「この庁舎の中で」
翌朝、リアから声をかけてきたのは、始業から三十分後だった。
「時間を取れますか。第三審査室を使います」
第三審査室は小さい部屋だった。テーブルが一つ、椅子が二つ。普段は使われていない。
「はい」
「今から」
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第三審査室に入ると、リアはドアに鍵をかけた。
それだけで、話の重さがわかった。
二人でテーブルを挟んで座った。リアは手元に何も持っていなかった。
書類もノートも、何もなかった。
「昨日の話を続けます」とリアは言った。
「はい」
「アルカナ・テックが丸山さんの申請を知っていた。MPBの申請情報は審査完了まで非公開。神崎さんの言う通り、外部が通常の手段で知る方法はありません」
「はい」
「私も昨夜考えました」リアは言った。「二つの可能性があります。一つ、内部から情報が出た。二つ、外部からシステムに侵入された」
「はい」
「どちらの可能性が高いと思いますか」
ハルトは少し考えた。
「確認したいことがあります」
「何ですか」
「丸山さんが来庁したのは木曜日でした。取り下げの電話が来たのは翌週の月曜日です。その間、丸山さんの申請情報にアクセスした職員は何人いますか」
リアは少し目を細めた。
「確認できますか」
「システムのアクセスログを見れば確認できます。ただ、私の権限では見られません」
「私の権限では見られます」リアは言った。「昨夜、確認しました」
ハルトは待った。
「アクセスしたのは三人です。私、あなた、そしてもう一人」
「もう一人は」
「上席審査官の村田です」
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村田。
照合した。村田敬三。上席審査官。入庁時に業務説明をしてくれた人物。温厚という印象は、一日目から変わっていなかった。
「村田さんがアクセスした理由は」
「私が確認したところ、丸山さんの申請に関連する先行特許の参照です。審査補助としての正規のアクセスです」
「正規のアクセスだった」
「記録上は」
リアは言葉に力を置いた。記録上は、という部分に。
「ただ」とリアは続けた。「アクセス時刻が気になりました」
「何時でしたか」
「金曜日の夜、二十二時十七分です」
ハルトは少し考えた。
「通常の残業時間を超えています」
「はい。その日、庁舎の入退館記録を確認しました。村田は十八時に退館しています」
室内が静かになった。
「退館した後に、アクセスがあった」とハルトは言った。
「はい」
「自宅からのリモートアクセスですか」
「リモートアクセスの記録はありません。庁内のシステムは、庁舎内のネットワークからしかアクセスできない設定になっています」
「つまり」
「村田のアカウントで、庁舎内からアクセスがあった。ただし村田さん本人は退館していた」
ハルトはリアを見た。
「二つの解釈があります」とハルトは言った。「一つ、村田さんが退館記録を残した上で庁舎に戻った。二つ、村田さんのアカウント情報が第三者に使われた」
「はい」リアは頷いた。「どちらにしても、異常なアクセスです」
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リアはテーブルに両手を置いた。
「村田さんに直接確認しますか」とハルトは聞いた。
「まだです」リアは首を振った。「確認する前に、もう一つ調べたいことがあります」
「何ですか」
「村田さんとアルカナ・テックの接点です」
ハルトは頭の中を探った。
「村田さんのMPBでの担当案件に、アルカナ・テックが含まれていたことはありますか」
「あります」リアは言った。「三年前、アルカナ・テックの初期の感応系申請を村田が担当しています。その後、担当が私に変わっています」
「なぜ変わったんですか」
「村田さんの担当件数が増えたためです。通常の業務調整です。ただ——」リアは少し間を置いた。「担当が変わるタイミングで、村田さんからアルカナ・テックの案件を引き継いでほしいと申し出があったと、当時の記録にあります」
「自分から申し出た」
「はい」
ハルトは考えた。
「三年前、アルカナ・テックが感応系の申請を始めたのも三年前です」
「一致しています」
「担当から外れたタイミングで、外部への情報提供に切り替えた可能性がある」
「可能性として、あります」リアは言った。「ただ、証明するには、もう一つ証拠が必要です」
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「村田さんのアクセスがあった金曜日の夜」とハルトは言った。「庁舎の入退館記録は本当に退館になっていましたか」
「はい。十八時に退館の記録があります」
「入館記録は一つですか」
リアは少し目を細めた。
「確認しました。その日の入館記録は朝の一回だけです。退館後の再入館はありません」
「では、庁舎内の防犯カメラは」
