「たまたまの夜」
五月の第三週、木曜日だった。
定時になった。
ハルトはコートを着て、エレベーターに乗った。
一階で扉が開いた。
岸本がいた。
「あ、神崎さん」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」岸本は言った。「今日、早いですね」
「定時です」
「神崎さんが定時に帰るの、珍しいですね」岸本は言った。「これからどうするんですか」
「夕食を食べて帰ります」
「どこで食べるんですか」
「まだ決めていません」
「じゃあ一緒に行きませんか」岸本は言った。あっさりした言い方だった。「一人で食べるのも別にいいんですけど、せっかくなら」
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ビルを出た。
五月の夜は、少し風があった。
「どこがいいですか」と岸本は言った。
「どこでも」
「神崎さんって、食事の好みありますか」
「特にありません」
「それ、毎回言いますよね」岸本は笑った。「じゃあ駅前の定食屋にしましょう。安くてちゃんとしてるので」
歩き始めた。
角を曲がったところで、後ろから声がした。
「神崎さん」
振り返った。
鶴田だった。大きめのトートバッグを肩にかけていた。少し走ってきた様子だった。
「よかった、追いつけた」鶴田は言った。「エレベーター乗り遅れて、階段で降りてきました」
「どうしたんですか」
「これからご飯ですか? 一緒に行っていいですか」
「どうぞ」と岸本が言った。「ちょうどよかった、三人で食べましょう」
鶴田は少し安堵した顔をした。
「よかった。一人で食べようと思ってたんですけど、なんか今日は誰かと食べたい気分で」
「わかります、そういう日」岸本は言った。「行きましょう」
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定食屋は混んでいた。
少し待って、四人掛けのテーブルに案内された。
メニューを見た。
岸本は迷わず鶏の唐揚げ定食を頼んだ。鶴田は少し悩んでサバの味噌煮定食にした。ハルトは豚の生姜焼き定食にした。
料理が来るまで、岸本が話した。
「鶴田くん、最近どう? 慣れてきた?」
「慣れてきました。窓口対応が最初は緊張したんですけど、先週くらいから少し落ち着いてきました」
「わかる。最初の一ヶ月は窓口で頭が真っ白になるんだよね」
「なりました。神崎さんはどうだったんですか、最初」
ハルトは少し考えた。
「最初の窓口で、申請書類の記載漏れを指摘したら、申請者の方に三十分説明を続けられました」
「え」鶴田は言った。「それ、どうしたんですか」
「最後まで聞きました」
「最後まで」
「記載漏れは事実だったので」
岸本が笑った。
「神崎さんらしい。で、その申請者の方、どうなったんですか」
「翌週、修正して再申請してきました。記載は完璧でした」
「それもなんか神崎さんらしい」岸本は言った。「ちゃんと戻ってくるんだ」
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料理が来た。
しばらく食べた。
鶴田が言った。
「神崎さん、最近、少し考えてることがあるように見えます」
「そうですか」
「はい。先週も、なんか違う静かさだって思って」
「同じこと、先週も言いましたね」
「本当のことなので」鶴田は言った。「聞かない方がいいですか」
ハルトは少し間を置いた。
「聞いていいですよ」
岸本が箸を置いた。
「私も聞いていいですか」
「はい」
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ハルトは少し考えた。
どこから話すか、整理した。
「仕事上で関わった申請者の方が、七月末にアメリカに行きます」
「アメリカに」と岸本は言った。
「はい。研究を続けるためです。日本では続けられない事情があって」
「その事情というのは」
「昨年から今年にかけて、色々ありました」ハルトは言った。「申請が審査を通りそうになったところで、会社が買収されました。研究の方向性が変えられて、会社を辞めることになりました」
「買収、ですか」鶴田は言った。
「アルカナテックによる買収です。計画的なものだったと思います」
岸本は少し間を置いた。
「それ、止められなかったんですか」
「止める方法がありませんでした。買収は企業間の話で、MPBが介入できる範囲ではありませんでした」
