「署名」
夜、ノートを読み返していた。
ここ数か月の頁を、順に、めくった。
役員会。先例。条文。提供。供述。測定。
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頁をめくる手が、途中で、止まった。
書いていない言葉が、一つだけ、あることに気づいた。
ノートのどこにもない。頭の中にだけ、ある言葉。
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「君は、どうする」
あの日、記録を禁じられて、口頭だけで受け取った問い。
ずっと、持ち歩いてきた。
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ハルトは、ノートを閉じた。
答える材料は、揃っていた。
揃ったことに、今夜、気づいた。
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翌朝、リアに、時間をもらった。
「コール大統領に、回答を送ります」ハルトは言った。
リアは、少しの間、ハルトを見た。
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「あの、口頭の伝言への、ですか」
「はい」
「私信ですか。公文書ですか」リアは言った。
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「どちらでもありません」ハルトは言った。「署名入りの、記録です」
「記録」
「向こうは、記録に残さない形で、問いを寄越しました」ハルトは言った。
「こちらは、記録そのもので、答えます」
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リアは、頷いた。
「送り方は」
「デイヴィッドさんに、頼みます。問いと、同じ道です」
「わかりました」リアは言った。「読ませてもらえますか。送る前に」
「はい」ハルトは言った。「秘密は、一つも入れないので」
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その日から、三日かけて、束を編んだ。
入れるものは、最初から決めていた。
公開できる記録だけ。全部、台帳にあるものだけ。
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一つ。自分の発動記録。風系基本術式第三号。持続二分。
一つ。片岡の応答記録。本人の同意の範囲で。
一つ。問い合わせの集計。百三十五件。日付つき。
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一つ。役員会の議事録の写し。廃案動議の否決まで。
一つ。古い台帳の先例。「適合性の記載なし。術式の発動が記録により確認されたため、登録を認める」
一つ。新条文案。「区分は記録として残すが、術式使用の資格判定の要件としない」
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一つ。記録提供の様式。機関から機関へ、研究の記録が渡った、新しい先例。
一つ。サクの論文の、公開されている部分。
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八つの記録を、日付の順に、並べた。
並べてみると、それは、この数か月の物語だった。
物語だが、一行も、物語として書かれていなかった。
全部、事務の文字だった。
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最後に、一枚の紙を、上に置いた。
回答の本文だった。
長くは、書かなかった。
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「以下の記録を、お送りします。すべて、公開されているか、公開の手続きが済んでいるものです」
「私は、魔法を使えません。役職は、審査官に過ぎません。あなたの言われた通り、一般人です」
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「だから、私にできることは、一つだけです」
「記録を、積むことです」
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「記録は、私が眠っている間も、消えません」
「記録は、国境で、止まりません」
「記録は、続きます」
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それだけ、書いた。
問いの言葉は、引用しなかった。
あの伝言は、記録に残さない約束だった。約束は、守る。
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引用しなくても、伝わる。
これが答えだと、あの人なら、わかる。
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最後に、署名をした。
ペンを持って、一度、止まった。
肩書を、書くかどうか。
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書かなかった。
「神崎ハルト」
名前だけを、書いた。
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主任審査員としてではなく、MPBとしてでもなく。
ただの一般人として、答える。
そういう署名だった。
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翌日、リアが、全部を読んだ。
時間をかけて、読んだ。
読み終えて、リアは、一枚目の署名を、もう一度見た。
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「肩書が、ありませんね」リアは言った。
「はい」ハルトは言った。「一般人なので」
リアは、少しだけ、笑ったように見えた。
「これで、送ってください」リアは言った。「直すところは、ありません」
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午後、デイヴィッドに、連絡を取った。
「預かってほしいものがあります」ハルトは言った。「コール大統領宛てです」
「口頭で、預かればいいんですか」デイヴィッドは言った。
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「いえ」ハルトは言った。「紙です。署名があります」
電話の向こうで、デイヴィッドが、少し黙った。
「……彼は、口頭でしたが」デイヴィッドは言った。
「私は、記録で答えます」ハルトは言った。
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デイヴィッドは、笑った。
「わかりました。確実に、届けます」
「お願いします」
「神崎さん」デイヴィッドは言った。「彼は、こういうのを、好みますよ」
電話が、切れた。
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夕方、束は、正式な便で、庁舎を出ていった。
ハルトは、窓から、それを見送るでもなく、窓口に立った。
問い合わせが、一件あった。
百三十六件になった。
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家に帰った。
夕食を作った。
時計を見た。八時を過ぎていた。
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サクに電話した。
つながらなかった。
同じ案内が、流れた。
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いつも通りだった。
でも、今日の「つながらない」は、少しだけ、軽かった。
答えは、もう、海の上にある。
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ハルトは、ノートを開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に書いた。
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「コール大統領への回答を、送った。八つの記録と、一枚の本文」
「秘密は一つも入れなかった。全部、台帳にあるものだけ」
「問いの言葉は、引用しなかった。約束は、約束なので」
「署名に、肩書は書かなかった。一般人としての署名」
「記録は、続きます、と書いた。それが、全部」
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五行、書いた。
ペンを置いた。
四行目を、もう一度、読んだ。
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今日のことを頭の中に入れた。
三日かけて編んだ、八つの記録。
物語なのに、全部が事務の文字だったこと。
リアの「直すところは、ありません」という言葉。
デイヴィッドの「彼は、こういうのを、好みますよ」という言葉。
肩書のない、自分の名前。
全部、残った。
問いは、口頭で来た。部屋を出たら、消える形で。
答えは、紙で出した。部屋を出てから、歩き始める形で。
どちらが強いかは、もう、わかっていた。
窓の外に、七月の夜があった。
風が、湿っていた。
寝た。
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第百六十九話 了




