「十二月二十五日」
十二月二十五日、木曜日。
朝から雪がちらついていた。
ハルトは通常通りに出勤した。デスクに座った。コーヒーを飲んだ。
今日は通常業務だけだった。残業の予定はなかった。
それだけのことが、少し不思議な感じがした。
---
午前中、桐谷長官から正式な文書が届いた。
拒絶事例精査の最終報告に対する長官名義の書面だった。
内容は三点だった。
第一、十四件の再審査手続きを順次進める。第二、審査基準の見直し委員会を来年一月に設置する。第三、今回の精査作業を担当した職員の貢献を記録に残す。
リアがハルトに見せた。
「記録に残ります」
「はい」
「非適合者の職員が、制度の見直しに貢献したという記録が、MPBに残ります」
「仕事をしただけです」
「それでも、残ります」
リアは書面をファイルに入れた。それ以上は何も言わなかった。
---
昼前に、ソウから短いメッセージが来た。
「今日、早く帰れよ」
ハルトは返信した。
「そのつもりです」
「リアにも伝えといた」
「自分で言ったんですか」
「言った。珍しく素直に頷いてた」
ハルトはスマートフォンを置いた。
リアを横目で見た。リアは書類を読んでいた。いつも通りだった。
---
午後、一件だけ窓口対応があった。
二十代の女性だった。術式の申請だった。光系、補助型。簡単な確認で問題なく受理できた。
「ありがとうございます」女性は言った。「ずっと出そうか迷ってたんですけど、思い切って来てよかったです」
「何か懸念がありましたか」
「知り合いが昔、申請を出して弾かれたって聞いて。でも最近、ニュースで制度が変わるって聞いて、それで来てみました」
「来てよかったと思います」とハルトは言った。
「はい」女性は申請書を鞄にしまった。「よいお年を」
「よいお年を」
女性が帰った。
ハルトは受理票をファイルに入れた。
---
定時になった。
フロアの職員が帰り始めた。クリスマスだった。早く帰る人が多かった。
リアがコートを手に取った。
「今日はお疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
「予定があるんですか」とリアは聞いた。
「はい。夕食の約束があります」
「そうですか」リアは少し間を置いた。「よかった」
「白銀主任は」
「私も今日は早く上がります」
それだけ言って、リアはエレベーターに向かった。
---
ハルトも帰り支度をした。
コートを着た。マフラーを巻いた。窓の外を見た。雪はやんでいた。ただ、路面が少し濡れていた。
スマートフォンを確認した。サクからメッセージが来ていた。
「もうすぐ着く。先に改札前にいるね」
時刻は六時四十分だった。
ハルトはエレベーターに乗った。
---
駅前に着くと、サクはすでにいた。
コートは深い赤だった。マフラーは白。手袋をしていた。スマートフォンを見ていた。
ハルトが近づくと、顔を上げた。
「あ、来た」
「七時より早いです」
「私が早く着いただけ」サクは言った。「コート、新しい?」
「先月買いました」
「似合ってる」
「そうですか」
「そうですかって」サクは笑った。「行こう、寒い」
---
今日の店はいつもの定食屋ではなかった。
サクが予約していた。駅から五分ほどのイタリア料理の店だった。小さな店で、テーブルが六つしかなかった。窓際の席だった。外に小さなイルミネーションが見えた。
席に着いた。メニューを開いた。
「何にする?」とサクは言った。
「パスタにします」
「私もパスタ。あと、今日はワインでもいい?」
「はい」
「じゃあハーフボトルにしよう」
注文した。水が来た。
---
「お疲れ様」とサクは言った。グラスを上げた。
「ありがとうございます」ハルトもグラスを上げた。
「大変だったでしょ、二ヶ月」
「作業量はありましたが、面白かったです」
「面白かった?」
「記録を一件ずつ読むのは、面白かったです。それぞれ違う術式があって、それぞれ違う事情があって」
「何件あったの」
「二百十四件です」
「全部読んだの?」
「はい」
サクはワインを一口飲んだ。
