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魔法特許庁ーーその魔法、違法ですーー  作者: にけ


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「訓練場」

八月の第三週になった。


魔法庁に来て、二週間が経っていた。


業務には少しずつ慣れてきた。術式記録の照合作業は、毎日十件から二十件のペースで進んでいた。藤本が術式の専門的な部分を丁寧に説明してくれた。堂島部長は細かいことを言わなかった。フロアの空気は、MPBとは違ったが、悪くはなかった。


ただ、一つだけ、まだ経験していないことがあった。


---


水曜日の朝、藤本が声をかけてきた。


「神崎さん、今日の午後、訓練があります」


「訓練、ですか」


「月に二回、実技訓練があるんです。庁舎の地下に訓練場があって、そこで各自が魔法の練度を維持します」藤本は言った。「神崎さんも来ますか。見学という形で」


「見学、ですか」


「強制ではないです。ただ、せっかくなら来た方が、うちの業務の理解が深まるかと思って。術式記録を扱うとはいっても、実際の魔法を見ないまま記録だけ読むのと、見た上で読むのとでは、違いがあると思うので」


ハルトは少し考えた。


「行きます」


「よかった。一時から地下二階です」


---


地下二階への階段を降りた。


重い扉があった。


藤本が扉を開けた。


中に入った。


---


広かった。


天井が高かった。体育館の二倍ほどの広さがあった。床は石材だった。壁に沿って、魔法の出力を計測する装置が並んでいた。壁そのものが、魔法の衝撃を吸収する素材でできているらしく、表面が少し光っていた。


すでに十数名が来ていた。


それぞれ、準備をしていた。コートを脱いでいる者、手首を回している者、静かに目を閉じている者。


堂島部長もいた。ジャケットを脱いで、動きやすい格好になっていた。


「神崎くん、来たか」堂島は言った。「今日は見学か」


「はい」


「好きなところで見ていていい。ただ、訓練中は区画の外に出ないように」


壁際に白い線が引いてあった。その内側が訓練区画だった。


「はい」


「それと、術式記録を覚えていたら、実際の動きと照合してみるといい。紙の上と、実際は少し違うこともあるから」


「わかりました」


---


壁際のベンチに座った。


訓練が始まった。


最初は個別の練習だった。各自が自分のペースで、決まった術式を繰り返す形だった。


藤本が近くで準備をしていた。


「何から始めますか」とハルトは聞いた。


「私は風系なので、基本の気流制御からです」藤本は言った。「地味ですが、一番大切な術式です」


「見ていていいですか」


「どうぞ」


藤本は足を肩幅に開いた。両手を軽く広げた。目を閉じた。


三秒ほど、そのままだった。


それから、動いた。


空気が、動いた。


藤本の周囲の空気が、ゆっくりと渦を巻いた。見えるわけではなかった。ただ、藤本の髪が揺れた。服が揺れた。ベンチに座っているハルトの頬に、風が当たった。


風は強くなかった。ただ、方向が一定だった。藤本を中心に、円を描くように流れていた。


「今の術式が、記録の何番に対応するかわかりますか」藤本は目を閉じたまま言った。


ハルトは頭の中を確認した。


風系の基本術式。気流の円環制御。登録番号、風系基本術式第三号。


「風系基本術式第三号だと思います」


藤本が目を開けた。


「正確です」藤本は少し笑った。「もう覚えてるんですね」


「はい」


「記録と、実際の動きで、違いはありましたか」


「記録では気流の方向が図で示されていましたが、実際は境界が滑らかでした。図より、連続的な動きです」


「そうです」藤本は言った。「術式記録の図は、簡略化されているんです。実際の魔力の流れはもう少し複雑で、個人差もある」


「個人差があるとすれば、記録との照合はどこを基準にしますか」


「核心部分の構造です。細部は個人で異なりますが、術式の骨格は同じはずです。そこが一致しているかどうかを見ます」


「わかりました」


---


藤本が訓練を続けた。


ハルトは見ていた。


気流の制御から、出力を上げた術式に移った。今度は風が強くなった。藤本の周囲で空気が渦を巻き、小さな竜巻のような形になった。石材の床が少し震えた。


ハルトは頭の中で記録を確認した。


風系発展術式第七号。出力制御型気流集束。


合っていた。


骨格は記録通りだった。ただ、藤本が手を動かすタイミングと、記録の図に示されたタイミングが、微妙にずれていた。


「藤本さん」


「はい」術式を続けながら答えた。


「手を動かすタイミングが、記録の図より少し早いですが、意図的ですか」


藤本が術式を止めた。


振り返った。


「気づきましたか」藤本は言った。少し驚いた顔をしていた。「そうです。私の癖です。記録の標準より少し早めに動かした方が、出力の安定が良かったので、そうしています」


「個人差の一つですか」


「そうです。こういう細かい差が、術式ごとに積み重なって、魔法使い個人のスタイルになります」藤本は言った。「記録は標準形ですが、実際はそれぞれが少しずつ調整しています」


