「二十三時間三十分の壁」
佐久間サクは、朝六時に起きる。
アラームより十分早く目が覚めることが多い。そういう朝は、たいてい夢の続きを考えている。夢ではなく、研究の続きを。
今日もそうだった。
天井を見ながら、昨夜の実験データを頭の中で追った。素子の第三配列、入力タイミング、変換後のロス。数字が浮かんだ。変わっていなかった。
二十三時間三十分。
三ヶ月、この壁が動かない。
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サイエンスアークの研究室は、ビルの五階にあった。
サクの机は窓際だった。窓から空が見えた。夏の空は青すぎて、見ていると目が痛くなった。
朝、出勤してすぐ実験装置の電源を入れた。ウォームアップに十五分かかる。その間にコーヒーを淹れた。
同僚の三谷コウが来た。二十五歳、魔力保有者、増幅系の研究担当だった。
「今日も早いね、サク」
「三谷くんも早い」
「俺は昨日泊まったから」三谷は言った。「増幅系の試作、やっと動いたんだよ。昨日の深夜に」
「おめでとう」
「ありがとう。サクの方は?」
「動いてない」
「まだ壁か」
「まだ」
三谷はコーヒーメーカーの前に立った。
「詰まってるとこ、どこ?」
「ロスを減らしたいんだけど、配列を変えてもロスの出方が変わるだけで総量が減らない」
「根本の問題か」三谷は言った。「俺には増幅系のことしかわからないけど、なんか手伝えることある?」
「今のとこ、ない。ありがとう」
「まあ、詰まったら言って」
三谷はコーヒーを持って自分の机に戻った。
サクは装置のウォームアップが終わった音を聞いた。コーヒーを持って机に戻った。
今日も始まる。
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昼休み、サクはスマートフォンを見た。
ハルトに連絡しようと思ったのは、その日の朝からだった。研究の話というより、話を聞いてもらいたかった。整理したかった。
ハルトに話すと、なぜか頭が整理される。
余計なことを言わないからだと思う。話を聞いて、事実を確認して、大事なことだけ返してくれる。アドバイスをしようとしない。解決しようとしない。ただ、聞く。
それが、サクには合っていた。
メッセージを送った。
「今日、時間ある? ちょっと相談したいことがあって」
三分後に返信が来た。
「午後からなら」
よかった、と思った。
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カフェで待っていると、ハルトが時間通りに来た。
毎回、時間通りだった。早くもなく、遅くもなく。それがハルトらしかった。
座って、注文して、少し話した。
研究の話をした。素子の配列、エネルギーのロス、三ヶ月動かない壁。技術的な話をしながら、サクはハルトの顔を見ていた。
ハルトは静かに聞いていた。
うんうんと頷かなかった。相槌もほとんど打たなかった。ただ、聞いていた。それなのに、ちゃんと聞いていることが伝わってきた。
不思議だとサクはいつも思う。
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「一つ確認していいですか」とハルトは言った。
「どうぞ」
「術式との接続点で、エネルギーを変換するタイミングは固定ですか」
サクは少し考えた。
「固定。毎回同じタイミングで変換してる」
「そこは変えられますか」
「理論上は変えられると思うけど、タイミングをずらすと術式への入力が不安定になりそうで、試したことない」
「一件、思い当たる特許があります」
ハルトが言った番号を、サクはメモした。六件、全部。番号と概要を、ハルトは淀みなく話した。読み上げているのではなく、頭の中にあるものをそのまま出しているのがわかった。
すごい、と思った。
ただすごいとは言いたくなかった。
ハルトが「記憶しているだけです」と言うことはわかっていたから。
だから別の言い方をした。
「ハルトくんって、こういうとき本当にすごいと思う」
案の定、「記憶しているだけです」と返ってきた。
サクは少し笑った。
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研究の話が一段落した後、もう一つ話した。
会社の話。方向性のずれ。優先度が低いと言われたこと。
話しながら、自分でも整理されていく感覚があった。
ハルトが聞いた。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「研究をやめようとは思っていませんか」
