「買収」
三月の第三週だった。
佐久間さんの審査は順調に進んでいた。
補記の内容に問題はなかった。先行技術との照合も完了していた。リアが審査記録をまとめ、登録完了の見通しが立ちつつあった。
早ければ、四月中に登録できる。
そういう空気が、第三審査室にあった。
---
水曜日の夜、十時過ぎだった。
ハルトはすでに帰宅していた。
スマートフォンが鳴った。
サクからだった。
「はい」
声が聞こえなかった。
少し待った。
息を吸う音がした。
「ハルトくん」
声が、いつもと違った。
「はい」
「会社が、買われる」
---
ハルトは少し間を置いた。
「買収ですか」
「うん」サクは言った。「今日の夕方、社長から全員呼ばれて。アルカナテックから買収提案が来ていて、受け入れることになったって」
「いつの話ですか」
「提案自体は、二週間前からあったらしい。社長は断ろうとしてたけど、条件が良くて、投資家側が賛成して。今日、正式に決まった」
「二週間前」
「うん」サクは言った。「私の申請が審査通りそうになった頃だと思う」
ハルトは頭の中で時系列を確認した。
補記の最終版が届いたのが二月末。照合作業が完了したのが三月第一週。登録完了の見通しが立ち始めたのが、三月第二週。
二週間前は、三月第一週だった。
「申請の審査状況を、アルカナテックが知っていた可能性があります」
「知ってたと思う」サクは言った。「たぶん、誰かが情報を流してた」
「サイエンスアークの内部から、ですか」
「うん」サクは少し間を置いた。「三谷くんだと思う」
「同僚ですか」
「うん。今日、社長室から出てきた三谷くんの顔を見て、わかった。説明できないけど、わかった」サクは言った。「後で本人に聞いたら、否定しなかった」
「否定しなかった」
「黙ってた。それが答えだと思った」
---
少し間があった。
「三谷くんが悪い人だとは思わない」サクは言った。「アルカナテックから声がかかって、断れなかっただけかもしれない。でも」
「でも」
「私の申請の情報を流してたのは、事実だから」
ハルトは何も言わなかった。
「買収が成立したら、私の申請はどうなるの」サクは言った。「サイエンスアークの申請は、アルカナテックのものになる?」
「会社ごと買収された場合、申請中の特許はその会社の資産として引き継がれます。買収後は、アルカナテックが申請の権利を持つことになります」
「私の研究が、アルカナテックのものになる」
「法的には、そうなります」
サクはしばらく黙っていた。
「そっか」
それだけだった。
---
「ハルトくん」とサクは言った。
「はい」
「怒っていいのかな、私」
「怒っていいと思います」
「なんか、怒る気力もなくて」サクは言った。「三谷くんのことも、アルカナテックのことも、怒れなくて。ただ、しんどくて」
「はい」
「二年間、ずっとやってきて。ようやく形になってきて。あと少しで登録できそうで」サクは言った。「それが、こういう形で終わるとは思ってなかった」
ハルトは何も言えなかった。
言える言葉が、見つからなかった。
「ごめん、こんな時間に電話して」サクは言った。
「いいえ」
「泣いてる、ちょっと」
「はい」
「かっこ悪いね」
「そんなことはないと思います」
サクは少し笑った気配がした。泣きながら笑っているような音だった。
「ハルトくんって、そういうとき、そういうこと言うんだよね」
「事実だと思っています」
「うん」サクは言った。「ありがとう」
---
電話が切れた。
ハルトは部屋の中で、しばらく動かなかった。
言える言葉が見つからなかった、ということが、頭の中に残った。
三十四万件を超える特許の記録がある。それでも、今夜の言葉は出てこなかった。
記憶の中に、サクの声が残った。
泣きながら笑っているような音が、他の記憶より大きかった。
---
翌朝、ハルトは早めに出勤した。
リアにすべて話した。
リアは最後まで黙って聞いた。
「買収が成立した場合、申請の権利はアルカナテックに移ります」ハルトは言った。「佐久間さんの研究が、アルカナテックの資産になります」
「はい」
「止める手段はありますか」
リアは少し間を置いた。
「佐久間さん個人が、申請の発明者として記録されていることは変わりません」リアは言った。「権利を持つのがアルカナテックになっても、発明者の記録は消えません」
「それだけですか」
「法的には、それだけです」リアは言った。静かな声だった。「買収は企業間の話です。MPBが介入できる範囲ではありません」
ハルトはデスクを見た。
「記録は残る。でも、権利は奪われる」
「はい」リアは言った。「それが、今の制度の限界です」
---
午後、ソウが来た。
会議室に三人で入った。
ハルトが経緯を説明した。ソウは腕を組んで聞いた。最後まで黙っていた。
「三谷という人間は、アルカナテックに取り込まれていたか」ソウは言った。
「本人は否定しませんでした」
「企業スパイとして動いていたとすれば、審査情報だけでなく、研究の進捗や技術の詳細も流れていた可能性がある」
「はい」
「アルカナテックは最初から、買収という選択肢を持っていたんだろう」ソウは言った。「直接特許を取れないなら、会社ごと買えばいい。申請が通りそうになったタイミングで動いた。計画的だ」
「止める方法はありましたか」とハルトは聞いた。
「内部に情報を流す人間がいた時点で、難しかった」ソウは言った。「お前が何かを間違えたわけじゃない」
ハルトは何も言わなかった。
「佐久間さんは、どうするつもりだ」
「聞いていません。昨夜の電話では、まだ何も決まっていないようでした」
「そうか」ソウは少し間を置いた。「あの子は、やめないと思うがな」
---
夕方、ハルトは窓口当番の引き継ぎを終えた。
デスクに戻ると、スマートフォンにメッセージが届いていた。
サクからだった。
「落ち着いた。昨夜はごめん。また連絡する」
ハルトは少し間を置いた。
返信した。
「大丈夫ですか」
すぐに返信が来た。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
ハルトはその文字を見た。
返す言葉を考えた。
少し考えて、送った。
「はい」
それだけだった。
それ以上の言葉は、見つからなかった。いや、必要ないと思った。
---
定時になった。
リアが帰り支度をしながら言った。
「神崎さん」
「はい」
「佐久間さんの発明者記録は、どんな形になっても残ります」リアは言った。「それは私が確認します」
「ありがとうございます」
「あなたが動いたことも、記録に残っています」リアは言った。「結果がどうであれ、それは消えません」
ハルトは頷いた。
「白銀主任」
「はい」
「制度の限界だとわかっていても、悔しいと思っていいですか」
リアは少し間を置いた。
「思っていいです」リアは言った。「私も、悔しいので」
それだけ言って、リアはエレベーターに向かった。
今日は振り返らなかった。
---
ハルトは一人、デスクに残った。
今日のことを頭の中に入れた。
買収の経緯。三谷という名前。申請の権利がアルカナテックに移ること。発明者の記録だけは残るというリアの言葉。「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」というサクの言葉。
全部、残った。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
コートを着た。帰った。
---
第四十話 了




