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魔法特許庁ーーその魔法、違法ですーー  作者: にけ


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81/128

「数秒」

一月の第二週、土曜日だった。


実験の日だった。


---


朝、目が覚めた。


いつもより少し早かった。


部屋の天井を見た。


今日のことを考えた。


怖いかどうか、もう一度確認した。


昨夜より、怖さは少なかった。


代わりに、別の感覚があった。


うまく言葉にできなかった。


ただ、悪い感覚ではなかった。


起きた。


---


研究室に着いた。


午前十時だった。


サクが入口で待っていた。


「来た」サクは言った。


「はい」


「緊張してる?」


「少し。サクさんは」


「すごく緊張してる」サクは言った。「ハルトくんより緊張してると思う」


「そうですか」


「うん。なんか、ハルトくんに何かあったらって思うと、それが一番怖くて」


「安全性は確認されていますよね」


「してる。わかってる。でも怖い」サクは言った。「これが、私が誰かを大切に思うということなんだと思う」


ハルトは少し間を置いた。


「はい」


「行こう」サクは言った。「教授が待ってる」


---


実験室に入った。


研究室の隣にある、少し広い部屋だった。


実験装置が準備されていた。


先週より、少し大きくなっていた。ケーブルが増えていた。計測機器が並んでいた。


教授がいた。


六十代の男性だった。白髪だった。眼鏡をかけていた。名前はジェームズ・カーターといった。


「神崎さん、来てくれてありがとう」カーター教授は言った。日本語だった。少し、アクセントがあった。「サクから、あなたのことをたくさん聞いています」


「よろしくお願いします」


「今日の実験について、説明します」カーター教授は言った。「最初は、装置を使って魔力が生成されるかどうかの確認だけです。術式を試すのは、今日ではありません。今日は、魔力の生成が確認できるかどうかだけを見ます」


「はい」


「もし魔力の生成が確認できれば、次回、術式の試験に進みます。もし確認できなくても、問題ありません。データとして記録します」


「わかりました」


「何か質問はありますか」


「装置の動作原理を確認していいですか」


「もちろんです」カーター教授は装置を指した。「この素子が、外部エネルギーを魔力に変換します。入力は電気エネルギーです。変換された魔力は、この計測部で検出します。被験者には、素子を手のひらに当てて、装置を起動します。それだけです」