サクは即座に答えた。
「やめない。それは絶対にない」
言ってから、ああそうだと思った。そうだ、やめない。行き詰まっていても、会社との方向がずれていても、やめることは選択肢にない。
それを確認してくれたのがハルトだった。
一番大事なことだと思ったので、と言っていた。
そうだ、それが一番大事なことだった。
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カフェを出た後、サクは寄り道をした。
図書館に入った。
ハルトから教えてもらった特許番号を検索した。第十八万四千六百二十二号。制御系の特許だった。申請者は魔道具職人の個人名だった。
読んだ。
入力タイミングを動的に調整する仕組みが、丁寧に説明されていた。術式の状態を感知して、最適なタイミングで入力を行う補助機構。
サクは頭の中で自分の研究と重ねた。
エネルギーの変換タイミングを固定していた。なぜ固定していたかというと、ずらすと不安定になると思っていたからだ。でも、この特許のように感知機構を組み合わせれば、動的に調整しながら安定を保てるかもしれない。
頭の中で何かが動いた気がした。
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図書館を出たのは夜の七時だった。
残り五件の特許も全部読んだ。
直接使えるものは一件だけだったが、考え方の参考になるものが二件あった。
メモが三ページ増えていた。
スマートフォンを取り出した。ハルトにメッセージを送った。
「特許、読んだ。ひとつ、使えそうなのがあった。ありがとう」
すぐに返信が来た。
「よかったです」
それだけだった。
サクは少し笑った。
ハルトらしかった。
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翌週の月曜日、サクは実験装置の前に座った。
先週考えたことを試した。変換タイミングに感知機構を組み合わせる。理論上はできるはずだった。
最初の試みは失敗した。感知機構の反応速度が遅くて、かえって不安定になった。
二回目は感知の閾値を変えた。少し良くなったが、まだ不安定だった。
三回目、反応速度と閾値の両方を調整した。
変換後のロスを測定した。
二十三時間十五分。
十五分、縮んだ。
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三谷が顔を上げた。
「動いた?」
「少し」
「どのくらい」
「十五分」
「十五分か」三谷は言った。「突破口か?」
「わからない。でも、三ヶ月動かなかったのが動いた」
「それは突破口だよ」三谷は立ち上がった。「おめでとう」
「まだ一歩だけど」
「一歩が一番難しいんだよ。一歩出たら次は続く」
サクは装置のデータを見た。
二十三時間十五分。
まだ遠かった。一日が二十四時間で、一時間分のロスをなくすには、まだまだかかる。
でも、動いた。
三ヶ月止まっていたものが、動いた。
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昼休み、サクはハルトにメッセージを送った。
「壁、少し崩れたかも。十五分縮んだ」
返信は少し遅かった。昼の窓口対応中だったのかもしれない。
「よかったです。突破口ですね」
「そう思いたい。ありがとう、特許教えてくれて。ヒントになった」
「そのための記憶なので」
そのための記憶なので、か。
サクはその言葉を繰り返した。
ハルトは自分の記憶を、誰かのために使うものだと思っているんだろうか。そう思っているとしたら、少し切ないような、でも温かいような、不思議な感じがした。
いつか聞いてみようと思った。
直接は聞けない気がしたけれど、いつか。
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夕方、サクは今日のデータをまとめた。
感知機構の仕様、反応速度の設定値、ロスの変化。全部ノートに書いた。
書きながら、ハルトのことを考えた。
今日の突破口は、ハルトがいなければ見つけられなかったかもしれない。特許を教えてもらったからではなく、話しながら自分の問題を整理できたからだと思う。
ノートを閉じた。
窓の外はもう暗くなっていた。夏の夜は、まだ少し蒸し暑かった。
いつでも、か。
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第三十二話 了




