「出発」
八月の第一週になった。
出向の出発は、水曜日だった。
前日の火曜日、MPBで最後の業務をこなした。
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午後、通常の申請対応を終えた。
フロアが少し静かになった夕方、リアに声をかけられた。
「神崎さん、少し時間がありますか」
「はい」
「来てください」
第三審査室に入った。
二人で座った。
テーブルの上には、何もなかった。
書類もなかった。
珍しかった。
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「明日、出発ですね」リアは言った。
「はい」
「一年間、アメリカにいます」
「はい」
「IMPOでの業務については、堂島部長から引き継ぎ資料が届いています。先方の担当者とも、事前に連絡が取れています」リアは言った。「準備は問題ありませんか」
「はい。問題ありません」
「そうですか」リアは言った。少し間を置いた。「今日は、業務の話をしに来たわけではありません」
「はい」
「個人的な話をしてもいいですか」
「はい。どうぞ」
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リアはテーブルの上で、少し手を組んだ。
「神崎さんが入庁してから、三年半が経ちます」
「はい」
「最初の日のことを、覚えていますか」
「はい。窓口で、申請書の記載漏れを指摘したら、申請者の方に三十分説明を続けられました」
リアは少し笑った。
「覚えています。私もその場にいました」
「はい」
「最後まで聞いていましたね、神崎さんは」リアは言った。「記載漏れは事実だったから、ということでした」
「はい」
「その日から、神崎さんのことを見てきました」リアは言った。「三年半、ずっと」
ハルトは少し間を置いた。
「はい」
「その間に、色々なことがありました」リアは言った。「早瀬さんの件。無登録同盟の事件。佐久間さんの申請。買収。IMPへの事情聴取。戦争と捜査協力。全部、神崎さんが記録を持ち続けたから、動いた部分がありました」
「白銀主任が動いてくれたことも、大きかったです」
「二人でやってきたことです」リアは言った。「それは変わりません」
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少し間があった。
「神崎さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「この三年半で、一番大変だったことは何ですか」
ハルトは少し考えた。
「一番、というのは難しいですが」
「難しければ、今思い浮かんだことで」
「IMPの事情聴取のとき、言える言葉が見つかりませんでした」ハルトは言った。「サクさんが施設に連行されて、連絡が取れなくて。記録として確認できることだけ答えましたが、それ以外に何もできなかったことが、重かったです」
「はい」
「言える言葉が見つからない、というのは、私にはあまりないことなので」
「そうですね」リアは言った。「神崎さんは、いつも記録を根拠に話します。根拠がないと、言葉が出ない」
「そうかもしれません」
「それが、神崎さんの誠実さだと思っています」リアは言った。「確認できないことを言わない。それは、信頼できることです」
「ありがとうございます」
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「神崎さん、もう一つ聞いていいですか」
「はい」
「この三年半で、一番よかったことは何ですか」
ハルトは少し考えた。
「いくつかあります」
「全部、聞かせてください」
「早瀬さんの申請が、記録として正しく残ったことです。田所さんの術式が、再審査の対象になったことです。鶴田さんが説明会の言葉を覚えていてくれて、MPBに入ってきたことです。倉田主任の百十七回の試行記録が、データベースに残ったことです」
「はい」
「サクさんの申請が、発明者記録として正しく残ったことです」
リアは少し間を置いた。
「はい」
「全部、記録が残ったことです」ハルトは言った。「それが、一番よかったことです」
「神崎さんらしいです」リアは言った。「ただ、一つだけ、追加してもいいですか」
「はい」
「私は」リアは言った。「神崎さんがここに来てくれたことが、一番よかったことです」
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ハルトは少し間を置いた。
「白銀主任」
「はい」
「私を採用したのは、白銀主任ですか」
「最終的な判断は組織ですが、面接の担当をしました。そのとき、採用を推薦しました」
「なぜですか」
「面接で、記録のことを話してくれたからです」リアは言った。「特許を覚えることへの動機を聞いたとき、誰かが積み上げてきたものが正しく残るかどうかを確認したいと言いました。それを聞いて、この仕事に向いていると思いました」
「そうですか」
「あのとき推薦して、正しかったと思っています」リアは言った。「三年半、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
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少し間があった。
「白銀主任」ハルトは言った。
「はい」
「一つ、確認していいですか」
「どうぞ」
「今回のアメリカ出向、業務としての理由と、個人的な配慮の両方があると言っていましたね」
「はい」
「個人的な配慮というのは、サクさんのことですか」
「はい。サクさんの近くにいられる時期になると思いました」リアは言った。「来年の春、論文を提出する予定があります。その時期に近くにいてほしかった」
「なぜですか」
「佐久間さんは、ずっと一人でやってきました」リアは言った。「研究も、申請も、買収も、IMPの件も。そのたびに、神崎さんが記録として支えていました。ただ、物理的に近くにいたことは、あまりなかった」
「はい」
「一番大切な場面に、近くにいてほしいと思いました」リアは言った。「私の判断として、そうしました」
「ありがとうございます」
「神崎さんが幸せになることを、私は望んでいます」リアは言った。静かな声だった。「それだけです」