「夜間も稼働しています。ただ、映像の確認は私の権限では難しい。総務を通す必要があります」
「総務を通すと、調査していることが広まる可能性があります」
「はい」リアは言った。「だから慎重に動く必要がある」
ハルトは少し考えた。
「一つ確認できることがあります」
「何ですか」
「丸山さんの申請情報へのアクセスがあった金曜日の夜、庁舎内にいた可能性がある人間を絞れます。夜間の空調稼働記録や、自動販売機の購入記録など、防犯カメラを使わずに確認できる記録があります」
リアはハルトを見た。
「そういうものを調べる方法を知っているんですか」
「入庁前に法律の勉強をしていたとき、情報漏洩の事例を読んで面白かったので」
リアは短くため息をついた。
「確認できますか」
「総務の担当者に、空調の稼働記録の開示を請求する形であれば、審査業務の環境確認という名目で通ります」
「やってみてください」
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空調の稼働記録を確認するまでに、二時間かかった。
総務担当者への説明に時間がかかった。審査室の環境確認という名目は通ったが、記録の抽出に手間がかかるという話だった。ハルトは待った。
昼過ぎに、記録が出てきた。
金曜日の夜間、第二審査室の空調が二十一時から二十三時まで稼働していた。
第二審査室は、村田の担当する審査室だった。
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リアに報告した。
「第二審査室の空調が、金曜日の二十一時から二十三時まで稼働していました」
リアは目を閉じた。一秒だけ閉じた。
「村田さんは十八時に退館しています。再入館の記録はありません。ただ、彼の審査室の空調が夜間に稼働していた」
「はい」
「空調の稼働は、人感センサーで自動的にオンになります」
「はい。人がいれば稼働します」
リアは立ち上がった。窓の外を見た。
「入退館記録を偽装した、ということですか」
「退館記録を残した後、別の経路で庁舎に入った可能性があります。非常口や、入退館システムが適用されていない搬入口を使えば、記録を残さずに入れます」
「搬入口の鍵は」
「総務と、一部の上席職員が持っています」
リアはゆっくりと振り返った。
「村田さんは上席審査官です」
「はい」
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室内が、しばらく静かだった。
リアは椅子に座った。テーブルの上で指を組んだ。
「村田さんに確認します」とリアは言った。「今日、業務終了後に」
「私も同席しますか」
「はい」リアは言った。「ただし、話すのは私です。あなたは記録を取るだけでいい」
「わかりました」
「村田さんが否定する可能性もあります。証拠として出せるものは、状況証拠だけです」
「はい」
「それでも、確認します」リアは言った。「このまま放置して審査を続けることはできません」
ハルトは頷いた。
リアは窓の外に視線を向けた。午後の光が、庁舎の影を長く伸ばしていた。
「神崎さん」
「はい」
「もし村田さんが関与していたとして、アルカナ・テックとの接点がどこにあるか、わかりますか」
「三年前の担当時期に、何らかの接触があった可能性があります。ただ、具体的な経路はまだわかりません」
「お金が動いている可能性もあります」
「あります」
リアは少し目を伏せた。二十年来の同僚の話をしているとは、声のトーンからは判断できなかった。ただ、指の組み方が、少しだけ強くなっていた。
「今日の業務終了まで、普通に仕事をしてください」リアは言った。「村田さんに気づかれないように」
「はい」
「何事もなかったように」
「わかりました」
リアは立ち上がった。ドアの鍵を開けた。
廊下に出る前に、一度だけ振り返った。
「神崎さん」
「はい」
「よく気づきました」
それだけ言って、廊下を歩いていった。
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ハルトは第三審査室に一人残った。
テーブルの上に、何もなかった。書類もノートも、記録は何も残していなかった。
頭の中にだけ、今日確認したことが入っていた。
村田敬三。退館後の不正アクセス。第二審査室の夜間稼働。三年前のアルカナ・テックとの担当。
全部、頭の中にあった。
消えない記憶だった。
ハルトは立ち上がった。審査室を出た。廊下を歩いた。
デスクに戻ると、村田がコーヒーを飲みながら書類を読んでいた。いつもと同じ姿だった。温厚そうな顔だった。
「お疲れ」と村田は言った。
「お疲れ様です」とハルトは言った。
マグカップを書類から十センチ離れた位置に置いた。
今日の業務終了まで、何事もなかったように。
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第八話 了




