「数秒」
一月の第二週、土曜日だった。
実験の日だった。
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朝、目が覚めた。
いつもより少し早かった。
部屋の天井を見た。
今日のことを考えた。
怖いかどうか、もう一度確認した。
昨夜より、怖さは少なかった。
代わりに、別の感覚があった。
うまく言葉にできなかった。
ただ、悪い感覚ではなかった。
起きた。
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研究室に着いた。
午前十時だった。
サクが入口で待っていた。
「来た」サクは言った。
「はい」
「緊張してる?」
「少し。サクさんは」
「すごく緊張してる」サクは言った。「ハルトくんより緊張してると思う」
「そうですか」
「うん。なんか、ハルトくんに何かあったらって思うと、それが一番怖くて」
「安全性は確認されていますよね」
「してる。わかってる。でも怖い」サクは言った。「これが、私が誰かを大切に思うということなんだと思う」
ハルトは少し間を置いた。
「はい」
「行こう」サクは言った。「教授が待ってる」
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実験室に入った。
研究室の隣にある、少し広い部屋だった。
実験装置が準備されていた。
先週より、少し大きくなっていた。ケーブルが増えていた。計測機器が並んでいた。
教授がいた。
六十代の男性だった。白髪だった。眼鏡をかけていた。名前はジェームズ・カーターといった。
「神崎さん、来てくれてありがとう」カーター教授は言った。日本語だった。少し、アクセントがあった。「サクから、あなたのことをたくさん聞いています」
「よろしくお願いします」
「今日の実験について、説明します」カーター教授は言った。「最初は、装置を使って魔力が生成されるかどうかの確認だけです。術式を試すのは、今日ではありません。今日は、魔力の生成が確認できるかどうかだけを見ます」
「はい」
「もし魔力の生成が確認できれば、次回、術式の試験に進みます。もし確認できなくても、問題ありません。データとして記録します」
「わかりました」
「何か質問はありますか」
「装置の動作原理を確認していいですか」
「もちろんです」カーター教授は装置を指した。「この素子が、外部エネルギーを魔力に変換します。入力は電気エネルギーです。変換された魔力は、この計測部で検出します。被験者には、素子を手のひらに当てて、装置を起動します。それだけです」
「手のひらに当てるだけですか」
「はい。感覚として何か感じるかもしれませんし、何も感じないかもしれません。焦らなくていいです」
「はい」
「では、準備を始めましょう」
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椅子に座った。
テーブルの上に、素子が置かれていた。
直径十センチほどの円形の装置だった。表面が少し温かかった。
「手のひらを上に向けて、置いてください」カーター教授は言った。
右手のひらを上に向けた。
素子が置かれた。
軽かった。
温かさが、手のひらに伝わってきた。
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サクが計測機器の前に立った。
もう一人、研究室のメンバーがいた。大学院生だった。記録の担当だった。
「神崎さん、準備はいいですか」カーター教授は言った。
「はい」
「では、始めます」
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装置が起動した。
音が変わった。低い振動音が、少し大きくなった。
手のひらの素子が、少し温度を上げた。
ハルトは手のひらを見た。
何も見えなかった。
ただ、温かかった。
三十秒が経った。
何も変わらなかった。
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一分が経った。
サクが計測機器を確認していた。
表情が変わらなかった。
ハルトは手のひらを見ていた。
温かさは続いていた。
それ以外は、何もなかった。
ただ、待った。
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一分三十秒が経った。
そのとき、何かが変わった。
何が変わったのか、最初はわからなかった。
温かさの質が、少し変わった。
外から伝わってくる温かさではなく、内側から来る感覚になった。
手のひらの中心に、何かが集まる感じがした。
集まる、という言葉が、一番近かった。
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「神崎さん、何か感じますか」カーター教授は言った。
「はい」ハルトは言った。「手のひらの内側に、何かが集まる感覚があります」
「どのくらいから感じましたか」
「今から、十秒ほど前です」
カーター教授がサクを見た。
サクは計測機器を見ていた。
サクの顔が変わった。
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「教授」サクは言った。声が少し変わっていた。「数値が、動いています」
「どのくらいですか」
「わずかですが、確かに動いています。魔力反応の計測値が、ゼロではなくなっています」
実験室が静かになった。
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ハルトは手のひらを見た。
何も見えなかった。
ただ、内側から来る感覚は、続いていた。
集まっている。
何かが、手のひらの中心に、確かに存在していた。
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「神崎さん」カーター教授は言った。落ち着いた声だった。「今、あなたの手のひらに、わずかですが魔力の反応が出ています。体に異常はありますか」
「はい。異常はありません」
「続けられますか」
「はい」
「わかりました。そのまま、もう少し続けてください」
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さらに三十秒が経った。
