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魔法特許庁ーーその魔法、違法ですーー  作者: にけ


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169/199

「署名」

夜、ノートを読み返していた。


ここ数か月の頁を、順に、めくった。


役員会。先例。条文。提供。供述。測定。


---


頁をめくる手が、途中で、止まった。


書いていない言葉が、一つだけ、あることに気づいた。


ノートのどこにもない。頭の中にだけ、ある言葉。


---


「君は、どうする」


あの日、記録を禁じられて、口頭だけで受け取った問い。


ずっと、持ち歩いてきた。


---


ハルトは、ノートを閉じた。


答える材料は、揃っていた。


揃ったことに、今夜、気づいた。


---


翌朝、リアに、時間をもらった。


「コール大統領に、回答を送ります」ハルトは言った。


リアは、少しの間、ハルトを見た。


---


「あの、口頭の伝言への、ですか」


「はい」


「私信ですか。公文書ですか」リアは言った。


---


「どちらでもありません」ハルトは言った。「署名入りの、記録です」


「記録」


「向こうは、記録に残さない形で、問いを寄越しました」ハルトは言った。


「こちらは、記録そのもので、答えます」


---


リアは、頷いた。


「送り方は」


「デイヴィッドさんに、頼みます。問いと、同じ道です」


「わかりました」リアは言った。「読ませてもらえますか。送る前に」


「はい」ハルトは言った。「秘密は、一つも入れないので」


---


その日から、三日かけて、束を編んだ。


入れるものは、最初から決めていた。


公開できる記録だけ。全部、台帳にあるものだけ。


---


一つ。自分の発動記録。風系基本術式第三号。持続二分。


一つ。片岡の応答記録。本人の同意の範囲で。


一つ。問い合わせの集計。百三十五件。日付つき。


---


一つ。役員会の議事録の写し。廃案動議の否決まで。


一つ。古い台帳の先例。「適合性の記載なし。術式の発動が記録により確認されたため、登録を認める」


一つ。新条文案。「区分は記録として残すが、術式使用の資格判定の要件としない」


---


一つ。記録提供の様式。機関から機関へ、研究の記録が渡った、新しい先例。


一つ。サクの論文の、公開されている部分。


---


八つの記録を、日付の順に、並べた。


並べてみると、それは、この数か月の物語だった。


物語だが、一行も、物語として書かれていなかった。


全部、事務の文字だった。


---


最後に、一枚の紙を、上に置いた。


回答の本文だった。


長くは、書かなかった。


---


「以下の記録を、お送りします。すべて、公開されているか、公開の手続きが済んでいるものです」


「私は、魔法を使えません。役職は、審査官に過ぎません。あなたの言われた通り、一般人です」


---


「だから、私にできることは、一つだけです」


「記録を、積むことです」


---


「記録は、私が眠っている間も、消えません」


「記録は、国境で、止まりません」


「記録は、続きます」


---


それだけ、書いた。


問いの言葉は、引用しなかった。


あの伝言は、記録に残さない約束だった。約束は、守る。


---


引用しなくても、伝わる。


これが答えだと、あの人なら、わかる。


---


最後に、署名をした。


ペンを持って、一度、止まった。


肩書を、書くかどうか。


---


書かなかった。


「神崎ハルト」


名前だけを、書いた。


---


主任審査員としてではなく、MPBとしてでもなく。


ただの一般人として、答える。


そういう署名だった。


---


翌日、リアが、全部を読んだ。


時間をかけて、読んだ。


読み終えて、リアは、一枚目の署名を、もう一度見た。


---


「肩書が、ありませんね」リアは言った。


「はい」ハルトは言った。「一般人なので」


リアは、少しだけ、笑ったように見えた。


「これで、送ってください」リアは言った。「直すところは、ありません」


---


午後、デイヴィッドに、連絡を取った。


「預かってほしいものがあります」ハルトは言った。「コール大統領宛てです」


「口頭で、預かればいいんですか」デイヴィッドは言った。


---


「いえ」ハルトは言った。「紙です。署名があります」


電話の向こうで、デイヴィッドが、少し黙った。


「……彼は、口頭でしたが」デイヴィッドは言った。


「私は、記録で答えます」ハルトは言った。


---


デイヴィッドは、笑った。


「わかりました。確実に、届けます」


「お願いします」


「神崎さん」デイヴィッドは言った。「彼は、こういうのを、好みますよ」


電話が、切れた。


---


夕方、束は、正式な便で、庁舎を出ていった。


ハルトは、窓から、それを見送るでもなく、窓口に立った。


問い合わせが、一件あった。


百三十六件になった。


---


家に帰った。


夕食を作った。


時計を見た。八時を過ぎていた。


---


サクに電話した。


つながらなかった。


同じ案内が、流れた。


---


いつも通りだった。


でも、今日の「つながらない」は、少しだけ、軽かった。


答えは、もう、海の上にある。


---


ハルトは、ノートを開いた。


新しいページに、日付を書いた。


その下に書いた。


---


「コール大統領への回答を、送った。八つの記録と、一枚の本文」


「秘密は一つも入れなかった。全部、台帳にあるものだけ」


「問いの言葉は、引用しなかった。約束は、約束なので」


「署名に、肩書は書かなかった。一般人としての署名」


「記録は、続きます、と書いた。それが、全部」


---


五行、書いた。


ペンを置いた。


四行目を、もう一度、読んだ。


---


今日のことを頭の中に入れた。


三日かけて編んだ、八つの記録。

物語なのに、全部が事務の文字だったこと。

リアの「直すところは、ありません」という言葉。

デイヴィッドの「彼は、こういうのを、好みますよ」という言葉。

肩書のない、自分の名前。


全部、残った。


問いは、口頭で来た。部屋を出たら、消える形で。


答えは、紙で出した。部屋を出てから、歩き始める形で。


どちらが強いかは、もう、わかっていた。


窓の外に、七月の夜があった。


風が、湿っていた。


寝た。


---


第百六十九話 了

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