「取り下げ、そして来庁」
丸山辰夫から電話が来たのは、月曜日の午後だった。
ハルトが窓口業務を終えてデスクに戻った直後だった。
庁舎の代表番号ではなく、先週面談室で渡した直通番号にかかってきた。
「神崎さんですか。丸山です」
「丸山さん、書類は揃いましたか」
電話口の向こうが、少し間を置いた。
「それなんですが」
声のトーンが先週と違った。先週の丸山は、緊張しながらも決意のある声だった。
今日は違った。何かに押しつぶされそうな、低い声だった。
「申請、取り下げたいんです」
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ハルトはペンを置いた。
「理由を聞かせてもらえますか」
「息子に……止められまして」丸山は言った。
「面倒なことになるからって、前にも言われていたんですが。今回は強く言われて」
「息子さんが、具体的に何か」
「それが、よくわからないんです」丸山の声が少し下がった。「ただ、やめておいた方がいいと。強い口調で言うもんで、息子がそこまで言うなら、と思いまして」
ハルトは少し考えた。
「丸山さん自身は、どうされたいですか」
また間が空いた。
「……申請したかったです。先生のところで、父の術式をちゃんとした形にしてもらって、嬉しかったから」
「はい」
「でも息子が心配しているなら、息子に任せようかと。私も歳ですし」
電話口の向こうで、丸山が息をついた。
「申し訳ありません。せっかく対応していただいたのに」
「いいえ」とハルトは言った。「丸山さんが決めたことなら、取り下げの手続きをします。書類を送付しますので、署名して返送してください」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
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ハルトはしばらく、受話器を持ったままでいた。
置いた。
デスクの上のメモ帳を見た。先週、丸山清一の術式を標準表記に変換したページがまだ開いていた。鉛筆書きの術式を、自分の字で書き直したものだった。
閉じた。
立ち上がった。
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リアの席に向かった。
リアは書類を読んでいた。ハルトが近づくと顔を上げた。
「何ですか」
「丸山辰夫さんから連絡がありました。申請を取り下げたいとのことです」
リアは書類をデスクに置いた。
「理由は」
「息子さんに止められたと。具体的な理由は丸山さん自身もよくわからないようでした」
リアは少し間を置いた。
「息子さんの名前はわかりますか」
「はい。面談時の書類に記載がありました。丸山健二さんです。長野在住です」
リアは手元のメモに書いた。書いてから、ペンを置いた。
「手続きを進めてください」
「はい」
ハルトは一歩下がりかけた。リアが言った。
「神崎さん」
「はい」
「取り下げ書類を発送したら、私に教えてください」
理由は言わなかった。ハルトも聞かなかった。
「わかりました」
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取り下げ書類を作成して、長野宛に郵送したのは翌日だった。
ハルトはリアに報告した。リアは「ありがとうございます」とだけ言った。それ以上は何も言わなかった。
その日の午後は静かだった。
申請の件数が少ない時期だった。ハルトは審査書類の整理をした。マグカップを書類から十センチ離れた位置に置いた。コーヒーを飲みながら、棚の資料を並び替えた。
窓の外では、十一月の空が曇っていた。
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アルカナ・テックが来庁したのは、取り下げ書類を郵送した三日後だった。
予告なしだった。
受付から内線が入ったとき、応対した受付職員の声が固かった。
「あの、主任の白銀さんはいらっしゃいますか。アルカナ・テック社の方が、第一審査室を使いたいとのことで。六名いらっしゃいます」
ハルトはリアのデスクを見た。リアはすでに立ち上がっていた。内線を聞いていたらしかった。
「行きます」とリアは言った。ハルトを見た。「一緒に来てください」
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第一審査室に入ると、六人が揃っていた。
全員がソファに座って待っていた。先頭の男が立ち上がった。
