認する。曖昧なままにしない」
「はい。いいと思います」
「ありがとう」サクは言った。「そういうことを教えてくれた人が、向かいに座ってくれてるのが、なんか嬉しい」
「はい」
「ハルトくん」
「はい」
「約束、覚えてる?」
「はい。研究が完成したとき、最初に使わせてもらう約束です」
「論文を出したけど、まだ完成じゃない」サクは言った。「査読があって、追加の実験があって、効率も百パーセントを目指す。まだ先がある」
「はい」
「ただ、今日、大きな一歩が出た」
「はい。出ました」
「待っていてくれる? まだ」
「はい。待ちます」
「ありがとう」サクは言った。「何度聞いても、ちゃんと答えてくれるんだね」
「約束は、確認するたびに有効です」
「そっか」サクは言った。笑った。「じゃあ、また確認する。帰る前にも、確認する」
「はい。そのとき、また答えます」
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店を出た。
二月の夜は、少し冷たかった。
二人で駅まで歩いた。
「今日、来てくれてありがとう」サクは言った。
「はい。来てよかったです」
「ハルトくんが近くにいてくれて、本当によかった」サクは言った。「一年前は、こんな日が来るとは思ってなかった」
「そうですか」
「去年の今頃は、施設にいた」サクは言った。「弁護士経由でしか話せなかった。それが今、一緒に歩いてる」
「はい」
「記録って、そういうものだね」サクは言った。「積み上がって、繋がって、今日になる」
「はい。そう思います」
「ハルトくんに言われたこと、ずっと残ってる」サクは言った。「記録は消えない、って。その言葉が、何度も助けてくれた」
「はい」
「今日、その言葉の通りのことが起きた」
「はい。起きました」
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駅の前まで来た。
サクは立ち止まった。
改札の方を見た。
それから、ハルトを見た。
「ハルトくん」
「はい」
「今日は、帰りたくない」
ハルトは少し間を置いた。
「帰らなくていいです」
「いいの?」
「はい」
サクはしばらくハルトを見ていた。
「ありがとう」サクは言った。静かな声だった。「ありがとう、ハルトくん」
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二人で、来た道を戻った。
ハルトの宿舎に向かった。
歩きながら、二人とも何も言わなかった。
ただ、歩いていた。
それで、十分だった。
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翌朝、目が覚めた。
サンフランシスコの朝の光が、カーテンの隙間から入ってきた。
サクがいた。
まだ眠っていた。
ハルトは少し間を置いた。
今日のことを頭の中に入れた。
昨夜のことが、全部残っていた。
他の記録とは、重さが違った。
サクが少し動いた。
目を開けた。
ハルトを見た。
「おはよう」サクは言った。
「おはようございます」
「眠れた?」
「はい」
「私も」サクは言った。少し笑った。「なんか、すごく眠れた」
「そうですか」
「うん」サクは言った。「ハルトくんの隣だと、安心するのかも」
「そうですか」
「そうだよ」サクは言った。「当たり前のことみたいに言うね、ハルトくん」
「事実だと思っています」
「うん」サクは言った。「事実だよ」
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しばらく、二人で話した。
特別な話ではなかった。
論文の査読がいつ頃来るか。今週の実験の予定。朝ごはんは何を食べるか。
いつもの話だった。
ただ、いつもと少し違った。
同じ部屋にいて、朝の光の中で話していた。
それだけのことだった。
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少し経って、サクが言った。
「ハルトくん」
「はい」
「昨日、論文を出して、今朝、ハルトくんの隣で目が覚めた」
「はい」
「なんか、全部が重なった感じがする」サクは言った。「研究のことも、ハルトくんのことも、全部」
「はい」
「ずっと、別々のことみたいに思ってた。研究を頑張ることと、ハルトくんのことが好きなことは、別の話だって」
「はい」
「でも、そうじゃなかった」サクは言った。「ハルトくんがいたから、研究を続けられた。研究を続けたから、今日がある。全部、繋がってた」
「はい。繋がっています」
「ハルトくんって、そういうとき、すぐ繋がっていますって言うんだね」サクは少し笑った。
「事実だと思っています」
「うん」サクは言った。「事実だよ。ちゃんと、全部繋がってた」
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朝ごはんを食べた。
近くのカフェに二人で行った。
向かい合って座った。
コーヒーを飲んだ。
「また来週、会える?」サクは言った。
「はい」
「また来週も、その次も」
「はい」
「日本に帰るまで」
「はい。帰るまでは、毎週会えます」
「帰った後は」
「サクさんが帰ってくるまで、待ちます」
「日本に帰る予定、まだ決まってないんだよね」サクは言った。「いつになるかわからない」
「わかりません。ただ、待ちます」
「どのくらい待てる?」
「サクさんが帰ってくるまで」ハルトは言った。
サクはしばらくハルトを見ていた。
「ハルトくんって、本当にそういうこと言うんだね」
「事実を言っています」
「うん」サクは言った。「わかってる。だから、余計に嬉しい」
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カフェを出た。
駅まで歩いた。
改札の前で止まった。
「また来週」サクは言った。
「はい。また来週」
「今日、ありがとう。昨日も、ありがとう」
「はい。こちらこそ」
「ハルトくん」
「はい」
「好きだよ」
「はい。私も好きです」
「毎回ちゃんと言ってくれるんだね」サクは言った。笑った。
「毎回、本当のことです」
「うん」サクは言った。「わかってる」
サクが改札を抜けた。
途中で振り返った。
手を振った。
ハルトも手を振った。
サクが消えた。
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ハルトは改札前に立っていた。
今日のことを頭の中に入れた。
昨夜。今朝の光。サクの寝顔。朝ごはん。「全部繋がってた」という言葉。「好きだよ」という言葉。
全部、残った。
空が、少し明るかった。
帰った。
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第八十三話 了




