「父の字で書かれた術式」
丸山辰夫が来庁したのは、木曜日の午前中だった。
予約なしだった。受付から内線が入ったとき、ハルトは午後の審査書類を整理していた。
「窓口に丸山辰夫さんという方がいらっしゃいます。申請があるとのことです」
「わかりました。案内してください」
ハルトはペンを置いた。マグカップを書類から十センチ離れた位置に直した。立ち上がった。
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面談室に通すと、丸山辰夫は両手で紙袋を持ったまま立っていた。
六十代、白髪交じり、作業着の上から厚手のジャケットを羽織っていた。
靴に泥が残っていた。
腕輪はつけていなかった。
「神崎と申します。補助係です」
「丸山です」丸山は頭を下げた。
「突然すみません。予約した方がよかったですかね」
「問題ありません。どうぞ座ってください」
丸山は椅子に座った。紙袋を膝の上に置いた。両手で持ったままだった。
「遠いところからありがとうございます」
「いえ、まあ」丸山は窓の外を一度見た。
「来るつもりはなかったんですが」
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お茶を出すと、丸山は少しだけ表情を緩めた。
「申請、したいんです」と丸山は言った。
「はい」
「父が残した術式があります。ずっと手元に置いていたんですが……申請できるものかどうか、まずそこから聞いてもいいですか」
「もちろんです」
丸山は紙袋から、折り畳まれた紙を取り出した。四つ折りになっていた。折り目に沿って、ゆっくりと開いた。
広げた紙をテーブルに置いた。
術式だった。手書きだった。鉛筆で書かれていた。
紙は少し黄ばんでいた。独自の記法で書かれていたが、構造は読み取れた。
「父の字です」丸山は言った。「二十数年前に書いたものだと思います。魔法が世の中に出てきて、まだ間もないころです」
ハルトは術式を読んだ。
感応系の構造だった。地中に向けて術式を流し、構造を読み取る設計だった。透視系に似ているが、画像ではなく空間の情報として取り込む仕組みだった。精度が高い。術式の体系化もまだ進んでいない時代に、これを独学で組み上げたとすれば、相当の技術者だったことになる。
「お父さんは魔法使いだったんですか」
「ええ。地中の水脈を探すのが得意で、近隣の農家から頼まれていました。田んぼの水の流れがおかしいとか、井戸が涸れそうだとか。そういうときに呼ばれて」丸山は術式を見た。「自分で術式を組めるくらいだから、腕はあったんだと思います。ただ本人はあまり語らなかったので」
「亡くなられてから、どのくらいですか」
「二十年になります」
ハルトは術式をもう一度読んだ。
「術式自体は、申請できます。ただ、記法が独自のものなので、標準表記への変換が必要になります」
「それは、私が——」
「こちらで確認しながら進められます。内容を読み取ることはできますか」
「いえ、私は非適合なので」丸山は苦笑いした。
「父の術式は、父にしかわからないと思っていました。誰かに読める人がいるとは思っていなかったから、持ってきた理由の一つはそれです」
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ハルトは術式を読み進めた。
第一層から第三層まで、構造を追った。精度確認のための補正式が、独自の記号で書き込まれていた。変換しながら整理した。
「第二層の、この記号は」とハルトは丸山に向けた。「右向きの矢印の上に点が三つ並んでいます」
丸山は術式を覗き込んだ。
「ああ、それは父の癖です。水脈を追うときの方向補正だって言っていました。中心から外側に向かって、感度を広げる意味らしいんですが」
「広域スキャンの展開式ですね。なるほど」
ハルトはメモに書き込んだ。丸山がそれを見ていた。
「あなた、術式読めるんですか。魔法使いじゃないのに」
「読めます。魔法が使えることと、術式の構造を理解することは別なので」
「そんなものですか」
「そんなものです」
丸山は少し黙った。
「父も同じことを言っていました」と丸山は言った。
「魔法は使えなくても、わかる人にはわかる、と」
ハルトは手を止めた。
「お父さんも、非適合でしたか」
「いえ」丸山は首を振った。
「父は魔法使いです。私が非適合なんです。父は、私が発現投与を受けて適合しなかったとき、何も言いませんでした。ただ——」
