「渡せるもの」
朝、リアに呼ばれた。
机の上に、書類が一式、置いてあった。
表紙に、IMPOの印があった。
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「正式な研究協力要請です」リアは言った。「IMPO経由で、届きました」
「要請元は」
「米国の研究機関、とだけ」リアは言った。「所在は、伏せられています」
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リアは、ハルトを見た。
「でも、研究者の名前は、あります」
ハルトは、書類を手に取った。
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要請機関。研究目的。必要な記録の一覧。
様式は、堅かった。
その堅い文字の中に、一行があった。
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「非適合者による術式発動記録。風系基本術式第三号。持続二分」
ハルトの手が、一度、止まった。
それだけだった。
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続きを、読んだ。
備考欄に、一行だけあった。
「本記録は、本研究の基礎データとして不可欠である」
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不可欠。
事実の言葉だった。
そして、事実のまま、それ以上の言葉だった。
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「佐久間さんからです」ハルトは言った。
「はい」リアは言った。「読めば、わかりますね」
「わかります」
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リアは、椅子に、座り直した。
「問題が、二つあります」リアは言った。
「一つ。MPBの保管記録を、海外の研究機関に提供する。前例が、ほとんどありません」
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「二つ目は」ハルトは言った。
「あなたです」リアは言った。「要請された記録の本人が、担当審査官です」
「当事者、ですね」ハルトは言った。「役員会と、同じです」
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「はい」リアは言った。「あなたが自分で自分の記録の提供を決めれば、あとで突かれます」
「小委員会の最中です。向こうは、突ける場所を探しています」
ハルトは、頷いた。
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少し、考えた。
それから、言った。
「白銀部長。整理させてください」
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「この記録には、二つの面があります」ハルトは言った。
「MPBの保管記録としての面。これの提供判断は、私にはできません。部長の決裁です」
「はい」リアは言った。
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「もう一つは、私個人の記録としての面です」
「発動したのは、私です。時系列のログも、変換データも、体調記録も、私の体から取ったものです」
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「研究は、サクのものです。私は、触れません」
「でも、データは、私のものです」
「だから、私が、渡せます」
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リアは、ハルトを見ていた。
「本人同意、という形ですね」リアは言った。
「はい」ハルトは言った。「提供の決裁は部長。私は、記録の本人として、同意書を出します」
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「担当からは、外れます」ハルトは言った。「手続きの様式だけ、作らせてください」
「様式を」
「前例がないなら」ハルトは言った。「先例を、作ればいいので」
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リアは、少しの間、黙った。
それから、口の端が、わずかに動いた。
「先週、先例に救われた人の言葉ですね」リアは言った。
「はい」ハルトは言った。「先例の作り方は、あの台帳が教えてくれました」
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「わかりました」リアは言った。「決裁は、私が取ります。長官にも、通します」
「はい」
「神崎さんは、同意書と、様式を」リアは言った。
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午後、記録を揃えた。
保管庫から、実験記録の原本を出した。
自分の記録なのに、開くのは、久しぶりだった。
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発動までの時系列。
魔力変換のログ。
持続中の変動。二分を超えた、あの日の全部。
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体調記録も、あった。
脈拍。発汗。あの日、緊張していたことが、数字でわかった。
ハルトは、少し、迷った。
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脈拍の欄は、正直だった。
サクが読めば、あの日の自分の緊張が、全部わかる。
迷ってから、そのまま、綴じた。
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記録は、記録だった。
削れば、データではなくなる。
恥ずかしさは、正確さの値段だった。
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夕方、同意書を書いた。
それから、送付状の様式を作った。
最後に、備考欄が残った。
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書きたいことは、あった。
元気です。役員会は、半歩勝ちました。そちらの星は、きれいですか。
全部、書かなかった。
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代わりに、一行だけ書いた。
「本記録に続きが記録されることを、希望する」
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事実だった。
研究が進めば、記録に続きが生まれる。
それが、提供の目的だった。
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そして、事実のまま、それ以上の言葉だった。
続きを、書いてほしい。
あなたの側から。
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岸本と、庁舎を出た。
「主任、今日、ずっと保管庫にいましたね」岸本は言った。
「記録を、揃えていました」ハルトは言った。
「大事な審査ですか」
「大事な、提供です」ハルトは言った。
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家に帰った。
夕食を作った。
時計を見た。八時を過ぎていた。
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サクに電話した。
つながらなかった。
同じ案内が、流れた。
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でも、今日は、違った。
電話は、つながらない。
記録は、つながっていた。
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要請書が、海を越えて、届いた。
同意書と記録が、これから、海を越えて、返っていく。
私信は、一通もない。
全部、公文書だった。
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ハルトは、ノートを開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に書いた。
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「サクさんから、正式な研究協力要請。必要な記録の欄に、あの一行」
「備考に『不可欠である』と。事実のまま、それ以上の言葉だった」
「決裁はリア、私は記録の本人として同意する。担当からは外れる」
「体調記録も、全部渡す。恥ずかしさは、正確さの値段」
「備考に書いた。『本記録に続きが記録されることを、希望する』」
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五行、書いた。
ペンを置いた。
二行目と、五行目を、もう一度、読んだ。
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今日のことを頭の中に入れた。
IMPOの印。堅い様式の中の、あの一行。
リアの「読めば、わかりますね」という言葉。
保管庫の、あの日の脈拍。
同意書の、自分の署名。そして、備考欄の一行。
全部、残った。
研究は、サクのもの。
データは、私のもの。
だから、渡せるものが、あった。
窓の外に、六月の夜があった。
雲が、ゆっくり動いていた。
寝た。
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第百六十一話 了