「手のひらに当てるだけですか」


「はい。感覚として何か感じるかもしれませんし、何も感じないかもしれません。焦らなくていいです」


「はい」


「では、準備を始めましょう」


---


椅子に座った。


テーブルの上に、素子が置かれていた。


直径十センチほどの円形の装置だった。表面が少し温かかった。


「手のひらを上に向けて、置いてください」カーター教授は言った。


右手のひらを上に向けた。


素子が置かれた。


軽かった。


温かさが、手のひらに伝わってきた。


---


サクが計測機器の前に立った。


もう一人、研究室のメンバーがいた。大学院生だった。記録の担当だった。


「神崎さん、準備はいいですか」カーター教授は言った。


「はい」


「では、始めます」


---


装置が起動した。


音が変わった。低い振動音が、少し大きくなった。


手のひらの素子が、少し温度を上げた。


ハルトは手のひらを見た。


何も見えなかった。


ただ、温かかった。


三十秒が経った。


何も変わらなかった。


---


一分が経った。


サクが計測機器を確認していた。


表情が変わらなかった。


ハルトは手のひらを見ていた。


温かさは続いていた。


それ以外は、何もなかった。


ただ、待った。


---


一分三十秒が経った。


そのとき、何かが変わった。


何が変わったのか、最初はわからなかった。


温かさの質が、少し変わった。


外から伝わってくる温かさではなく、内側から来る感覚になった。


手のひらの中心に、何かが集まる感じがした。


集まる、という言葉が、一番近かった。


---


「神崎さん、何か感じますか」カーター教授は言った。


「はい」ハルトは言った。「手のひらの内側に、何かが集まる感覚があります」


「どのくらいから感じましたか」


「今から、十秒ほど前です」


カーター教授がサクを見た。


サクは計測機器を見ていた。


サクの顔が変わった。


---


「教授」サクは言った。声が少し変わっていた。「数値が、動いています」


「どのくらいですか」


「わずかですが、確かに動いています。魔力反応の計測値が、ゼロではなくなっています」


実験室が静かになった。


---


ハルトは手のひらを見た。


何も見えなかった。


ただ、内側から来る感覚は、続いていた。


集まっている。


何かが、手のひらの中心に、確かに存在していた。


---


「神崎さん」カーター教授は言った。落ち着いた声だった。「今、あなたの手のひらに、わずかですが魔力の反応が出ています。体に異常はありますか」


「はい。異常はありません」


「続けられますか」


「はい」


「わかりました。そのまま、もう少し続けてください」


---


さらに三十秒が経った。


集まる感覚が、少し強くなった。


温かさが、広がった。


手のひらだけでなく、手首まで広がってきた。


ハルトはその感覚を、頭の中に記録していた。


外から来る熱と違う。血流の感覚とも違う。


何かが、そこにある感覚だった。


---


「計測値、上がっています」サクは言った。「わずかですが、上昇しています」


「神崎さん、今、どんな感覚ですか」カーター教授は言った。


「温かさが、手首まで広がっています。手のひらの中心に、何かが集まっている感覚が続いています」


「術式の記録は、頭の中にありますか」


「はい。全部あります」


「今、その記録を思い浮かべることはできますか」


「はい」


「試してみてください。記録の中で、一番シンプルな術式を、頭の中で思い浮かべながら、手のひらの感覚に意識を向けてください」


---


ハルトは目を閉じた。


頭の中で、記録を確認した。


風系基本術式第三号。


藤本が訓練場で使っていた術式。円を描くように気流を制御する。核心は、中心から外に向かって、均一に力を広げること。


記録の図式が、頭の中に展開された。


手のひらの感覚に、意識を向けた。


何かが、ある。


その何かに向かって、図式の通りに、中心から外へ、均一に、広げようとした。


---


何かが動いた。


手のひらから、何かが出た。


見えなかった。


ただ、空気が動いた。


わずかだった。


ハルトの手のひらから、ほんの少し、円を描くように気流が生まれた。


テーブルの上に置いてあった小さな紙切れが、少し揺れた。


---


実験室が、静止した。


誰も動かなかった。


誰も声を出さなかった。


---


三秒だった。


三秒間、気流が続いた。


それから、消えた。


手のひらの感覚も、薄くなった。


集まっていた何かが、散っていくような感じがした。


素子の振動音が、少し小さくなった。


---


「神崎さん、体は大丈夫ですか」カーター教授は言った。


「はい。大丈夫です」


「今、何が起きたかわかりますか」


「気流が生まれた気がしました。三秒ほど、続きました」


「計測値を確認します」カーター教授は言った。


カーター教授とサクが、計測機器を確認した。


---


サクが振り返った。


ハルトを見た。


サクの目が、少し赤くなっていた。


「ハルトくん」サクは言った。


「はい」


「魔力の反応が、確認されました。ピーク時の計測値は小さいですが、確かに魔力が生成されています。そして」サクは言った。「紙が動きました」


「はい。気流が出た気がしました」


「出てました」サクは言った。「ちゃんと、出てました」


---


カーター教授が言った。


「神崎さん、今、起きたことを確認します。あなたは装置を通じて魔力を生成し、その魔力を使って術式を発動しました。わずかな気流ですが、確かに発生しています。計測値としても、記録されています」


「はい」


「非魔法適性者が装置を通じて魔力を生成し、術式を発動したのは、これが初めてです」


実験室が静かだった。


「世界で初めて、ということですか」


カーター教授は言った。


「はい。私の知る限り、世界で初めてです」


---


しばらく、誰も話さなかった。


大学院生が、記録をとっていた。手が少し震えていた。


ハルトは手のひらを見た。


何も変わっていなかった。


皮膚も、爪も、いつもと同じだった。


ただ、さっきまで、そこに何かがあった。


三秒間、あった。


その感覚が、記録として残っていた。


---


「神崎さん」カーター教授は言った。「少し休んでください。体に異変を感じたら、すぐに言ってください」


「はい」


「今日のデータは、詳細に分析します。次回の実験については、データを見てから判断します」


「わかりました」


「一点だけ、聞いていいですか」


「はい」


「今、術式を発動したとき、何を意識しましたか」


「記録を思い浮かべました。風系基本術式第三号の図式を、頭の中で展開しました。その上で、手のひらの感覚に向かって、中心から外に均一に広げようとしました」


「記録が、そのまま機能した、ということですか」


「そう思います」ハルトは言った。「記録通りに動こうとしたら、動きました。ただ、三秒しか続きませんでした」


「三秒でも、十分です」カーター教授は言った。「大事な一歩です」


---


カーター教授が部屋を出た。


大学院生も、データの整理のために席を立った。


実験室に、ハルトとサクだけが残った。


---


サクはしばらく、ハルトの隣に立っていた。


何も言わなかった。


ハルトも、何も言わなかった。


しばらく、そのままだった。


「ハルトくん」サクは言った。


「はい」


「今、どんな気持ち」


ハルトは少し考えた。


「整理できていません」


「うん」サクは言った。「私も整理できてない」


「ただ」


「ただ」


「あった、というのは確かです」ハルトは言った。「三秒間、確かに何かがありました」


「うん」サクは言った。「あったね」


「記録と一致していました。図式通りに動こうとしたら、動きました」


「そうだね」サクは言った。「記録が、機能した」


「はい」


---


少し間があった。


「ハルトくん、ごめん」サクは言った。


「何をですか」


「泣きそうになってる」サクは言った。「我慢しようとしてるんだけど」


「泣いていいと思います」


「研究者として、冷静にいなきゃいけないのに」


「今は研究者より前に、人間だと思います」


サクは少し間を置いた。


「ハルトくんって、そういうこと言うんだよね」サクは言った。声が揺れていた。「ありがとう」


「はい」


「三秒だったけど、それで十分だよ」サクは言った。「ハルトくんが魔法を使った。世界で初めて、非適合者が魔法を使った。私の研究が、それを可能にした。それが、今日起きた」