四十代、銀縁眼鏡、背筋の伸びた立ち方。腕輪はなかった。ハルトは顔を見た瞬間に照合した。経済誌の表紙。特集見出し。人物名。一秒かからなかった。桐島誠司。後ろには弁護士が二人、白衣の技術者が二人、スーツ姿の男が一人。全員、腕輪をつけていなかった。
「お時間をいただきありがとうございます」桐島は穏やかに言った。「本日は正式申請を持参しました」
リアは書類を受け取った。
「申請名——『地中空間感応術式・改』」
「はい」桐島は微笑んだ。「弊社の研究チームが開発した、地中構造の非破壊探査術式です。魔力をお持ちの方が使えば、重機を入れずに地盤の状態を確認できます。建設・防災分野での活用を想定しています」
上席審査官たちが資料をめくり始めた。
ハルトは隅の席に座り、議事録用のノートを開いた。
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術式を読んだ。
第一展開式から順に追った。感応系の構造。地中構造の読み取りに特化した設計。
第二展開式の係数配列に差し掛かったとき、頭の中で何かが引っかかった。
照合が始まった。自動的に、静かに。
あった。
先週、標準表記に変換した術式。丸山清一が鉛筆で書いたもの。メモ帳を閉じる前に、一度読んだもの。
並べた。
第二展開式の係数配列が、一致していた。
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桐島が説明を続けていた。リアが確認票に記入していた。
ハルトは議事録を書いた。表情を変えなかった。
頭の中で、もう一度確認した。
一致していた。
丸山清一が二十数年前に鉛筆で書いた術式の、核心部分。アルカナ・テックの正式申請書に、そのまま入っていた。
丸山辰夫の申請取り下げは、三日前だった。
アルカナ・テックの来庁は、今日だった。
偶然とは、言えなかった。
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審査室を出たのは、一時間後だった。
桐島たちが帰るとき、桐島は一度だけハルトを見た。値踏みするような目だった。ハルトは視線を受け止めて、議事録の最終行を書いた。
午後二時四十七分、来訪者退室。
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上席審査官たちが退室して、審査室に二人だけになった。
リアはまだ書類を見ていた。
「神崎さん」
「はい」
「何か気づきましたか」
ハルトはリアを見た。リアは書類から目を上げなかった。
「第二展開式の係数配列が、丸山清一さんの術式と一致しています」
リアは書類をテーブルに置いた。
「いつ気づきましたか」
「審査室の中で確認しました。先週、変換作業を行ったので記憶に残っていました」
「丸山さんの取り下げは三日前です」
「はい」
「アルカナ・テックの来庁は今日です」
「はい」
リアは窓の外を見た。曇り空だった。
「法的には」とリアは言った。「取り下げ済みの申請は先行特許として機能しません。アルカナ・テックの申請を棄却する根拠にはなりません」
「はい。わかっています」
「それでも、言いに来た」
「はい」
リアはしばらく黙っていた。
「今日のことは」とリアは言った。「他の人に話さないでください」
ハルトは少し考えた。
「わかりました」
「理由、聞かないんですか」
「聞かない方がいい気がするので」
リアは小さく息をついた。
窓の外で、風が吹いた。曇り空の下、庁舎前の街路樹が揺れた。
「神崎さん」リアはまだ窓の外を見ていた。「丸山さんの息子さんが、なぜ止めたのか、わかりますか」
「わかりません。ただ」
「ただ」
「何かを知っていたのだと思います。私たちが知らないことを」
リアは答えなかった。
答えの代わりに、書類を手に取った。立ち上がった。
「アルカナ・テックの申請は、通常の審査プロセスで進めます」
「はい」
「ただし、厳密に」
「はい」
リアは審査室を出た。ドアが閉まった。
ハルトは一人残った。
議事録をもう一度読んだ。誤字がないか確認した。時刻が正確か確認した。問題がなかった。
デスクに戻った。マグカップを書類から十センチ離れた位置に直した。コーヒーを一口飲んだ。
丸山清一の術式が、アルカナ・テックの申請書の中にあった。
取り下げ、三日後の来庁。
何かが、動いている。
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第六話 了




