「水の中に、石を置く」
その日の午後、審査補助係に回ってきた業務連絡は一行だった。
——現地確認に同行すること。担当、白銀リア。
ハルトは連絡票を読んだ。もう一度読んだ。
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廊下でリアに声をかけると、彼女は書類を抱えたまま歩き続けた。
「ついてきてください」
「現地確認に補助係が同行するのは」
「人手が足りないので」
「審査官が一人いれば通常は」
「神崎さん」
リアが足を止めた。こちらを見た。
「文句ですか」
「いいえ」
「では来てください」
また歩き始めた。ハルトはその後に続いた。
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現地は庁舎から電車で四十分、郊外の倉庫街だった。
申請者は中堅の建設会社で、現場担当の男性が二人待っていた。二人とも左手首に腕輪をつけていた。申請内容は構造診断魔法——建物の内部構造を非破壊で確認できる術式だ。建設現場での安全確認に使いたいという申請だった。
「では、実演をお願いします」
リアが言うと、担当者の一人が腕輪に手を添えた。倉庫の壁に向かって立ち、目を閉じた。
三秒後、壁の表面に薄い光の膜が広がった。青白い光だった。光の中に、壁の内部構造が透けて見え始めた。鉄骨の位置、配管の経路、コンクリートの厚み。
「内部の異常箇所を検出できます」担当者が言った。「この倉庫ですと、北側の壁に微細なひび割れが三箇所」
リアが確認票に記入した。
「では、審査官側で確認します」
彼女は腕輪に指を触れた。目を閉じた。
光が広がった。リアの術式はより精緻だった。担当者の光が青白いとすれば、リアのそれは透明に近かった。壁の構造が、より細かく浮かび上がった。
「ひび割れ、三箇所確認しました。位置も一致しています」
担当者が頷いた。
ハルトは確認票の写しを持ったまま、その場に立っていた。
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問題が起きたのは、次の確認項目に移ったときだった。
倉庫の二階部分、床面の強度確認。担当者が術式を展開しようとして、止まった。
「あの……この区画、機材が多くて術式の通りが悪いんです。光が濁るというか」
「精度が落ちますか」とリアが聞いた。
「はい。別の術式なら通るんですが、それだと出力が強い魔法使いでないと展開できなくて」
リアが確認票を見た。次の現場の予約時刻を確認するような目だった。
「術式の流れを絞って展開します。対象だけを読む形に組み直せば、周囲への影響は最小限になります」
「できますか」
「やります」
担当者が安堵した顔をした。
ハルトは確認票を持ったまま、一歩後ろに下がった。
自分にできることが、ない。
リアが床に向かって術式を展開する間、ハルトは倉庫の隅に立って、ペンを持っていた。蛍光灯の光が、リアの腕輪に反射していた。
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確認が終わりかけたとき、外が騒がしくなった。
担当者の一人が無線を受けた。顔色が変わった。
「隣の棟で崩落が——」
全員が走った。
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隣の棟は古い倉庫だった。入口付近の天井の一部が落ちていた。粉塵が漂っていた。倉庫の奥に、作業員が一人取り残されていた。瓦礫が足元を塞いでいた。
「動けますか」とリアが叫んだ。
「足が……挟まれて」
リアは腕輪に触れた。止まった。
「駄目です。構造が不安定すぎる。術式を流すと連鎖で崩れる」
「人力では」と担当者が言った。「重すぎて」
誰も動けなかった。作業員が低く呻いた。
ハルトは入口から奥を見ていた。
天井の状態。瓦礫の積み重なり方。作業員の体の向き。足が挟まれている角度。荷重がかかっている方向。
一歩、前に出た。もう一歩、前に出た。
「白銀主任」
静かな声だった。それでも全員が振り向いた。
ハルトは瓦礫の左端を指差した。
「あそこを、三十センチだけ持ち上げれば足が抜けます」
リアが瓦礫を見た。一秒。二秒。
「……範囲を絞れば連鎖崩落のリスクは下がります。ただ、精密に制御するには私一人では」
「補助できる魔法使いがもう一人いれば」
「いれば、できます」
全員が顔を見合わせた。
そのとき、入口から声がした。
「何かあったんですか」
振り返ると、中年の男が立っていた。作業着、左手首に腕輪。騒ぎを聞きつけてきたようだった。
「魔法、使えますか」とハルトは言った。
「え、まあ、力系なら——」
「お願いします。やり方を説明します」
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男の名前は、田辺修一だった。
リアが田辺に術式の補助方法を短く説明した。ハルトは二人の立ち位置を指示した。瓦礫の左端から三十センチの範囲を、二人で挟むように。
「いきます」とリアが言った。
二つの光が重なった。リアの透明に近い光と、田辺の白い光が、瓦礫の一点に集まった。
コンクリートが、ゆっくりと持ち上がった。三十センチ。それだけでよかった。
「今です」とハルトは言った。
担当者二人が作業員の腕を引いた。足が抜けた。
瓦礫が元の位置に戻った。埃が舞った。
作業員が咳をしながら、「ありがとうございます」と言った。
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救急車が来るまでの間、ハルトは倉庫の外に出た。
夕方の光が、建物の影を長く伸ばしていた。
田辺が隣に来た。腕輪を撫でながら言った。
「あの兄ちゃん、あんた指示うまいね。魔法使いじゃないのに」
「観察していただけです」
「観察ね」田辺は笑った。「でも助かったよ。俺一人じゃ何もできなかった」
田辺は自分の棟に戻っていった。
ハルトは夕空を見た。
瓦礫が持ち上がる瞬間、光が重なった瞬間を、もう一度頭の中で再生した。リアの透明な光と、田辺の白い光。自分には出せない光。
使えたら、と思った。
すぐに、考えても仕方ない、と思った。
いつもそう思う場所に、また戻ってきた。
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帰りの電車の中で、リアが言った。
「さっきの指示。よく見えていましたね」
「構造を確認していました。記録係だったので、見る時間がありました」
「魔法が使えないから、見ていた」
「はい」
リアは窓の外を見た。夜になりかけた街が流れていった。
「一つ聞いていいですか」とハルトは言った。
「何ですか」
「魔法を使うとき、どんな感じがしますか」
リアは少し黙った。
「感じ、というのは」
「術式を展開するときの、感覚です。何か手触りのようなものがありますか」
リアは窓の外を見たまま言った。
「あります。空気の密度が変わる感じです。自分の周囲の空間が、少し重くなる」
「重く」
「押し返してくるような感触があって、そこに術式を通す。川に石を投げるのとは違う。石を、水の中に置く感じです」
ハルトは聞いていた。
「うまく説明できないですが」とリアは続けた。「そういうものです」
「ありがとうございます」
リアはまた窓の外に視線を戻した。
ハルトも窓の外を見た。水の中に石を置く。
一度も感じたことのない感触を、頭の中で想像した。
想像しても、形にならなかった。
電車が揺れた。
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第二話 了