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ハルトはリアを見た。
リアはテーブルを見ていた。
「白銀主任」
「はい」
「白銀主任は、どうですか」
「どうですか、とは」
「幸せですか」
リアは少し間を置いた。
「難しい質問ですね」リアは言った。
「はい。ただ、聞きたかったので」
「神崎さんが聞くんですね、そういうことを」リアは少し笑った。「直接的で、驚きます」
「確認できる方法が、直接聞くことしかなかったので」
「そうですか」リアは言った。「幸せかどうか、考えたことがあまりなかったです」
「はい」
「ただ」リアは言った。「この仕事に、意味があると思っています。記録が誰かを守ることがある。それを見てきました。それで、十分だと思っています」
「はい」
「神崎さんが来てから、その場面が増えました」リアは言った。「だから、よかったです」
「はい。受け取りました」
リアは少し間を置いた。
「神崎さん、行ってきてください」
「はい」
「一年後、また一緒に仕事をしましょう」
「はい。楽しみにしています」
「私も」リアは言った。
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第三審査室を出た。
フロアに戻った。
岸本が声をかけてきた。
「神崎さん、リアさんと何の話をしていたんですか」
「色々な話をしました」
「どんな話ですか」
「この三年半のことです」
「そうですか」岸本は少し間を置いた。「リアさん、なんか、いつもより柔らかい顔をしていましたよ」
「そうですか」
「神崎さんと話すと、そうなるんですよね、リアさん」岸本は言った。「前からそう思ってました」
「そうですか」
「はい」岸本は言った。あっさりした言い方だった。「明日、気をつけて行ってきてください」
「はい。よろしくお願いします」
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翌朝、水曜日だった。
家を出る前に、部屋を一度見回した。
荷物は、昨夜のうちに全部まとめていた。
スーツケースが一つ。リュックが一つ。
部屋の中は、いつもと変わらなかった。
ただ、しばらく帰らない部屋だった。
鍵をかけた。
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空港に向かった。
電車に乗った。
窓の外を見た。
八月の空だった。
雲が少なかった。
晴れていた。
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空港に着いた。
チェックインをした。
荷物を預けた。
手続きが終わった。
出発まで、一時間あった。
ベンチに座った。
スマートフォンを取り出した。
連絡が来ていた。
リアからだった。
「気をつけて行ってきてください。待っています」
岸本からだった。
「行ってらっしゃい。帰ってきたら、ご飯行きましょう」
鶴田からだった。
「行ってらっしゃい、神崎さん。MPBのこと、任せてください」
堂島部長からだった。
「お世話になりました。向こうでもよくやってくれると思っています」
ソウからだった。
「行ってこい。向こうでも記録を積み上げてくれ」
全部、読んだ。
返信した。
「ありがとうございます。行ってきます」
全員に、同じ言葉で返した。
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しばらく、ベンチに座っていた。
空港は人が多かった。
色々な人が通り過ぎた。
ハルトは頭の中で、今日までのことを確認した。
MPBに入庁した日。最初の窓口で三十分説明を続けられたこと。リアに初めて言われた「記録は消えません」という言葉。早瀬さんの案件。サクの申請。魔法庁への出向。倉田主任。訓練場で初めて術式を見た日。サクが連行された日。停戦合意の夜。MPBに戻ってきた日。三人で食べた夜。昨日のリアとの会話。
全部、残っていた。
三年半分の記録が、全部、頭の中にあった。
持って行く。
新しい場所に、全部持って行く。
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サクに電話した。
アメリカは夜中のはずだった。
三回のコールで出た。
「ハルトくん」サクは言った。起きていた。「今、空港?」
「はい。出発まで一時間あります」
「眠れなかった」サクは言った。「なんか、落ち着かなくて」
「私もそういう夜があります」
「ハルトくんも?」
「はい。魔法庁に初めて行く前の夜も、眠れませんでした」
「そうなんだ」サクは言った。少し笑った。「ハルトくんでも、そういうことあるんだね」
「あります」
「なんか、安心した」
「はい」
「ハルトくん、来るんだね」サクは言った。「今まで、遠かったのに」
「はい。来ます」
「近くなる」
「はい」
「嬉しいな」サクは言った。「すごく嬉しい。ちゃんと言っておきたかった」
「はい。受け取りました」
「到着したら、連絡して」
「はい」
「何時間かかるっけ」
「十二時間ほどです」
「長いね」サクは言った。「着いたら、真っ先に連絡してね。寝てても起きるから」
「わかりました」
「ハルトくん」
「はい」
「来てくれてありがとう、って、空港で言うのは変かもしれないけど」
「いいえ」
「来てくれてありがとう」サクは言った。「本当に」
「はい」ハルトは言った。「会いに行きます」
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電話が切れた。
ハルトはベンチに座ったまま、少し動かなかった。
会いに行きます、と言った。
言ってから、それが正確だと思った。
業務として行く。それは本当だった。
ただ、それと同じくらい、サクに会いに行くことも、本当だった。
両方が、本当だった。
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搭乗のアナウンスが流れた。
ハルトは立ち上がった。
リュックを背負った。
搭乗口に向かった。
歩きながら、今日の空のことを頭の中に入れた。
雲が少なかった。晴れていた。
八月の空だった。
記録として、持っておいた。
搭乗口を通った。
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第七十六話 了