「記録にその情報は含まれていませんね」


「含まれていません。記録はあくまで骨格だけです」藤本は言った。「神崎さん、それを一発で見抜くのは、なかなかすごいですよ」


「記録と違うものが気になるので」


「なるほど」藤本は笑った。「それは確かに、記録を扱う仕事に向いている」


---


しばらくして、訓練が全体での演習に移った。


二人一組になって、術式を合わせる練習だった。


堂島が説明した。


「合同術式の訓練だ。昨年の事件を踏まえて、連携の訓練を強化している。個人の術式をどう組み合わせるか、実践的に確認する」


ペアが決まった。


藤本は別のペアになった。


ハルトは見学のまま、壁際で見ていた。


---


訓練が始まった。


二人一組が、術式を合わせていた。


一組目は、火系と水系のペアだった。


火系の職員が炎を出した。水系の職員がそれを囲むように水を展開した。炎が外に広がらず、内側に収束した。温度が上がったが、範囲は狭かった。


ハルトは頭の中で記録を確認した。


複合術式。火水収束型。登録番号、複合術式第十二号。


合っていた。


二組目は、風系と土系のペアだった。


風系の職員が気流を展開した。土系の職員が床の石材を薄く剥がして、気流に乗せた。石の粒子が螺旋を描いた。


複合術式第八号。風土螺旋型。


合っていた。


三組目を見た。


堂島ともう一人のペアだった。


堂島が水を展開した。広範囲だった。フロアの半分ほどを、薄い水膜が覆った。もう一人が、その上に光系の術式を重ねた。水膜が光を屈折させた。訓練場全体が、水中のような光の揺らぎに包まれた。


ハルトは頭の中を探した。


複合術式。水光拡散型。


一致する記録が、すぐに出なかった。


考えた。


水系と光系の複合。拡散を目的とした術式。範囲が広い。


複合術式第二十九号、だと思った。ただ、記録の図と、今の動きの一部が合わなかった。水膜の厚さの調整方法が、記録より精密だった。


藤本の言葉を思い出した。記録は骨格だけ。個人差がある。


骨格は第二十九号で合っていると思った。


ただ、確認したかった。


---


訓練が終わった後、堂島に声をかけた。


「部長、一つ確認してもいいですか」


「どうぞ」


「先ほどの術式、複合術式第二十九号だと思いましたが、水膜の厚さの調整方法が記録と異なりました。標準形から変えているんですか」


堂島は少し間を置いた。


「よく見ていたな」堂島は言った。「そうだ。第二十九号をベースに、水膜の精度を上げる調整を加えている。記録には反映されていない」


「その調整は、どこかに記録がありますか」


「ない」堂島は言った。「ベテランの経験知として、個人が持っているものだ」


「記録に残っていない技術が、現場にある、ということですか」


「そういうことだ」堂島は言った。「魔法庁の課題の一つでもある。記録と実践の間に、ギャップがある」


「それを埋める方法は考えていますか」


堂島は少し考えた。


「考えてはいるが、まだ答えが出ていない」堂島は言った。「神崎くん、何かアイデアがあるか」


「MPBでは、拒絶された申請の中に、価値ある技術が埋もれていることがありました。記録を丁寧に掘り起こすことで、それが見えてくることがあります」ハルトは言った。「同じことが、ここでもできるかもしれません」


堂島はハルトを見た。


少し間があった。


「面白いことを言う」堂島は言った。「少し、考えてみよう」


---


訓練場を出た。


藤本が隣に来た。


「神崎さん、どうでしたか」


「記録と実際の動きの違いが、よくわかりました」


「役に立ちそうですか、術式を見るのは」


「はい」ハルトは言った。「記録だけ読むより、構造が立体的にわかります」


「立体的に、か」藤本は言った。「うまい表現ですね」


「記録は平面ですが、実際の術式は空間の中で動いています。その差が、今日初めてわかりました」


「それ、魔法使いでも言語化できない人が多いですよ」藤本は言った。「感覚でやってるから。神崎さんが言葉にしてくれると、こちらも気づくことがある」


「そうですか」


「次の訓練も来てください」藤本は言った。「私も、神崎さんに見てもらった方が、自分の術式の癖がわかる気がして」


「はい。来ます」


---


夕方、デスクに戻った。


今日見た術式を頭の中で確認した。


個別訓練で見たもの、合同演習で見たもの。全部で二十三の術式だった。


記録と一致したもの、骨格だけ一致したもの、細部に個人差があったもの。それぞれ、頭の中で整理した。


記録と現場の間にギャップがある、と堂島は言っていた。


MPBで特許記録を読んでいたときも、似たことがあった。記録の上では正しくても、実際の技術の文脈では見えにくいものがあった。


場所は違うが、やることは同じかもしれないと思った。


記録を正確に持つこと。現場を見ること。その間にあるものを、埋めること。


---


帰り支度をしていると、スマートフォンが鳴った。


サクからだった。


メッセージだった。


「こっちの生活、少し慣れてきた。研究室の人たち、いい人たちだった」


ハルトは少し間を置いた。


返信した。


「よかったです。研究は進んでいますか」


すぐに返信が来た。


「まだ始まったばかりだけど、環境が整ってる。機材が全然違う」


「そうですか」


「ハルトくんは、魔法庁どう?」


「今日、訓練場で実際の術式を見ました」


「術式、見たんだ。どうだった?」


ハルトは少し考えた。


「記録では平面だったものが、立体になりました」


少し間があって、返信が来た。


「なんか、ハルトくんらしい感想だね」


「そうですか」


「いい意味で」サクは言った。「お互い、新しいところで頑張ろうね」


「はい」


「また連絡する」


「はい」


---


魔法庁を出た。


八月の夕方だった。


歩きながら、今日のことを頭の中に入れた。


訓練場の広さ。藤本の気流制御。堂島の水光拡散型。記録と現場のギャップ。二十三の術式。


全部、残った。


記録は積み上がっていた。


まだ、始まったばかりだった。


帰った。


---


第四十八話 了

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