「保留」
十一月の第三週になった。
戦況は、膠着していた。
ロシアの進軍はバルト三国の国境付近で止まっていた。NATO側が魔法部隊を展開したことで、両者が睨み合う状況になっていた。停戦交渉が始まったという報道と、始まっていないという報道が錯綜していた。
魔法庁のフロアは、先週よりは落ち着いていた。ただ、国際連携部の動きは続いていた。
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水曜日の夜、サクから電話が来た。
九時を過ぎていた。
「ハルトくん、今話せる?」
「はい」
「少し、話したいことがあって」
声は落ち着いていた。ただ、いつもより少し、重かった。
「はい。どうぞ」
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「論文、保留にすることにした」サクは言った。
ハルトは少し間を置いた。
「はい」
「教授と話し合って、決めた。今の状況で出すのは、リスクが高いって」
「はい」
「エネルギー魔力変換の研究が、軍事転用される可能性を考えると、今の段階で論文として公開するのは早いって話になって」サクは言った。「教授の意見もあったし、私自身も、少し考えていたことで」
「はい」
「ハルトくんは、どう思う?」
ハルトは少し考えた。
「正しい判断だと思います」
「なんで」
「今の状況で論文が出れば、研究の内容が広く知られます。目的の違う人間が、その技術に興味を持つ可能性があります」
「軍事的に使いたい人間が、ということ?」
「それだけではありません。研究の成果を、サクさんの意図しない形で利用しようとする人間が出てくる可能性があります」
サクは少し間を置いた。
「アルカナテックみたいに、ということ?」
「はい。一つの例として」
「そっか」サクは言った。「やっぱり、そういうことだよね」
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「教授に最初に言われたとき、正直、悔しかった」サクは言った。
「はい」
「五十パーセントという数字を、ちゃんと形にしたかった。論文として出すことで、私の研究が記録として残ると思っていたから」
「はい」
「でも、教授が言ったんだよね。記録として残すことと、今公開することは、別の話だって」
「はい」
「論文は書き上げる。ただ、提出のタイミングを選ぶ。それが研究者としての判断だって」サクは言った。「それを聞いて、少し気が楽になった」
「はい」
「保留は、やめることじゃない。タイミングを選ぶことだって、自分に言い聞かせてる」
「それは正しいと思います」ハルトは言った。「論文は、書き上げた時点でサクさんの記録になります。提出していなくても、存在しています」
「そうだよね」サクは言った。「ハルトくんに言ってもらうと、そういう気がしてくる」
「事実だと思って言っています」
「うん」サクは少し笑った。「ありがとう」
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少し間があった。
「教授が言っていたことで、もう一個あって」サクは言った。
「はい」
「今回の戦争で、エネルギー変換系の研究は、しばらく国際的な監視下に置かれる可能性があるって。研究を続けること自体は問題ないけど、発表のタイミングや内容については、慎重になる必要があるって」
「はい。経産省が検討していた管理方針と、方向性が重なります」
「そうなんだよ」サクは言った。「日本でもそういう動きがあったし、今回の件で世界的に同じ方向になっていく気がする」
「おそらく、そうなります」
「それって、研究者にとっては、動きにくい環境になるってこと?」
「動きにくくなる部分はあります。ただ」ハルトは言った。「研究の目的が明確であれば、その目的を丁寧に説明することで、動ける余地は残ると思います」
「目的を丁寧に説明する、か」サクは言った。「それって、記録として残すことと、繋がる話だよね」
「はい。目的を記録として持っておくことが、説明の根拠になります」
「なるほど」サクは言った。「そうやって考えると、今論文を書き上げておくことは、意味がある気がしてきた。提出しなくても、書き上げておくことに意味がある」
「はい。そう思います」
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「ハルトくん」サクは言った。
「はい」
「一個、正直に話していい?」
「どうぞ」
「悔しい気持ちは、まだある」サクは言った。「保留が正しいと頭ではわかってても、悔しいものは悔しくて」
「はい」
「五十パーセントになって、ようやく形になってきたと思ったのに。また、何かに足を引っ張られてる感じがして」
「はい」