「悔しかったですか」
「はい」
岸本は頷いた。それ以上は聞かなかった。
鶴田が言った。
「その方は、今どうしてるんですか」
「アメリカの大学の研究室に受け入れてもらえることになりました。七月末に出発する予定です」
「研究、続けるんですね」
「はい」
「よかったです」鶴田は言った。あっさりした言い方だった。「続けられる場所があるなら、よかったです」
ハルトは少し間を置いた。
「そうですね」
「神崎さんにとって、大切な人ですか」鶴田は言った。
岸本が少し目を丸くした。
ハルトは少し考えた。
「はい」
「そうですか」鶴田は言った。「それは、しんどいですね」
「鶴田くん、直接だな」岸本は言った。
「違いましたか」
「いや、たぶん正しい」岸本は言った。それからハルトを見た。「来週、会うんですよね」
「はい。土曜日に」
「ちゃんと話してきてください」岸本は言った。「後悔しない方がいいと思うので」
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食事が終わった。
会計を済ませて、店を出た。
五月の夜は少し肌寒かった。
三人で駅に向かって歩いた。
大通りを渡ろうとしたとき、岸本が言った。
「あ」
「どうしたんですか」とハルトは言った。
「あそこ」
岸本が視線を向けた先を、ハルトも見た。
通りの向こう側だった。
リアとソウが、並んで歩いていた。
二人とも私服だった。リアは紺色のコートを着ていた。ソウは黒いジャケットだった。
特別な様子ではなかった。肩が触れるわけでもなかった。手を繋いでいるわけでもなかった。ただ、並んで、同じ方向に歩いていた。
何か話しているようだった。リアが少し顔を上げてソウの方を見た。ソウが何か言った。リアが小さく笑った。
それだけだった。
三人は信号待ちで立っていた。
「……神崎さん、見てますか」岸本が小声で言った。
「はい」
「あれって」
「はい」
「どういう関係なんですか、お二人」
「わかりません」
「わかりません、って」岸本は言った。「神崎さん、何か知りませんか」
「知りません。ただ、仲がいいことは知っています」
「仲がいい、ねえ」岸本は言った。「あの歩き方、仲がいいとかじゃない気がしますけど」
鶴田が小声で言った。
「なんか、長い付き合いの人たちの歩き方ですね」
「長い付き合い」岸本は繰り返した。「うまいこと言うな」
信号が変わった。
リアとソウは、気づかないまま通り過ぎた。
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三人で信号を渡った。
「声、かけなくてよかったんですか」と鶴田は言った。
「よかったと思います」とハルトは言った。
「なんで」
「二人の時間だと思ったので」
「神崎さんって、そういうとこありますよね」岸本は言った。「ちゃんと、見えてる」
「そうですか」
「はい。でも、自分のことは見えてないことがある気がします」岸本は言った。「今日の話もそうですけど」
「自分のことが見えていない、というのは」
「来週、ちゃんと話してきてください」岸本は言った。「それだけです」
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駅の前で別れた。
鶴田が言った。
「今日、一緒に食べられてよかったです」
「そうですか」
「はい。なんか、少し安心しました」
「安心、ですか」
「一人じゃないというか」鶴田は言った。「うまく言えないんですけど、こういう先輩がいるというのが、安心します」
岸本が笑った。
「私もそう思ってたよ、一年目」
「今は違うんですか」
「今も思ってます」岸本は言った。あっさりした言い方だった。「じゃあ、また明日」
「また明日」
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ハルトは一人になった。
今夜のことを頭の中に入れた。
たまたまの三人。岸本の「後悔しない方がいいと思うので」という言葉。鶴田の「大切な人ですか」という直接な質問。通りの向こうを歩くリアとソウの後ろ姿。鶴田の「長い付き合いの人たちの歩き方」という言葉。
全部、残った。
来週、土曜日。
川沿いのベンチ。
帰った。
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第四十四話 了