「はい」


「ずっと、これを目指してた」サクは言った。「大学で研究を始めたとき、日本で申請したとき、アルカナテックに買収されたとき、IMPに連行されたとき、全部、これを目指してた」


「はい」


「今日、少しだけ、届いた」


「はい。届きました」


---


サクが少し笑った。


泣きながら笑っていた。


「ハルトくん、約束、覚えてる?」


「はい。研究が完成したとき、最初に使わせてもらう約束です」


「まだ完成じゃないけど、今日、最初に使ってもらった」サクは言った。「約束、半分果たしてくれたね」


「半分ですか」


「完成したとき、もう一度使ってもらう。それが残り半分」


「はい。待っています」


「待っていてくれるんだね、まだ」


「はい。当然です」


「ありがとう」サクは言った。「本当に、ありがとう」


---


実験室を出た。


廊下に出た。


十二月の光が、窓から差し込んでいた。


ハルトは右手のひらを見た。


何も変わっていなかった。


ただ、今日、この手のひらに、何かがあった。


三秒間、あった。


その記録が、消えない場所に残った。


---


カーター教授が廊下に出てきた。


「神崎さん、少しいいですか」


「はい」


「今日のデータ、本当に貴重です」カーター教授は言った。「非適合者が魔力を生成し、術式を発動したデータは、世界に存在しません。今日が最初です」


「はい」


「一点、確認させてください。術式を発動したとき、記録を思い浮かべたと言いましたね」


「はい。風系基本術式第三号の図式を頭の中で展開しました」


「それが機能した、ということは」カーター教授は言った。「術式の記録を持っている人間が、魔力を手にしたとき、記録が実際に使える可能性があることを示しています」


「はい。そう思います」


「それは、非常に重要な知見です」カーター教授は言った。「術式を学ぶことと、魔法を使えることが、別の問題になるかもしれない。記録を持てば、魔法適性がなくても、魔力さえあれば術式を発動できる可能性がある」


「記録の意味が変わるということですか」


「そうです」カーター教授は言った。「あなたが今日見せてくれたのは、記録が単なる情報ではなく、実際に機能するものだということです」


「それは」ハルトは言った。「私がずっと思っていたことと、同じかもしれません」


「どういうことですか」


「記録は、必要になったときに意味を持つ、ということです」


カーター教授は少し間を置いた。


「そうですね」カーター教授は言った。「今日が、まさにそういう日でした」


---


夕方、宿舎に帰った。


部屋に入った。


椅子に座った。


動かなかった。


しばらく、右手のひらを見ていた。


---


リアにメッセージを送った。


「今日、報告したいことがあります」


すぐに返信が来た。


「何ですか」


「佐久間さんの実証実験に参加しました。非適合者として、装置を通じて魔力を生成し、術式を発動しました。三秒間、気流が確認されました」


しばらく間があった。


「本当ですか」


「はい。カーター教授のもとで、計測値として記録されました」


また間があった。


「神崎さん、それは」リアは言った。「すごいことです」


「はい」


「体は大丈夫ですか」


「はい。問題ありません」


「そうですか」リアは言った。しばらく間があった。「神崎さん、今、どんな気持ちですか」


ハルトは少し考えた。


「整理できていません。ただ、あったということは確かです」


「あった、ですか」


「三秒間、確かに何かがありました。記録通りに動こうとしたら、動きました」


「記録が、機能したんですね」


「はい」


「神崎さん」リアは言った。「おめでとうございます」


ハルトは少し間を置いた。


「ありがとうございます」


「また話しましょう。落ち着いたら、詳しく聞かせてください」


「はい」


---


メッセージを置いた。


部屋が静かだった。


今日のことを、もう一度、頭の中で確認した。


手のひらの感覚。集まる感じ。風系基本術式第三号の図式。気流が出た感覚。紙が揺れた瞬間。三秒間。


全部、残っていた。


他の記録とは違う重さがあった。


読んだ記録ではなく、自分が作った記録だった。


そういう記録が、今日初めて生まれた。


ソウの言葉が頭に浮かんだ。


「覚えておいた方がいい。そういう気がする」


魔法庁に来たとき、術式記録を覚えることの意味がわからなかった。


今日、少しだけわかった気がした。


記録を持っていたから、使えた。


持っていなければ、あの三秒は生まれなかった。


右手のひらを、もう一度見た。


何もなかった。


ただ、今日、ここに何かがあった。


それは、消えない記録になった。


窓の外に、サンフランシスコの夜があった。


寝た。


---


第八十一話 了

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