「異物」
九月になった。
魔法庁に来て、一ヶ月が経っていた。
術式記録の照合は、二百件を超えていた。藤本との連携も、少しずつ形になっていた。堂島部長は相変わらず細かいことを言わなかった。
ただ、一つだけ、気になることがあった。
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審査連携部のフロアに、もう一つの島があった。
ハルトのデスクから見て、斜め向かいだった。
そこの主任は、倉田ジュンという四十代の男性だった。火系のAクラスだった。魔法庁に二十年いるらしかった。
倉田主任は、ハルトが来た初日から、一度も話しかけてこなかった。
廊下ですれ違っても、目を合わせなかった。
フロアの会議でハルトが発言すると、資料に視線を落とした。
何も言わなかった。ただ、何も言わなかった。
藤本に一度だけ聞いたことがあった。
「倉田主任は、どういう方ですか」
「優秀な方です」藤本は少し間を置いて言った。「ただ、考え方が、少し古い部分があって」
「古い、というのは」
「魔法使いが魔法の仕事をするべきだという考え方が強い方です」藤本は言った。「それ以上は、私からは言いにくいです」
「わかりました」
それ以来、聞いていなかった。
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九月の第二週、木曜日だった。
午後、部内の会議があった。
月次の業務報告会議だった。各担当が一ヶ月の進捗を報告する形式だった。
ハルトも報告を求められていた。
術式記録の照合業務の進捗、MPBとの連携案件の状況、記録と実践のギャップに関する整理資料。三点をまとめた資料を用意していた。
会議室に入った。
長テーブルに十二名が座っていた。堂島部長が上座にいた。倉田主任はハルトの斜め向かいに座っていた。
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報告が順番に進んだ。
ハルトの番になった。
立った。資料を配った。
「神崎です。八月から九月にかけての業務報告をします」
三点を順番に説明した。
照合業務は二百十七件完了。MPBとの連携案件は四件処理済み。記録と実践のギャップについては、個人差による術式の変形パターンを十二種類に分類した整理資料を作成した。
「以上です」
堂島部長が言った。
「ギャップの分類、わかりやすいな。活用できそうだ」
「ありがとうございます」
他の職員からいくつか質問が出た。ハルトは答えた。
会議が次の報告に移ろうとしたとき、倉田主任が言った。
「一つ、聞いていいか」
室内が少し静かになった。
倉田主任はハルトを見ていた。
「神崎さん、記録と実践のギャップを整理したとのことだが」
「はい」
「実際に術式を使ったことがあるか」
「ありません。非魔法適性者なので」
「使ったことがない人間が、術式のギャップを整理できると思うか」
室内が静かになった。
ハルトは少し間を置いた。
「記録と実際の動きを照合した結果を整理したものです。術式を使う必要はありません」
「記録と動きを照合すると言うが」倉田主任は言った。「術式の本質は、魔力の感覚にある。それを持たない人間に、正確な照合ができるとは思えない」
「どの部分が不正確だと思いますか」
「全体的な話をしている」
「全体的に不正確だとすれば、具体的にどこが問題か指摘してもらえますか。修正します」
倉田主任は少し間を置いた。
「問題は、資料の中身だけではない」倉田主任は言った。「非適合者が術式の審査に関わること自体が、制度の問題だと思っている」
「それは」堂島部長が口を開いた。「この会議の議題ではないな、倉田主任」
「意見として言っています」
「意見は別の場所で言ってくれ」堂島部長は言った。穏やかな声だったが、はっきりしていた。「会議を続ける」
倉田主任は何も言わなかった。
資料に視線を落とした。
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会議が終わった。
ハルトはデスクに戻った。
資料を片付けた。
藤本が隣に来た。
「神崎さん、大丈夫ですか」
「はい」
「倉田主任のこと、気にしていますか」
「気にしていないと言えば嘘になります」ハルトは言った。「ただ、今のところは問題ありません」
「倉田主任は、ああいう方なんです」藤本は言った。「悪意があるというより、そういう考え方が染みついている」
「二十年、ここにいれば、そうなるかもしれません」
「神崎さん、怒っていないんですか」
ハルトは少し考えた。
「怒っていないとは言えません。ただ、怒っても何も変わらないと思っています」
「それは」藤本は言った。「神崎さんらしいですね」
「そうですか」
