「普通」
役員会の日が、また来た。
三度目だった。
机の上に、小委員会の答申があった。
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条文の本体は、変わらずに残っていた。
「区分(適合者・非適合者の別)は、記録として残すが、術式使用の資格判定の要件としない」
一字も、削られていなかった。
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代わりに、附帯事項が、三つついていた。
移行期間を、半年置くこと。
装置関連の登録を、義務化すること。
そして、申請様式の区分欄は、当面、残すこと。
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「欄を残すことに、こだわりましたね」リアは言った。
「はい」ハルトは言った。「向こうの、最後の持ち帰りが、それでした」
「いいんですか」
「いいんです」ハルトは言った。「記録は、残すものなので」
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役員会が、始まった。
答申の説明。質疑。
質疑は、短かった。
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聞くべきことは、小委員会で、聞き尽くされていた。
世界も、この数か月で、変わっていた。
制裁。研究の加速。増え続ける申請の予告。
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業界団体出身の役員が、最後に、一言だけ言った。
「欄は、残していただいた」
「はい」ハルトは言った。「記録として、残ります」
役員は、それ以上、何も言わなかった。
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古株の役員が、口を開いた。
「一つだけ、言っておく」
会議室が、役員を見た。
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「今日のこれは、先例になる」役員は言った。
「五十年後の誰かが、今日の議事録に、当たる日が来る」
「そのとき恥ずかしくない審議だったかどうかだけが、私の関心だ」
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議長が、採決を告げた。
「新条文の制定に、異議のある方」
手は、上がらなかった。
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「可決とする」議長は言った。
それだけだった。
拍手は、なかった。
誰も、立ち上がらなかった。
書記が、議事録に一行、書いた。
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廊下で、リアと歩いた。
「終わりましたね」リアは言った。
「始まりました」ハルトは言った。「施行の実務が」
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リアは、少し笑ったように見えた。
それから、前を向いたまま、言った。
「いつか、あなたが言った通りになりましたね」
「区分は残る。でも、機能しなくなればいい、と」
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「はい」ハルトは言った。
「言葉が、条文になるまで」リアは言った。「何件の記録が要ったか、数えましたか」
「数えていません」ハルトは言った。「でも、全部、残っています」
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施行日は、二週間後と決まった。
その二週間、ハルトは、実務に沈んだ。
審査フローの改定。様式の改定。各窓口への通達。
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チェックリストから、一つの項目を消す作業に、一番、時間がかかった。
「適合性の確認」
三十年、フローの二番目にあった項目だった。
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消すのは、一行だ。
でも、その一行に、研修資料が、システムが、慣習が、ぶら下がっていた。
一つずつ、外した。
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施行日の朝が、来た。
庁舎は、いつも通りだった。
垂れ幕も、式典も、なかった。
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ハルトは、窓口に立った。
隣に、三島がいた。
今日から、受理も担当する。
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午前十時過ぎ、最初の一件が来た。
三十代の男性。装置関連の、術式登録の相談だった。
「先日の報道を見て」男性は言った。「自分でも、登録できるのかと思って」
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三島が、新しい様式を出した。
男性が、書いた。
区分欄に、男性は「非適合」と書いた。
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三島は、書類を受け取った。
チェックリストを、上から、確認していった。
二番目にあった項目は、もう、なかった。
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記載の確認。添付の確認。手数料の案内。
「受理しました」三島は言った。「審査結果は、後日、通知されます」
「それだけですか」男性は言った。
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「それだけです」三島は言った。
男性は、少し、拍子抜けした顔をした。
「もっと、いろいろ聞かれるのかと」男性は言った。「使えるのか、とか。適合してるのか、とか」
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「様式に書かれたことが、全部です」三島は言った。
男性は、控えを受け取って、帰っていった。
軽い足取りだった。
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三島が、ハルトを見た。
「神崎主任」三島は言った。「今の、一件目ですよね。新様式の」
「はい」
「……なんか、普通でしたね」三島は言った。
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「はい」ハルトは言った。「普通です」
「もっと、こう、歴史的な感じになるのかと思ってました」
「普通にするために、やってきたので」ハルトは言った。
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三島は、少しの間、受理印を見ていた。
「そうか」三島は言った。「普通が、ゴールだったんですね」
「はい」ハルトは言った。「普通は、強いんです。誰も、普通とは戦えないので」
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午後も、窓口は、普通だった。
申請が、三件。相談が、二件。
そのうち二件が、非適合者だった。
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「使えるようになりますか」という問い合わせは、今日は、なかった。
代わりに、「登録したいのですが」が、二件あった。
問いの形が、変わり始めていた。
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夜、八時過ぎ。
ハルトは、電話をかけた。
三回目の呼び出しで、つながった。
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「もしもし」サクの声が言った。
「可決の日の話、しましたっけ」ハルトは言った。
「してない。でも、知ってる」サクは言った。「登録状況、毎日見てるから」
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「今日、施行でした」
「知ってる」サクは言った。「新様式の画像も、公開されてた。区分欄、残ってたね」
「残しました」ハルトは言った。
「うん」サクは言った。「あれで、いいと思う。消したら、忘れるから」
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少し話して、電話を切った。
つながる電話に、まだ、慣れていなかった。
慣れていないことが、嬉しかった。
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ハルトは、ノートを開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に書いた。
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「新条文、可決。そして今日、施行。『区分は記録として残すが、資格判定の要件としない』」
「向こうは欄を残した。構わない。記録は、残すものなので」
「古株の役員が『今日のこれは、先例になる』と。五十年後の誰かの話をしていた」
「窓口で、三島が新様式の一件目を受理した。何も、起きなかった」
「『使えますか』が減って、『登録したい』が来た。問いの形が、変わり始めた」
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五行、書いた。
ペンを置いた。
四行目を、もう一度、読んだ。
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今日のことを頭の中に入れた。
上がらなかった手。書記の一行。
チェックリストから消えた、二番目の項目。
男性の拍子抜けした顔。
三島の「普通が、ゴールだったんですね」という言葉。
「登録したいのですが」という二件。
全部、残った。
歴史が変わる日は、静かな窓口の形をしていた。
事件は、何も起きなかった。
何も起きないために、ここまで来た。
窓の外に、七月の夜があった。
月が、細かった。
寝た。
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第百七十二話 了




