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魔法特許庁ーーその魔法、違法ですーー  作者: にけ


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30/31

「四月、また始まる」

四月一日、月曜日。


ハルトは朝、いつもより十分早く出勤した。


理由は特になかった。ただ、なんとなく早く来たかった。


デスクに座った。コーヒーを淹れた。フロアを見渡した。


去年の今日、自分はこの場所に初めて来た。受付で名前を告げて、リアに案内されて、この席に座った。あの日のことは細部まで覚えていた。受付の職員の名前、廊下の蛍光灯の一本が少し暗かったこと、リアが最初に言った言葉。


「神崎ハルトさん、ですね。案内します」


それだけだった。余分なことを何も言わなかった。


一年経った。


---


九時になった。


新入職員が来た。


三人だった。


一人目は女性、二十二歳、魔法使い、属性は火系。名前は室田アオ。髪を短く切っていた。背筋が伸びていた。緊張した顔をしていた。


二人目は男性、二十二歳、魔力保有者、出力は低め。名前は藤井ナツキ。眼鏡をかけていた。少し猫背だった。書類を両手で持っていた。


三人目は男性、二十二歳、非適合者。名前は岸本リョウ。


説明会に来ていた、眼鏡の男性だった。


---


ハルトは岸本を見た。岸本もハルトを見た。


「来ました」と岸本は言った。


「はい」


「受かりました」


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」岸本は少し間を置いた。「特許、読みました。面白かったので」


「そうですか」


「先輩のアドバイス通りに」


「よかったです」


リアが三人の前に立った。


「おはようございます。今日から皆さんの指導を担当します、白銀リアです」リアは言った。「最初の一ヶ月は研修です。審査の基礎、データベースの使い方、窓口対応の手順を順番に覚えてもらいます」


