「十一月の残業」
作業を始めて三週間が経った。
十一月になっていた。
ハルトは毎朝、通常業務が始まる前に一時間、拒絶事例のファイルを開いた。昼休みに三十分。夕方の業務終了後に一時間から二時間。それが日課になっていた。
対象は補助式の形式を拒絶理由に含む案件、二百十四件。一件ずつ、核心技術と拒絶理由の整合性を確認していた。
現在、九十一件を終えた。
そのうち、拒絶理由が弱かった可能性のある案件が、十七件あった。
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リアが毎週月曜日に進捗を確認した。
「今週は何件進みましたか」
「十四件です。累計九十一件」
「拒絶理由が弱かった可能性のある案件は」
「十七件です。先週から四件増えました」
リアは手元のノートに書き留めた。
「ペースは落ちていませんか」
「問題ありません」
「残業が続いています」
「作業量があるので」
「無理をしていると言ってください、と言ったはずです」
「無理はしていません」
リアはハルトを見た。ハルトは書類を見ていた。
「……わかりました」
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十一月の中旬、最初の発覚が報告書としてまとまった。
拒絶理由が弱かった可能性のある案件、確認済み分で二十三件。そのうち、明確に不適切な拒絶と判断できるものが九件。
リアが桐谷長官に中間報告を送った。
翌日、長官室から返信が来た。
「確認を継続してください。九件の再審査手続きを並行して進めます」
フロアに緊張が走った。
九件の再審査が始まるということは、九件分の申請者への連絡が必要になる。三年前、五年前、長いものでは八年前に拒絶された申請者への連絡。
MPBが自ら連絡を取るのは、異例のことだった。
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十一月下旬、フロアが本格的に忙しくなった。
再審査の手続きが並行して動き始めた。申請者への連絡文書の作成、再審査の日程調整、過去の審査担当者への照会。通常業務に加えて、それらが積み重なった。
電話が増えた。問い合わせが増えた。
「九件の再審査が始まると聞いたのですが、私の案件は関係しますか」
「過去の拒絶事例を見直しているというのは本当ですか」
受付が対応に追われた。
リアが対応マニュアルを作った。ハルトが内容を確認した。問い合わせの文言を整理した。
夜、フロアに残っているのはリアとハルトだけになることが増えた。
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十二月に入った。
ある夜、ハルトが残業していると、スマートフォンが鳴った。
サクだった。
ハルトはスマートフォンを見た。今は二十一時十分だった。出た。
「もしもし」
「あ、出た」サクの声だった。「今、仕事中?」
「残業中です」
「また? 最近ずっとそうじゃない」
「少し立て込んでいます」
「今、電話大丈夫?」
「少しなら」
「ニュースで見たよ。MPBが過去の拒絶事例を見直してるって」
「はい」
「ハルトくんが関係してる?」
「少し」
「少しって声じゃないと思うけど」サクは言った。「まあいいや。それで、少し聞きたいことがあって」
「はい」
サクが少し間を置いた。
「クリスマス、予定ある?」
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ハルトはデスクの上のファイルを見た。
確認済み案件、百六十三件。残り五十一件。
「クリスマスは」ハルトは手帳を開いた。「二十五日が木曜日です」
「そう。夜、空いてたら一緒にご飯どうかなって」
「少し待ってください」
ハルトは手帳を確認した。十二月二十五日。特に予定はなかった。ただ、作業の進捗次第では残業になる可能性があった。
「作業が終わっていれば、行けると思います」
「作業って、どのくらいで終わりそう?」
「現在のペースだと、二十日前後には終わる見込みです」
「じゃあ行けそうじゃない」
「終わっていれば」
「ハルトくんってさ」サクは言った。「もう少し素直に『行く』って言えない?」
「不確定要素があるので」
「確定したら連絡して」
「わかりました」
「絶対に連絡してよ」
「はい」
電話が切れた。
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ハルトはスマートフォンを置いた。
手帳の十二月二十五日を見た。何も書いていなかった。
ペンを取った。
「サク、夕食」と書いた。
それからファイルを開いた。作業を再開した。
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翌日の昼休み、ソウが四階に来た。
用があるときにふらりと来るのが、最近の習慣になっていた。
「神崎、飯行かないか」
「今日は残業分を昼に補填しています」
「補填って、飯も食わないのか」
「サンドイッチを食べながら作業しています」
ソウはハルトのデスクを見た。ファイルが積まれていた。手帳が開いていた。
「相変わらず忙しそうだな」ソウはデスクの横に立った。「ちらっと見えたけど、手帳に『サク、夕食』って書いてあったぞ」
「はい」
「クリスマスか」
「はい」
「誘ったのか?」
「誘われました」
「……お前、クリスマスに誘われたことわかってるか」
「夕食の約束だと思います」
ソウはしばらくハルトを見た。
「お前はわかってて言ってるのか、本当にわかってないのか、たまに判断できないな」
「夕食の約束です」
「まあいい」ソウは言った。「で、行くのか」
「作業が終われば」
「終わるんだろ、二十日には」
「見込みです」
「見込みなら終わるだろ。行けよ」ソウはリアのデスクを横目に見た。「リアにも作業終わったら早く帰れって言っといてくれ」
「なぜ自分で言わないんですか」
「俺が言うと素直に帰らないから」
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十二月十九日、木曜日。
ハルトは最後のファイルを閉じた。
二百十四件、全件確認完了。
拒絶理由が弱かった可能性のある案件、三十一件。そのうち明確に不適切な拒絶と判断できるもの、十四件。
リアに報告した。
「全件、終わりました」
リアは手を止めた。ハルトを見た。
「確認済み二百十四件、全件終了です。最終的な集計は、拒絶理由が弱かった可能性のある案件が三十一件、明確に不適切な拒絶が十四件です」
「十四件」リアは繰り返した。「中間報告の九件から、五件増えましたね」
「はい。後半にも同様のパターンが含まれていました」
リアは少し目を閉じた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
「報告書を長官に送ります。今日中に」
「手伝います」
「いいえ」リアは言った。「今日は私がやります。神崎さんは上がってください」
「まだ六時です」
「作業が終わったので、上がってください」
ハルトは少し間を置いた。
「わかりました」
帰り支度を始めた。コートを取った。
「神崎さん」リアが言った。
「はい」
「よくやってくれました」
振り返らずに言った。書類を手に取りながら、静かに言った。
「ありがとうございます」とハルトは言った。
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エレベーターを待ちながら、ハルトはスマートフォンを取り出した。
サクにメッセージを送った。
「作業が終わりました。二十五日、行けます」
三分後に返信が来た。
「やった! じゃあ七時に駅前で。いつもの改札ね」
それから少し間があって、もう一つメッセージが来た。
「お疲れ様。ゆっくり休んでね」
ハルトはメッセージを見た。
エレベーターが来た。乗った。
十二月の夜の空気は冷たかった。
少し早足で歩いた。
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第二十五話 了