「アルカナテックのときも、そう感じた。自分の研究が、自分のコントロールの外にある力に左右される感じ」
「はい」
「それが、しんどい」
ハルトは少し間を置いた。
「しんどいと思っていいと思います」
「うん」
「足を引っ張られているように感じることが、事実として続いています。それをしんどいと感じるのは、正しい感覚だと思います」
「正しい感覚、か」サクは言った。「ハルトくんって、そういうとき、否定しないんだよね」
「否定する理由がありません」
「うん」サクは言った。少し声が柔らかくなった。「ありがとう。話してよかった」
「はい」
「悔しいけど、前に進む。それだけだよね」
「はい」
「ハルトくんは、悔しいとか、そういう感情、ある?」
ハルトは少し考えた。
「あります」
「どんなとき?」
「記録として正しく残るべきものが、残らないときです」
サクは少し間を置いた。
「それって、私の申請のこととか、今回のこととか、含まれてる?」
「はい」
「そっか」サクは言った。「一緒に悔しいんだね」
「はい」
「なんか、それだけで少し、楽になった」
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少し間があった。
「研究は続けるよ」サクは言った。「論文は書き上げる。提出のタイミングは、教授と相談しながら慎重に決める。それだけのことだから」
「はい」
「約束も、有効だから」
「はい」
「研究が完成したとき、最初に使ってもらう。それは変わらない」
「はい。覚えています」
「覚えてるよね、ハルトくんだもん」サクは笑った。「じゃあ、また連絡する」
「はい」
「ハルトくんも、無理しないでね。魔法庁、大変そうだから」
「大丈夫です。やれることをやっています」
「うん」サクは言った。「それがハルトくんだもんね。また」
「また」
電話が切れた。
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ハルトは部屋の中で、しばらく動かなかった。
悔しいという言葉を、サクに対して使った。
使ってから、それが本当だと思った。
記録として正しく残るべきものが、残らないとき。
サクの研究が、アルカナテックに奪われたとき。
論文の提出が、戦争という外側の事情で保留になるとき。
どちらも、悔しかった。
ただ、サクは前に進むと言った。
悔しいけど、前に進む。それだけだと言った。
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翌朝、リアにメッセージを送った。
「佐久間さんから連絡がありました。論文の提出を保留にしたとのことです」
少し待つと、返信が来た。
「そうですか。今の状況では、賢明な判断だと思います」
「はい。本人も納得しています」
「神崎さん、佐久間さんと話しましたか」
「昨夜、電話がありました」
「どうでしたか」
「悔しいけど、前に進むと言っていました」
少し間があった。
「強い人ですね」リアは言った。「変わらず、そう思います」
「はい」
「神崎さんも、大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
「そうですか」リアは言った。「無理しないでください。それだけです」
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その日の昼、ソウにも報告した。
メッセージを送った。
「佐久間さんから連絡がありました。論文の提出を保留にしたとのことです。今の状況で公開すれば、利用される恐れがあるという判断です」
返信が来た。
「そうか。正しい判断だ」
「はい。本人も前向きに納得しています」
「あの子らしいな」ソウは言った。「研究は続けるんだろう」
「はい」
「ならいい」少し間があった。「お前は大丈夫か」
「はい」
「そうか」ソウは言った。「状況が落ち着いたら、飯でも食いに行こう」
「はい」
「今は、それだけだ」
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ハルトはスマートフォンを置いた。
今日のことを頭の中に入れた。
サクの「悔しいけど、前に進む」という言葉。リアの「強い人ですね」という言葉。ソウの「あの子らしいな」という言葉。
全部、残った。
保留は、やめることじゃない。
サクがそう言っていた。
タイミングを選ぶことだと。
記録は、提出していなくても存在している。
書き上げた論文は、サクの記録として、すでにある。
それは、誰にも奪えない。
窓の外は曇っていた。
十一月の空は、まだ重かった。
コートを着た。帰った。
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第五十四話 了




