「川沿いのベンチ」
土曜日の朝、ハルトは早めに起きた。
特にすることがなかった。
コーヒーを淹れた。飲んだ。
昼前に家を出た。
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川沿いに着いた。
五月の昼だった。風があった。川面が光っていた。
ベンチにサクがいた。
コートは着ていなかった。薄手のジャケットだった。髪が少し伸びていた。スマートフォンを見ていなかった。川を見ていた。
ハルトが近づくと、顔を上げた。
「来た」
「はい」
「久しぶり」
「はい」
隣に座った。
しばらく、二人とも川を見た。
何も言わなかった。
五月の川は、十月より水が多かった。流れる音が少し大きかった。
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「元気だった?」とサクは言った。
「はい。サクさんは」
「まあまあ」サクは言った。「電話で言った通り、まあまあ」
「はい」
「会社辞めてから、時間がいっぱいあって。最初は何していいかわからなくて、ぼーっとしてた」
「今は」
「少し動けるようになってきた。アメリカの手続きとか、荷物の整理とか。やることがあると、楽になるね」
「そうですか」
「ハルトくんは、仕事どう?」
「変わらずやっています」
「新人は入ったの?」
「四名入りました。一名、去年の説明会に来ていた非適合者の方です」
「説明会の」サクは少し笑った。「じゃあ、ハルトくんが引き寄せたんだね」
「そうかもしれません」
「なんかいいな、それ」サクは言った。「ハルトくんの言葉が、誰かをそこに連れてきたんだね」
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少し間があった。
サクが川に小石を投げた。
石は二回跳ねて、沈んだ。
「ハルトくんに、話したいことがある」サクは言った。
「はい」
「電話でアメリカに行くことは話したけど、直接会って話したかった理由が、もう一個あって」
「はい」
サクは川を見たまま言った。
「これ以上、ハルトくんに迷惑をかけたくないと思ってる」
ハルトは少し間を置いた。
「迷惑、ですか」
「うん」サクは言った。「私の申請のことで、ハルトくんにずっと動いてもらって。仕事と個人の境界が曖昧になって、それが負担になってたと思う」
「負担には、なっていません」
「でも」
「なっていません」ハルトは言った。「はっきり言えます」
サクは少しハルトを見た。
「そう言ってくれるのはわかってる。でも、私が、これ以上そういう状況を作りたくないっていう気持ちがあって」
「それは」ハルトは言った。「私のためですか。それとも、サクさん自身のためですか」
サクは少し間を置いた。
「両方だと思う」
「はい」
「ハルトくんらしい聞き方だね、それ」サクは小さく笑った。「両方って答えたら、どっちが本当かわかんないね」
「わからなくていいと思います」
「なんで」
「どちらも本当なら、どちらも理由として成立します」
サクはしばらくハルトを見た。
「ハルトくんって、そういうこと言うんだよね」
「事実だと思っています」
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川面に光が揺れていた。
「アメリカに行く理由、もう少し話してもいいですか」とハルトは言った。
「どうぞ」
「研究を続けるため、というのはわかりました。ただ、日本で個人として続ける選択肢もあったと思います。なぜアメリカですか」
サクは少し間を置いた。
「ここにいると、どうしても今回のことを引きずる気がして」サクは言った。「アルカナテックのこと、三谷くんのこと、父親のこと。全部、日本にある。物理的に離れないと、切り替えられない気がした」
「はい」
「あと」サクは川を見た。「ハルトくんの近くにいると、甘えてしまうと思って」
ハルトは少し間を置いた。
「甘える、というのは」
「困ったことがあると、電話したくなる。会いたくなる」サクは言った。「それ自体は悪いことじゃないと思うけど、私が自分で立てるようになるには、一回離れた方がいい気がした」
「それは」ハルトは言った。「私が嫌だということではないですか」
「違う」サクは即座に言った。「全然違う」
「はい」
「ハルトくんのことが嫌だから離れるんじゃなくて」サクは言った。「ハルトくんのことが、そういう存在だから、離れる必要があると思ったんだよ」
ハルトはその言葉を頭の中に入れた。
整理した。
うまく整理できなかった。
