「基準」
朝、実家を出るとき、母が弁当を持たせた。
「研究室って、お昼あるの?」
「コンビニならある」
「じゃあ、これ」
断る理由が、なかった。
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研究の新しい拠点は、大学の共同研究棟に決まっていた。
MPBから、二駅。
装置の治験と、登録の実務を考えれば、これ以上の場所はなかった。
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昼前に、空港からの車が着いた。
エマだった。
スーツケースが、二つ。
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「遠かった」エマは言った。「頭の半分が、まだ太平洋の上にいる」
「私も、先週までそうだった」サクは言った。
「日本、暑いね」
「八月だから」
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エマは、研究室を、ひと回り見た。
機材は、まだ半分も入っていなかった。
でも、窓が大きくて、明るかった。
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「山の施設より、いいね」エマは言った。「隠れてる感じが、しない」
「うん」サクは言った。「もう、隠れないから」
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午後、機材の搬入の合間に、エマが、不意に言った。
「サク。決めたことがある」
手に、データケースを持っていた。
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「私のデータ、公開する」
サクは、手を止めた。
「全部?」
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「全部」エマは言った。「装置なしの発動記録。三分間の、全部」
「公開したら、注目が、全部エマに来るよ」サクは言った。「世界初の、装置なし発動者として」
「わかってる」
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エマは、データケースを、机に置いた。
「父はね、全部、断って、一人で持ってた」エマは言った。
「危ないものだと思ったから。誰かに渡したら、奪い合いになるって」
「うん」
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「でも、一人で持ってたから、狙われた」エマは言った。
「隠すことが、一番危なかった」
「だから、逆にする。記録にして、みんなに持たせる」
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「みんなが持ってるものは、奪えないから」
サクは、エマの顔を見た。
迷いの残っていない顔だった。
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「発表の形式、どうする」サクは言った。
「論文と、登録」エマは言った。「MPBの関連記録に、正式に紐づける。あなたの申請の、続きとして」
「……いいの? 私の記録の続きで」
「そこが、一番安全な場所でしょ」エマは言った。「あの審査官、記録を絶対に消さないから」
サクは、笑った。
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夕方、アルカナテックの桐島社長と、初めての電話会議をした。
量産設計の、打診だった。
「率直に伺います」桐島は言った。「量産の設計、うちにやらせていただけますか」
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「条件があります」サクは言った。「研究の主導権は、こちらにあります。仕様の最終決定権も」
「構いません」桐島は言った。
「即答ですね」
「市場は、あなたの後ろにしかないので」桐島は言った。「それに、私は言ったはずです。営利目的ですが、革命に携わりたい」
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「もう一つ」サクは言った。「価格です。装置は、高級品にしません」
「利幅は薄く、数は多く、ですか」
「魔法を、線のこっち側だけのものにしないためです」
電話の向こうで、桐島が少し笑うのが、わかった。
「その言葉、どこかのNPOの設立趣意書で、読みましたよ」桐島は言った。
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夜、ハルトくんが、研究棟に寄った。
窓口の帰りだった。
机の上に、書類を広げた。
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「事前相談の、続きです」ハルトくんは言った。「実用化登録には、『実用レベル』の定義が要ります」
「定義」
「様式の、この欄です」ハルトくんは言った。「基準値を、数字で書きます」
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サクは、その欄を見た。
空欄が、静かに、こちらを見ていた。
「どう書けばいいと思う?」サクは言った。
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「先例に倣うのが、審査上は最短です」ハルトくんは言った。
「先例って、あるの? 装置の実用化なんて」
「一件だけ、参考記録があります」ハルトくんは言った。
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サクは、少し考えて、気づいた。
「……あなたの二分?」
「はい」ハルトくんは言った。「非適合者が、基本術式を、二分以上、安定して発動する。これを基準に書けば、審査で通ります」
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サクは、ペンを持った。
書く前に、一度、ハルトくんを見た。
「基準値、あなたなんだけど」サクは言った。
「はい」
「治験で、みんなが超えるべき壁が、あなたの記録なんだけど」
「私は、超えられますか」ハルトくんは言った。
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サクは、笑った。
「超えさせる」サクは言った。「それが、実用化だから」
「はい」
「あの日の二分を、誰でも出せる二分にする」サクは言った。「そうしたら――」
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サクは、ペンを置いて、言った。
「約束の話、していい?」
「はい」
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「実用レベルになったら、最初に使わせて、って言ったよね。ずっと前」
「言われました」ハルトくんは言った。「覚えています」
「基準も、あなた。約束の相手も、あなた」サクは言った。「全部、あなたになっちゃった」
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ハルトくんは、少しの間、黙った。
「では、私が最初に超えれば」ハルトくんは言った。「基準として、正しいことになります」
「そういうこと」サクは言った。「第一号使用者の欄、空けておくから」
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ハルトくんが帰ったあと、サクは、様式の欄を埋めた。
「実用レベルの定義:非適合者が基本術式を二分以上、安定して発動できること」
数字の後ろに、あの日の実験室が、見えた気がした。
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サクは、自分のノートを、開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に書いた。
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「エマが、日本に来た。研究室が、また二人になった」
「エマが決めた。データを全部、公開する。『記録にして、みんなに持たせる』と」
「桐島社長と、量産の話。主導権は渡さない。装置は、高級品にしない」
「実用レベルの定義を、書いた。基準は、あの二分」
「約束の相手も、基準も、同じ人になった」
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五行、書いた。
ペンを置いた。
五行目を、もう一度、読んだ。
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窓の外を、見た。
星は、あまり見えなかった。
街の明かりが、多すぎるからだった。
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山の施設では、毎晩、星を見て、想像していた。
日本は、もう夜だろう、って。
今は、その夜の、真ん中にいた。
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想像は、もう、いらなかった。
明日の朝が、代わりにあった。
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明かりを消した。
ベッドに入った。
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第百七十四話 了




