「七月のフロア」
七月になった。
新人三人が入庁して三ヶ月が経った。
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室田アオは、予想通り飲み込みが早かった。
最初の一ヶ月で審査の基本手順を覚えた。二ヶ月目から窓口対応に入った。
三ヶ月目には簡単な案件なら一人で審査を完結させていた。
ただ、判断が速い分、確認が甘くなることがあった。
先週、室田が一件の申請を受理しかけた。ハルトが止めた。
「この申請、第七分類の小項目三十二番と照合しましたか」
「していません」
「確認してください」
室田が確認した。類似する既存特許が一件あった。
「見落としていました」室田は言った。顔が少し青かった。
「見落としは誰にでもあります。ただ、受理した後で気づくより前で気づく方がいい」
「はい」
「照合の順番を変えてみてください。受理を判断する前に、必ず類似検索を終わらせる」
「わかりました」室田は言った。「神崎さんはどうやって全件照合するんですか。一件見るたびに全特許と比べるんですか」
「見た瞬間に、似ているものが頭に浮かびます」
「浮かぶ」
「似た構造のものが、自動的に」
室田は少し考えた。
「それは訓練でできるようになりますか」
「訓練と、経験だと思います。件数を読むほど、パターンが増えます」
「じゃあ、たくさん読みます」
「それがいいと思います」
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藤井ナツキは、想定より正確だった。
慎重な性格が審査に向いていた。一件にかける時間は三人の中で一番長かったが、ミスがほとんどなかった。
ただ、窓口対応が少し苦手だった。
申請者と話すとき、言葉が堅くなった。書類的な話し方になった。申請者が不安そうな顔をすることがあった。
ある日、藤井がハルトに聞いた。
「窓口で、申請者をうまく安心させるにはどうしたらいいですか」
「安心させようとしなくていいと思います」
「え」
「申請者が不安なのは、結果がわからないからです。結果を保証することはできません。だから、正確な情報を伝えることだけを考えればいいと思います」
「正確な情報を伝えれば、安心するということですか」
「するかどうかはわかりません。ただ、曖昧な安心より正確な情報の方が、申請者のためになります」
藤井は少し考えた。
「神崎さんって、窓口でそういう対応をしているんですか」
「そのつもりです」
「申請者に怒られることはないですか」
「あります」
「どうするんですか」
「怒っている理由を確認します。制度への不満なのか、私の説明が不足していたのかで、対応が変わります」
「制度への不満だったら」
「そうですと伝えます。私が変えられることではないので」
「割り切れるんですね」
「割り切っているというより、事実なので」
藤井は少し笑った。
「神崎さんの言い方って、最初は冷たいと思ったんですが、慣れてきたら一番わかりやすいとわかりました」
「そうですか」
「はい。余計なものが入っていないので」
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岸本リョウは、三人の中で一番ゆっくり慣れていった。
最初の二ヶ月は、何かを確認するたびにハルトのデスクに来た。
「この術式の分類、どこに入りますか」
「この申請者の方、もう少し詳しく説明を聞いた方がいいですか」
「先輩ならこの拒絶理由をどう書きますか」
ハルトはその都度、答えた。
三ヶ月目に入ったある日、岸本がデスクに来なかった。
午後になって、ハルトは気づいた。今日は一度も来ていない。
夕方、岸本が一件の審査を終えて報告書をリアに提出した。
リアが確認した。
「問題ありません」
岸本は少し安堵した顔をした。それからハルトを見た。
「今日、一件自分で終わらせました」
「はい」
「相談しないで、最後まで」
「気づきました」
「どうでしたか」とハルトは聞いた。
「時間がかかりました。三倍くらい」
「それでいいです。最初は時間がかかります」
「先輩は最初、どのくらいかかりましたか」
「同じくらいかかりました」
岸本は少し驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「記憶できても、判断は別の話です。判断は経験で速くなります」
「じゃあ、経験を積みます」岸本は言った。「ありがとうございます」
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七月の中旬、フロアが少し落ち着いた時間帯に、ソウが来た。
最近は月に二、三回来るようになっていた。用があるときもあったし、用がないときもあった。
「新人、どうだ」とソウは言った。
「慣れてきています」
「さっきの、非適合者の子か」
「岸本です」
「頑張ってるな」ソウは言った。「窓口で申請者に丁寧に説明してるのを見た。魔法庁の窓口より感じがいい」
「本人に伝えますか」
「お前が伝えてやれ」ソウはリアのデスクを見た。「リアは」
「打ち合わせで席を外しています」
「そうか」ソウは少し間を置いた。「最近、顔色どうだ」
「普通です」
「普通か」
「いつも通りです」
「いつも通りのリアか、それとも疲れてるのを隠してるリアかの話だ」
ハルトはリアの最近の様子を振り返った。朝の出勤時間、コーヒーを飲む回数、書類をめくるペース。
「少し疲れていると思います。新人研修と通常業務が重なっているので」
「そうだな」ソウは言った。「まあ、見といてやれ」
「神宮寺さんが気にかければいいと思いますが」
「俺が言うと素直に聞かないだろ」
「それはそうですが」
「お前が言う方がいい。あいつ、お前の言うことは聞く」
ハルトは少し考えた。
「そうですか」
「そうだ」ソウは立ち上がった。「じゃあな」
「はい」
「岸本に、よくやってると伝えておけ」
「わかりました」
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夕方、リアが打ち合わせから戻ってきた。
デスクに座った。コーヒーを淹れた。書類を開いた。
ハルトは少し間を置いてから、声をかけた。
「白銀主任」
「はい」
「今日、残業する予定はありますか」
「少しあります。なぜですか」
「無理をしていないかと思って」
リアは書類から顔を上げた。ハルトを見た。
「誰かに言われましたか」
「自分でそう思いました」
リアは少し間を置いた。
「神宮寺主任が来ていましたね」
「はい」
「何か言っていましたか」
「新人がよく頑張っていると言っていました」
リアはハルトを見た。少し、目が細くなった。
「それだけですか」
「それだけです」
リアはまた書類に視線を落とした。
「無理はしていません」
「そうですか」
「ただ」リアは言った。「少し、疲れているかもしれません」
「今日は早く上がってください」
「神崎さんに言われるとは思いませんでした」
「定時を過ぎたら上がっていいと思います。残りは明日でいいので」
リアは少し間を置いた。
「……わかりました」
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定時になった。
珍しく、リアが先に帰った。
新人三人も帰った。
フロアにハルトだけが残った。
一件、確認したいことがあった。再審査の案件が一つ、来週の期日に間に合うかどうかの確認だった。
三十分で終わった。
電気を消した。
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エレベーターを待ちながら、ハルトは今日のことを振り返った。
室田の照合漏れ。藤井の窓口対応の話。岸本が初めて一人で案件を完結させたこと。ソウが来たこと。リアが少し早く帰ったこと。
全部、頭の中に残っていた。
七月のフロアは、四月より少し違った。
悪くなかった。
エレベーターが来た。乗った。
帰った。
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第三十話 了