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少し間があった。
「一個、聞いていいですか」とサクは言った。
「はい」
「ハルトくんは、私がアメリカに行くことを、どう思ってる?」
ハルトは少し考えた。
「正直に言いますか」
「うん」
「残念だと思っています」
「残念」
「はい」ハルトは言った。「佐久間さんがいなくなることが、残念です」
サクはハルトを見た。
「佐久間さん、って言った」
「はい。仕事の話ではないので、サクさんと言うべきでした」
「そっちじゃなくて」サクは言った。少し笑った。「いなくなることが残念、って言ってくれた」
「事実です」
「うん」サクは言った。「ありがとう」
少し間があった。
「私も、残念だよ」サクは言った。「ハルトくんと、もっと話したかった。もっと色々、一緒に考えたかった」
「はい」
「なんか、ずっとバタバタしてて。申請のこととか、会社のこととか、実家のこととか。それ以外の話、あんまりできなかったね」
「そうですね」
「もっと早く、普通に話せばよかった」サクは言った。「研究の話とか、仕事の話とか関係なく、ただ話すだけの時間」
「はい」
「後悔してる、少し」
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川の音がしていた。
ハルトは少し考えた。
「一つ、言っていいですか」
「どうぞ」
「サクさんの研究が完成したとき、最初に使わせてもらう約束があります」
サクはハルトを見た。
「覚えてるの、それ」
「はい」
「いつ言ったっけ」
「去年の十月、川沿いで話したときです」
サクは少し笑った。
「ハルトくんだ」サクは言った。「そういうとこ、ほんとにハルトくんだ」
「その約束は、アメリカに行っても有効ですか」
「有効」サクは言った。「絶対に有効」
「では、続けてください」ハルトは言った。「アメリカでも、どこでも」
サクはハルトを見た。
しばらく見ていた。
「ハルトくん」
「はい」
「私のこと、待っててくれる?」
ハルトは少し間を置いた。
「待つ、というのは」
「わかんない」サクは言った。「うまく言えないけど、待っててほしい。ハルトくんに、そう言いたかった」
ハルトは川を見た。
整理しようとした。
整理できなかった。
「はい」ハルトは言った。
「はい、って」
「待ちます」
サクはハルトを見た。
「考えなくていいの」
「考えました」
「何秒で」
「十三秒です」
サクが笑った。声を出して笑った。
「ハルトくんって、本当に」サクは言った。笑いながら言った。「好きだよ、そういうとこ」
ハルトは少し間を置いた。
「はい」
「返事それだけ?」
「他に言葉が見つかりませんでした」
「嘘」サクは言った。「ハルトくんが言葉を選んでるのって、わかるから」
ハルトは川を見た。
「私も」ハルトは言った。「サクさんのことが、好きです」
サクは何も言わなかった。
少し間があった。
「ありがとう」サクは言った。静かな声だった。「言ってくれてありがとう」
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二人でしばらく、川を見ていた。
何も言わなかった。
それでよかった。
風が少し強くなった。川面の光が揺れた。
「七月末まで、また会える?」とサクは言った。
「はい」
「じゃあ、また会おう。今日みたいに、ただ話すだけでいい」
「はい」
「研究の話とか、仕事の話とか関係なく」
「はい」
「それだけでいい」サクは言った。「それだけがよかった」
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帰り道、駅の前で別れた。
「また」とサクは言った。
「また」
サクが改札を抜けた。
途中で振り返った。
手を振った。
ハルトも手を振った。
サクが改札の向こうに消えた。
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ハルトは改札前に立っていた。
今日のことを頭の中に入れた。
川面の光。サクの「甘えてしまうと思って」という言葉。「ハルトくんのことが、そういう存在だから」という言葉。「待っててくれる?」という言葉。自分が「待ちます」と答えたこと。「好きです」と言ったこと。
全部、残った。
三十四万件を超える特許の記録がある。その全部が、頭の中にある。
帰った。
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第四十五話 了