「ハルトくんって、普通の人がしんどいと思うことを、面白いって言うよね」
「そうですか」
「そう。記憶力があるからかな。それとも、もともとそういう性格?」
ハルトは少し考えた。
「わかりません。ただ、記録を読むのは昔から好きでした。誰かが書いたものを追っていると、その人のことが少しわかる気がするので」
「記録を読むと、人がわかる」サクは繰り返した。「探偵みたい」
「探偵ではありません」
「雰囲気が、ね」サクは笑った。「魔法特許庁の探偵」
「審査官です」
「わかってる」
---
料理が来た。
パスタを食べながら、サクが言った。
「研究、また少し進んだよ」
「変換効率ですか」
「うん。二十三時間三十分になった。また十分縮んだ」
「一ヶ月で十分、ですね」
「遅い?」
「いいえ。着実に進んでいます」
「着実、か」サクはフォークを動かした。「ハルトくんに言われると、なんか励まされた気がする」
「励ましたつもりではなかったですが」
「わかってる。でも、そういうところがいいんだよ」
ハルトはサクを見た。サクはパスタを食べていた。
「そういうところ、というのは」
「嘘をつかないところ」サクは言った。「褒めようとして言ったんじゃなくて、本当にそう思ったから言ってくれてるって、わかるから」
ハルトは何も言わなかった。
「嫌だった?」
「いいえ」
「よかった」サクは少し笑った。「ワイン、もう少し飲む?」
「いただきます」
---
食事が終わった。
デザートのパンナコッタを食べながら、サクが言った。
「ハルトくんって、クリスマス、毎年どうしてたの」
「特に何もしていませんでした」
「一人で?」
「はい。本を読んでいたか、データの整理をしていたか」
「寂しくなかった?」
ハルトは少し考えた。
「寂しい、という感覚があまりよくわかりません。一人でいることが普通だったので」
「普通だった」
「はい」
サクはパンナコッタを一口食べた。
「今日は?」
「今日は」ハルトは少し間を置いた。「普通ではないです」
「普通じゃない、か」サクは窓の外を見た。
イルミネーションが揺れていた。「それって、どういう意味?」
「楽しい、ということだと思います」
サクは窓の外を見たまま、少し笑った。
「ありがとう」
「何がですか」
「言ってくれて」
「事実なので」
サクはハルトを見た。
「ハルトくんって、大事なことをさらっと言うよね」
「大事なことかどうかは、わかりませんでした」
「大事なこと」サクは言った。「私には、大事なこと」
---
店を出た。
夜の空気が冷たかった。
駅に向かって歩いた。二人並んで歩いた。肩の距離が、いつもより少し近かった。ハルトは気づいていたが、何も言わなかった。
「来年も忙しい?」とサクは言った。
「再審査が十四件あります。委員会も始まります。忙しいと思います」
「そっか」
「サクさんの研究は来年どうなりますか」
「もう少し効率が上がったら、試作品を作ってみようと思ってる。まだ先だけど」
「試作品ができたら、教えてください」
「もちろん」サクは言った。「ハルトくんに最初に見せる。ずっとそう言ってるから」
「覚えています」
「覚えてるよね、何でも」サクは笑った。「じゃあ、ちゃんと来てよ。試作品ができたとき」
「行きます」
「約束ね」
「約束します」
---
改札の前で止まった。
「今日、ありがとう」とハルトは言った。
「こちらこそ」サクは言った。「お疲れ様、本当に。二ヶ月間」
「誘ってくれてよかったです」
サクは少し間を置いた。
「誘ってよかった」サクは言った。静かな声だった。「ほんとに、誘ってよかった」
手を振った。改札を抜けた。
今日は振り返った。
少し、笑っていた。
---
ハルトは改札前に立っていた。
冷たい夜の空気だった。イルミネーションが遠くに見えた。
今日一日のことを頭の中で整理した。
長官からの書面。
窓口に来た女性の「来てよかったです」という言葉。
リアの「よかった」という一言。
サクの「大事なこと」という言葉。
全部、頭の中に残っていた。
改札を抜けた。
帰った。
---
第二十六話 了