「倒してほしかったわけじゃないですけど、もう少し感情的になってもいいと思って」藤本は言った。「あの場で冷静に返したのは、正直すごいと思いました」
「言い返せることがあったので、言いました」
「それで十分ですよ」藤本は言った。「また何かあれば、言ってください」
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夕方、ソウからメッセージが来た。
「今日の会議の話、聞いた。今から行く」
ハルトは少し間を置いた。
「誰から聞きましたか」
「堂島部長から連絡があった。俺の方が早く動いたが」
十分後、ソウが審査連携部のフロアに来た。
私服だった。仕事終わりの様子だった。
「飯、食いに行くぞ」
「定時まで十五分あります」
「だから来た。荷物まとめろ」
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近くの定食屋に入った。
ソウは迷わず鶏の唐揚げ定食を頼んだ。ハルトは豚の生姜焼き定食にした。
料理が来るまで、ソウは何も言わなかった。
料理が来た。
食べながら、ソウが言った。
「今日のこと、聞かせてくれるか」
ハルトは今日の会議のことを、順番に話した。
ソウは食べながら聞いた。途中で何も言わなかった。
ハルトが話し終えた。
「それで、お前はどう思った」ソウは言った。
「術式の本質は魔力の感覚にあると言われました。正しい部分があると思います」
「正しい部分がある、か」
「術式を使う感覚は、私には持てません。その意味では、倉田主任の指摘は一部、事実です」
「そこまで認めて、それでも記録の照合ができると言ったのか」
「はい」
ソウは少し間を置いた。
「会議でそう言い返したのか」
「どの部分が不正確か指摘してほしいと言いました」
「倉田主任は答えたか」
「答えませんでした」
「そうか」ソウは言った。「倉田主任は優秀な魔法使いだ。ただ、具体的な話になると、言葉が止まることがある。大きい話で押さえようとする癖がある」
「昔から知っているんですか」
「俺が魔法庁に入ったころ、倉田主任はすでに中堅だった」ソウは言った。「非適合者に対してだけじゃない。色々と、古い考え方が残っている方だ」
「変わらない人間、ですか」
「そういう方もいる」ソウは言った。「お前が何をしても変わらないかもしれない。それでも、お前が正しいことをしていれば、周りは見ている」
「周りが見ている、というのは」
「今日の会議で、お前が具体的な指摘を求めたとき、倉田主任が答えられなかったのを、全員が見ていた」ソウは言った。「堂島部長が動いたのも、その場にいた人間が何を見たか、わかっているからだと思う」
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料理を食べ終えた。
ソウがお茶を飲みながら言った。
「お前、本当に怒らなかったのか」
「怒っていないとは言えません」
「それでいい」ソウは言った。「怒るなとは言わない。ただ、倉田主任に向けて怒っても、今は届かない。その怒りを、仕事に使った方がいい」
「仕事に使う、というのは」
「倉田主任が、非適合者には術式の照合ができないと言った。なら、できることを記録で示せばいい。口で言い返すより、積み上げた記録の方が強い」ソウは言った。「お前が一番得意なことをやれ」
「はい」
「記録は嘘をつかない。それは、お前が一番わかっているはずだ」
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店を出た。
夜の道を少し歩いた。
「神宮寺さん」とハルトは言った。
「何だ」
「今日、来てくれてありがとうございます」
「堂島部長に先を越されたくなかっただけだ」ソウは言った。
「それだけですか」
ソウは少し間を置いた。
「お前が魔法庁に来たのは、俺が話を通したからだ」ソウは言った。「責任がある」
「それだけですか」
また少し間があった。
「心配した」ソウは言った。「それだけだ」
「はい」
「次に倉田主任が何か言ってきたら、すぐ連絡しろ」
「自分で対応できます」
「わかってる」ソウは言った。「それでも連絡しろ」
「はい」
ソウは先に角を曲がった。
振り返らなかった。
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ハルトは一人で帰った。
今日のことを頭の中に入れた。
倉田主任の言葉。会議室の静けさ。堂島部長が「会議の議題ではない」と言ったこと。藤本の「もう少し感情的になってもいいと思って」という言葉。ソウの「積み上げた記録の方が強い」という言葉。
全部、残った。
怒っていないとは言えない。
変えられるとしたら、記録だけだった。
帰った。
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第四十九話 了