集まる感覚が、少し強くなった。
温かさが、広がった。
手のひらだけでなく、手首まで広がってきた。
ハルトはその感覚を、頭の中に記録していた。
外から来る熱と違う。血流の感覚とも違う。
何かが、そこにある感覚だった。
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「計測値、上がっています」サクは言った。「わずかですが、上昇しています」
「神崎さん、今、どんな感覚ですか」カーター教授は言った。
「温かさが、手首まで広がっています。手のひらの中心に、何かが集まっている感覚が続いています」
「術式の記録は、頭の中にありますか」
「はい。全部あります」
「今、その記録を思い浮かべることはできますか」
「はい」
「試してみてください。記録の中で、一番シンプルな術式を、頭の中で思い浮かべながら、手のひらの感覚に意識を向けてください」
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ハルトは目を閉じた。
頭の中で、記録を確認した。
風系基本術式第三号。
藤本が訓練場で使っていた術式。円を描くように気流を制御する。核心は、中心から外に向かって、均一に力を広げること。
記録の図式が、頭の中に展開された。
手のひらの感覚に、意識を向けた。
何かが、ある。
その何かに向かって、図式の通りに、中心から外へ、均一に、広げようとした。
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何かが動いた。
手のひらから、何かが出た。
見えなかった。
ただ、空気が動いた。
わずかだった。
ハルトの手のひらから、ほんの少し、円を描くように気流が生まれた。
テーブルの上に置いてあった小さな紙切れが、少し揺れた。
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実験室が、静止した。
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
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三秒だった。
三秒間、気流が続いた。
それから、消えた。
手のひらの感覚も、薄くなった。
集まっていた何かが、散っていくような感じがした。
素子の振動音が、少し小さくなった。
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「神崎さん、体は大丈夫ですか」カーター教授は言った。
「はい。大丈夫です」
「今、何が起きたかわかりますか」
「気流が生まれた気がしました。三秒ほど、続きました」
「計測値を確認します」カーター教授は言った。
カーター教授とサクが、計測機器を確認した。
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サクが振り返った。
ハルトを見た。
サクの目が、少し赤くなっていた。
「ハルトくん」サクは言った。
「はい」
「魔力の反応が、確認されました。ピーク時の計測値は小さいですが、確かに魔力が生成されています。そして」サクは言った。「紙が動きました」
「はい。気流が出た気がしました」
「出てました」サクは言った。「ちゃんと、出てました」
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カーター教授が言った。
「神崎さん、今、起きたことを確認します。あなたは装置を通じて魔力を生成し、その魔力を使って術式を発動しました。わずかな気流ですが、確かに発生しています。計測値としても、記録されています」
「はい」
「非魔法適性者が装置を通じて魔力を生成し、術式を発動したのは、これが初めてです」
実験室が静かだった。
「世界で初めて、ということですか」
カーター教授は言った。
「はい。私の知る限り、世界で初めてです」
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しばらく、誰も話さなかった。
大学院生が、記録をとっていた。手が少し震えていた。
ハルトは手のひらを見た。
何も変わっていなかった。
皮膚も、爪も、いつもと同じだった。
ただ、さっきまで、そこに何かがあった。
三秒間、あった。
その感覚が、記録として残っていた。
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「神崎さん」カーター教授は言った。「少し休んでください。体に異変を感じたら、すぐに言ってください」
「はい」
「今日のデータは、詳細に分析します。次回の実験については、データを見てから判断します」
「わかりました」
「一点だけ、聞いていいですか」
「はい」
「今、術式を発動したとき、何を意識しましたか」
「記録を思い浮かべました。風系基本術式第三号の図式を、頭の中で展開しました。その上で、手のひらの感覚に向かって、中心から外に均一に広げようとしました」
「記録が、そのまま機能した、ということですか」
「そう思います」ハルトは言った。「記録通りに動こうとしたら、動きました。ただ、三秒しか続きませんでした」
「三秒でも、十分です」カーター教授は言った。「大事な一歩です」
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カーター教授が部屋を出た。
大学院生も、データの整理のために席を立った。
実験室に、ハルトとサクだけが残った。
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サクはしばらく、ハルトの隣に立っていた。
何も言わなかった。
ハルトも、何も言わなかった。
しばらく、そのままだった。
「ハルトくん」サクは言った。
「はい」
「今、どんな気持ち」
ハルトは少し考えた。
「整理できていません」
「うん」サクは言った。「私も整理できてない」
「ただ」
「ただ」
「あった、というのは確かです」ハルトは言った。「三秒間、確かに何かがありました」
「うん」サクは言った。「あったね」