三人が頷いた。


「質問はいつでもしてください。ただし、自分で調べてからにしてください」


室田アオが手を上げた。


「自分で調べた上で、それでもわからなかったら聞いていいということですか」


「はい」


「調べる手段がわからない場合は」


「その場合はすぐに聞いてください」リアは言った。「調べる手段がわからないまま時間を使うのは非効率です」


室田アオは頷いた。


「わかりました」


リアはハルトを見た。


「神崎さんには研修の補助をお願いします」


「はい」


---


午前中は座学だった。


MPBの歴史、魔法特許の定義、申請から登録までの流れ。リアが説明して、三人がメモを取った。


ハルトは横で補足説明を担当した。


「申請から審査完了までの標準的な期間は」とリアは三人に問いかけた。


藤井が手を挙げた。


「六ヶ月から八ヶ月、ですか」


「正確には、受理から一次審査完了まで六ヶ月が目安です。複雑な案件や異議申し立てが入った場合はそれ以上かかります」


「最長でどのくらいですか」とリアは言った。


三人が黙った。


ハルトは言った。


「記録上の最長は十四年です。術式の性質が当時の審査基準では判断できず、基準が改定されるまで保留になっていた案件です」


三人がハルトを見た。


「十四年」と室田が言った。「申請した人は待ち続けたんですか」


「はい。最終的には登録されました」


「その人は」


「登録通知が届いたとき、八十一歳だったと記録にあります」


室内が少し静かになった。


「記録にある、というのは」と岸本が言った。「全部覚えているんですか」


「はい」


「全件」


「はい」


岸本はしばらくハルトを見た。


「説明会のときも思いましたが、すごいですね」


「記憶しているだけです」


「それがすごいと言っています」


---


昼休み、三人が揃って食堂に行った。


ハルトはデスクでコーヒーを飲んでいた。


リアが戻ってきた。弁当を持っていた。デスクに座った。


「どうですか、三人」とハルトは聞いた。


「優秀だと思います。室田さんは反応が速い。藤井さんは慎重で正確。岸本さんは」リアは少し間を置いた。「あなたに似ています」


「似ている、というのは」


「質問が具体的です。曖昧なまま進もうとしない」


「そうですか」


「非適合者として、同じ立場から何か伝えてあげてください」リアは弁当を開けた。「私には言えないことがあると思うので」


ハルトは少し考えた。


「言えないこと、というのは」


「魔法がなくてもここでやれる、ということを、言葉ではなく存在で示せるのはあなただけです」


ハルトは何も言わなかった。


「余計なことを言いましたか」


「いいえ」


---


午後は実際のデータベースの操作を教えた。


ハルトが端末の前に座って、操作を実演しながら説明した。三人が後ろから見ていた。


「特許番号が分かっている場合はここに直接入力します。術式の分類から検索する場合はこのカテゴリを使います」


「カテゴリの数はいくつありますか」と藤井が聞いた。


「現在の分類体系では大分類が十二、中分類が八十七、小分類が四百三十二です」


「全部頭に入っているんですか」と室田が言った。


「はい」


「それは覚えようとして覚えたんですか」


「読んだら残ります」


「読んだら残る」室田は繰り返した。「それって、忘れたいものも忘れられないんですか」


少し直接的な質問だった。


ハルトは少し間を置いた。


「はい」


「大変じゃないですか」


「大変かどうか、よくわかりません。それ以外の状態を知らないので」


室田は少し考えた顔をした。


「そうか、比べられないんですね」


「はい」


「なんか、すみません。変な質問して」


「変ではありません。よく聞かれます」


---


夕方、岸本がハルトのデスクに来た。


「少し、いいですか」


「はい」


「非適合者として入庁して、困ったことはありましたか」


ハルトは少し考えた。


「最初は、魔法を使えないことで対応できない場面があるかと思っていました。ただ、実際にはそういう場面はほとんどありませんでした」


「ほとんど、ということは」


「一度だけ、建物の中で危険な状況になりました。そのときは魔法が使えないことで、できることが限られました」


「それで」


「できることをしました。それで間に合いました」


岸本はしばらく考えた。


「できることをした、か」


「はい」


「先輩は、魔法がなくてよかったと思うことはありますか」


予想していなかった質問だった。


ハルトは少し間を置いた。


「記録を読むとき、魔法がある人は感覚で理解しようとすることがあります。私は感覚が使えない分、全部記録から読みます。それが役に立った場面が、何度かありました」


「魔法がないから、記録に頼る。記録に頼るから、見えるものがある」


「そういうことだと思います」


岸本は頷いた。


「ありがとうございます。少し、楽になりました」


「何が不安でしたか」


「魔法がなくて、本当にやれるかどうかです。採用されても、現場で使い物にならなかったら、という」


「一年前、私も同じことを思っていました」


岸本はハルトを見た。


「思っていたんですか」


「はい」


「今は」


「今は、そう思っていません」


「なぜですか」


「やれていたので」


岸本は少し笑った。


「そういう答え方、好きです」


「そうですか」


「はい。余計なことを言わないので」


---


定時になった。


三人が帰った。


「お疲れ様でした」と岸本は言った。


「お疲れ様」とハルトは言った。


フロアが静かになった。


リアが書類を整理しながら言った。


「岸本さんと、長く話していましたね」


「少し聞かれたので」


「何を」


「非適合者として困ったことがあったか、と。それから、魔法がなくてよかったと思うことがあるか、と」


リアは手を止めた。


「なんと答えましたか」


「魔法がないから記録に頼る。記録に頼るから見えるものがある、と答えました」


リアはしばらく何も言わなかった。


それから、書類に視線を戻した。


「よかったです」とリアは言った。小さな声だった。


---


ハルトは帰り支度をしながら、一年前のことを思い出した。


あの日、この席に初めて座った。何もわからなかった。三十四万件の特許を頭に入れていたが、この場所で何ができるかは、全くわからなかった。


今は、少しわかっている。


記録を読むこと。記録の中に残っているものを取り出すこと。

それが、ここでできることだと。


岸本が一年後に、同じことを言えるといいと思った。


---


第二十九話 了

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