「一件」
朝、リアに呼ばれた。
机の上に、IMPOの印のある封筒があった。
「経過報告と、照会です」リアは言った。「取り扱い注意の印つきです」
---
二人で、読んだ。
解析の結果。素地の発見。
そして、壁。
---
「発動の素地は、発現投与が作る」
「投与を受けていない者は、装置があっても、発動できない」
部屋が、静かになった。
---
ハルトは、その二行を、何度も読んだ。
自分が、発動できた理由。
そこに、書いてあった。
---
定義の変更案を作ったとき、一つ、線を引いた。
発動できた理由には、触れない。事実のみとする。
理由は、自分にも、わからなかったからだ。
---
その空白が、埋まって、返ってきた。
海の向こうから。
自分の記録を、渡したから。
---
「神崎さん」リアは言った。「この事実は、条文に、どう響きますか」
ハルトは、少し、考えた。
「響きません」ハルトは言った。
---
「装置が普及しても、使えない人が残る。それでも、ですか」
「それでも、です」ハルトは言った。「いえ――だからこそ、です」
リアは、ハルトを見た。
---
「全員が使えるようになるなら、区分は、放っておいても消えます」ハルトは言った。
「でも、使えない人が、残る」
「残るからこそ、使えるかどうかで人を分けない条文で、なければいけません」
---
「使える人の条文ではなく」リアは言った。
「使えない人が、それでも損なわれない条文です」ハルトは言った。
リアは、少しの間、黙った。
「その言葉、小委員会で使いますよ」リアは言った。
---
午後、照会の本題に、取りかかった。
「成人後に発現投与を受け、適合しなかった事例の、記録の所在」
ハルトは、目を閉じた。
---
三十四万件の特許は、要らなかった。
探す場所は、もっと近くにあった。
窓口の、問い合わせ記録。
---
日付。二十代後半の男性。
「子供のころ、発現投与を受けてないんです」
「大人になってから、自分で、受けました。お金を貯めて」
「でも、適合しませんでした」
---
全部、覚えていた。
問い合わせ票には、連絡先が残っていた。
「研究の進み具合を、知りたい」と、本人が任意で書いたものだった。
---
リアの決裁を、取った。
連絡は一度だけ。断られたら、終わり。
その線で、電話をかけた。
---
男性は、覚えていた。
「あの時の、審査官の人ですか」
「はい」ハルトは言った。「一度、お会いして、お話ししたいことがあります」
---
翌日、男性が庁舎に来た。
会議室で、向かい合った。
「片岡です」男性は言った。「あらためて」
---
ハルトは、話せる範囲で、話した。
研究が、次の段階に入ったこと。
あなたのような事例の記録が、世界で、まだ一件もないこと。
---
「俺の、何が要るんですか」片岡は言った。
「体の応答の、記録です」ハルトは言った。「検査自体は、簡単なものです」
「それを取ると、どうなるんですか」
---
「わかりません」ハルトは言った。
片岡は、少し、笑った。
「正直ですね」
---
「魔法が使えるようになるとは、約束できません」ハルトは言った。
「研究が進むかどうかも、あなたの記録次第です」
「約束はできません。記録には、残ります」
---
片岡は、ハルトを見た。
それから、下を向いて、少し黙った。
「……窓口でも、同じことを言われました」片岡は言った。
---
「約束はできない。でも、記録として残す、って」
「正直、あの時は、断り文句だと思ったんです」
「丁寧な、門前払いだって」
---
片岡は、顔を上げた。
「でも、残ってたんですね」
「残っています」ハルトは言った。「日付も、お話の内容も、全部」
---
「あなたの問い合わせは、百三十五件の中の一件として、役員会にも出ました」
「俺の、あれが」片岡は言った。
「はい」ハルトは言った。「数字の中に、入っています」
---
片岡は、長いあいだ、黙っていた。
「親を恨んだ話も、残ってますか」片岡は言った。
「残っています」
---
「……なら」片岡は言った。「その続きも、残してください」
「恨んで終わった、じゃなくて」
「その先に、何かあった、っていう続きを」
---
「はい」ハルトは言った。「そのための、記録です」
片岡は、同意書に、署名した。
丁寧な、ゆっくりした字だった。
---
夕方、サクへの回答を、まとめた。
公的回路の、様式で。
「照会の件、該当事例一件。本人の協力同意を、得た」
---
一件、と書いて、ハルトは、手を止めた。
一件は、少ない数字ではなかった。
自分の発動記録も、世界に一件だった。
---
一件から、始まる。
いつも、そうだった。
---
家に帰った。
夕食を作った。
時計を見た。八時を過ぎていた。
---
ハルトは、ノートを開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に書いた。
---
「サクさんから経過報告と照会。素地は、投与が作る。自分が発動できた理由が、わかった」
「使えない人が残るからこそ、使えるかどうかで人を分けない条文でなければ、とリアに答えた」
「窓口の彼に、会った。片岡さん。『約束はできません。記録には、残ります』と、また言った」
「『恨んで終わった、じゃない続きを残してください』と言われた」
「回答を送った。該当事例、一件。一件から、始まる」
---
五行、書いた。
ペンを置いた。
四行目を、長く見ていた。
---
今日のことを頭の中に入れた。
取り扱い注意の印。埋まって返ってきた空白。リアの「その言葉、小委員会で使いますよ」という言葉。片岡さんの「断り文句だと思ったんです」という言葉。ゆっくりした字の署名。
全部、残った。
窓口で、約束できなかった日があった。
でも、記録した。
記録したから、今日、見つけられた。
約束より、記録の方が、遠くまで届くことがある。
窓の外に、七月の夜があった。
蝉が、鳴き始めていた。
寝た。
---
第百六十七話 了