「記録と一致していました。図式通りに動こうとしたら、動きました」
「そうだね」サクは言った。「記録が、機能した」
「はい」
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少し間があった。
「ハルトくん、ごめん」サクは言った。
「何をですか」
「泣きそうになってる」サクは言った。「我慢しようとしてるんだけど」
「泣いていいと思います」
「研究者として、冷静にいなきゃいけないのに」
「今は研究者より前に、人間だと思います」
サクは少し間を置いた。
「ハルトくんって、そういうこと言うんだよね」サクは言った。声が揺れていた。「ありがとう」
「はい」
「三秒だったけど、それで十分だよ」サクは言った。「ハルトくんが魔法を使った。世界で初めて、非適合者が魔法を使った。私の研究が、それを可能にした。それが、今日起きた」
「はい」
「ずっと、これを目指してた」サクは言った。「大学で研究を始めたとき、日本で申請したとき、アルカナテックに買収されたとき、IMPに連行されたとき、全部、これを目指してた」
「はい」
「今日、少しだけ、届いた」
「はい。届きました」
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サクが少し笑った。
泣きながら笑っていた。
「ハルトくん、約束、覚えてる?」
「はい。研究が完成したとき、最初に使わせてもらう約束です」
「まだ完成じゃないけど、今日、最初に使ってもらった」サクは言った。「約束、半分果たしてくれたね」
「半分ですか」
「完成したとき、もう一度使ってもらう。それが残り半分」
「はい。待っています」
「待っていてくれるんだね、まだ」
「はい。当然です」
「ありがとう」サクは言った。「本当に、ありがとう」
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実験室を出た。
廊下に出た。
十二月の光が、窓から差し込んでいた。
ハルトは右手のひらを見た。
何も変わっていなかった。
ただ、今日、この手のひらに、何かがあった。
三秒間、あった。
その記録が、消えない場所に残った。
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カーター教授が廊下に出てきた。
「神崎さん、少しいいですか」
「はい」
「今日のデータ、本当に貴重です」カーター教授は言った。「非適合者が魔力を生成し、術式を発動したデータは、世界に存在しません。今日が最初です」
「はい」
「一点、確認させてください。術式を発動したとき、記録を思い浮かべたと言いましたね」
「はい。風系基本術式第三号の図式を頭の中で展開しました」
「それが機能した、ということは」カーター教授は言った。「術式の記録を持っている人間が、魔力を手にしたとき、記録が実際に使える可能性があることを示しています」
「はい。そう思います」
「それは、非常に重要な知見です」カーター教授は言った。「術式を学ぶことと、魔法を使えることが、別の問題になるかもしれない。記録を持てば、魔法適性がなくても、魔力さえあれば術式を発動できる可能性がある」
「記録の意味が変わるということですか」
「そうです」カーター教授は言った。「あなたが今日見せてくれたのは、記録が単なる情報ではなく、実際に機能するものだということです」
「それは」ハルトは言った。「私がずっと思っていたことと、同じかもしれません」
「どういうことですか」
「記録は、必要になったときに意味を持つ、ということです」
カーター教授は少し間を置いた。
「そうですね」カーター教授は言った。「今日が、まさにそういう日でした」
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夕方、宿舎に帰った。
部屋に入った。
椅子に座った。
動かなかった。
しばらく、右手のひらを見ていた。
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リアにメッセージを送った。
「今日、報告したいことがあります」
すぐに返信が来た。
「何ですか」
「佐久間さんの実証実験に参加しました。非適合者として、装置を通じて魔力を生成し、術式を発動しました。三秒間、気流が確認されました」
しばらく間があった。
「本当ですか」
「はい。カーター教授のもとで、計測値として記録されました」
また間があった。
「神崎さん、それは」リアは言った。「すごいことです」
「はい」
「体は大丈夫ですか」
「はい。問題ありません」
「そうですか」リアは言った。しばらく間があった。「神崎さん、今、どんな気持ちですか」
ハルトは少し考えた。
「整理できていません。ただ、あったということは確かです」
「あった、ですか」
「三秒間、確かに何かがありました。記録通りに動こうとしたら、動きました」
「記録が、機能したんですね」
「はい」
「神崎さん」リアは言った。「おめでとうございます」
ハルトは少し間を置いた。
「ありがとうございます」
「また話しましょう。落ち着いたら、詳しく聞かせてください」
「はい」
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メッセージを置いた。
部屋が静かだった。
今日のことを、もう一度、頭の中で確認した。
手のひらの感覚。集まる感じ。風系基本術式第三号の図式。気流が出た感覚。紙が揺れた瞬間。三秒間。
全部、残っていた。
他の記録とは違う重さがあった。
読んだ記録ではなく、自分が作った記録だった。
そういう記録が、今日初めて生まれた。
ソウの言葉が頭に浮かんだ。
「覚えておいた方がいい。そういう気がする」
魔法庁に来たとき、術式記録を覚えることの意味がわからなかった。
今日、少しだけわかった気がした。
記録を持っていたから、使えた。
持っていなければ、あの三秒は生まれなかった。
右手のひらを、もう一度見た。
何もなかった。
ただ、今日、ここに何かがあった。
それは、消えない記録になった。
窓の外に、サンフランシスコの夜があった。
寝た。
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第八十一話 了