丸山は術式を見た。
「この術式を私に見せて、『わかるか』と聞いたんです。わからないと言ったら、『そうか』と言って、また折り畳んで仕舞いました。それだけでした」
面談室が静かになった。
「父が亡くなったとき、この紙が遺品の中にありました。捨てられなかった。何がここに書いてあるのか、二十年間わからないままでいました」
丸山の手が、紙の端に触れた。
「申請しようと思ったのは」と丸山は続けた。「息子に言われたからじゃないです。息子は反対しました。面倒なことになるからって。でも、父が書いたものを、ちゃんとした形にしたかった。それだけです」
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ハルトは術式の変換作業を進めた。
丸山が隣で見ていた。途中、「その記号はこういう意味です」と補足を入れてくれた。父親から断片的に聞いていたことを、少しずつ思い出すように話した。
「父は無口な人でしたが、水脈の話だけはよくしました。地面の下には必ず水が流れていて、それを見つけるのが自分の仕事だと言っていました」
「農家の方に頼まれていた、とおっしゃっていましたね」
「ええ。お金は取らなかったです。ただの趣味みたいなものだったんだと思います」丸山は笑った。「なのに、こんな精密な術式を組んでいたんだから、律儀な人でした」
「魔法が世の中に出てきたばかりのころに、独学でここまで組み上げたんですね」
「周りに参考にできる人間もいなかったはずです。みんな手探りだったころですから」
変換が終わった。標準表記に直した術式をハルトはメモ帳に書き出した。丸山に向けた。
「これで合っていますか。内容は、地中空間の感応術式です。水脈・地盤構造の読み取りに特化した設計です」
丸山はメモを見た。しばらく見ていた。
「なんか、こうして見ると」丸山は言った。「普通の字に見えますね」
「お父さんの術式そのものです」
「そうですか」
丸山はもう一度、鉛筆書きの元の紙を見た。
「申請できますか」
「できます」とハルトは言った。
「正式な申請書類を揃えていただく必要がありますが、内容に問題はありません。受理できます」
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書類の説明をした。丸山はメモを取った。
一通り説明が終わると、丸山は紙袋を持ち直した。術式の紙を、また四つ折りにして、丁寧に仕舞った。
「ありがとうございました」と丸山は言った。「来てよかった」
「書類が揃いましたら、また来庁いただくか郵送でも受け付けています」
「わかりました。息子には内緒で来たので、また内緒で来ます」
丸山は苦笑いした。ハルトも少し口元が緩んだ。
「息子さんが心配されているんだと思います」
「そうでしょうね」丸山は立ち上がった。「でも父のものだから、父のことは私が決めます」
ドアを開けた。廊下に出る前に振り返った。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「あなたは、なんでこの仕事をやっているんですか。魔法が使えないのに」
ハルトは少し考えた。
「面白いので」
丸山は笑った。今日一番の笑い方だった。
「そうですか。じゃあ続けてください」
ドアが閉まった。
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ハルトはメモ帳を見た。
標準表記に直した術式が、一ページ分書いてあった。
丸山清一の術式。二十数年前、まだ誰も術式の体系を知らなかった時代に、一人の魔法使いが鉛筆で書いたもの。息子には読めなかったもの。二十年間、遺品の中にあったもの。
既存特許と照合した。三十四万二千七百十八件。近似のものが一件あった。空間感応系の登録特許で、申請者は法人名義だった。係数の配列が似ていた。ただ、完全な一致ではなかった。類似として処理できる範囲ではなかった。
問題はなかった。
受理できる。
ハルトはメモ帳を閉じた。マグカップを持った。コーヒーを一口飲んだ。
丸山清一が、息子に見せた術式。「わかるか」と聞いた術式。
二十年越しに、少しだけ、誰かに読まれた。
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第五話 了




