「宛先」
朝、いつもの手順で、端末を開いた。
研究用の回線から、日本の登録システムに入った。
自分の申請の、登録状況を確認した。
---
関連記録の欄が、更新されていた。
サクは、画面に、顔を近づけた。
三行、増えていた。
---
「本件関連の定義変更案について、役員会にて廃案動議が否決された」
「新条文案は、小委員会に付託。審議は継続する」
「関連記録として整理。継続して記録する」
---
担当欄に、名前があった。
神崎ハルト。
サクは、その三行を、何度も読んだ。
---
廃案動議。
つまり、潰しに来られたのだ。
そして、否決。つまり、潰されなかった。
---
小委員会に付託。
半歩だけ、前に出た。
ハルトくんらしい、半歩だった。
---
「継続して記録する」
その一行は、前にもあった。
約束の、言い換えだった。
---
元気なんだ、とわかった。
事件のニュースは、こちらにも届いていた。
ハルトくんが襲われたと聞いた夜は、眠れなかった。
---
でも、記録は、止まらずに進んでいる。
役員会で、二日、戦っている。
記録が進むことが、無事の証だった。
---
「いい顔」
振り返ると、エマが立っていた。
「ハルトさんの?」エマは言った。
---
「うん」サクは言った。「審議が、続いてる。半歩、勝った」
「ハルトさんらしい勝ち方」エマは言った。
「うん」サクは言った。「らしい勝ち方」
---
午前は、実験をした。
エマの発動は、今日も安定していた。
構造を先に持てば、崩れない。
---
三分十二秒。
記録を取りながら、サクは、考えていた。
この方法は、エマには、効いた。
---
エマは、魔力保有者だ。
装置がなくても、三分、出せる。
構造を先に掴めば、もっと、安定する。
---
でも、と、サクは思った。
この訓練法は、非適合者にも、効くのか。
装置を使う人にも、同じことが起きるのか。
---
データが、なかった。
非適合者が装置で術式を発動した記録は、世界に、一件しかない。
ハルトくんの、記録だけだった。
---
「どうしたの」エマが言った。
「壁」サクは言った。「非適合者のデータが、一件しかない」
「ハルトさんの記録ね」エマは言った。
「うん」サクは言った。「世界に、あの一件だけ」
---
「私の実験のとき、隣で全部、教えてくれた人」エマは言った。
「生のログが要るんでしょ。時系列の」
「うん」サクは言った。「全部、MPBの保管記録。手紙は、書けないし」
---
私信は、出せない。
検閲で、止まる。
それは、もう、わかっていた。
---
昼、食堂で、サクは考え続けた。
論文に使った部分のデータは、手元にある。
でも、足りなかった。
---
要るのは、生の記録だった。
発動までの時系列。魔力変換のログ。持続中の変動。
二人で実験した、あの部屋の、全部の記録。
---
あれは、MPBに、正式に保管されている。
個人が送れるものではない。
機関から機関へ、正式に要請するものだった。
---
そこで、サクは、手を止めた。
機関から、機関へ。
正式に。
---
私信は、書けない。
でも、要請書は、書ける。
研究に必要な記録の、提供依頼。
---
検閲は、私信を止める。
でも、研究の要請は、止めない。
むしろ、制度が、運んでくれる。
---
午後、デイヴィッドに、連絡を入れた。
「正式な研究協力要請を、出したい」サクは言った。
「どこへ」デイヴィッドは言った。
---
「日本魔法特許庁へ」サクは言った。
「非適合者の術式発動記録の、提供依頼。研究に、不可欠なので」
デイヴィッドは、少し、黙った。
---
「筋は、通っている」デイヴィッドは言った。「必要性も、明白だ」
「手続きを、確認する。様式が、あるはずだ」
「ありがとう」サクは言った。
---
「サク」デイヴィッドは言った。「わかっていると思うが、これは、公文書になる」
「うん」サクは言った。「だから、いいの」
---
公文書は、消えない。
公文書は、届く。
公文書には、担当者がつく。
---
そして、その記録の担当は、たぶん、あの人だ。
窓口が、どこであっても。
非適合者の発動記録を扱える審査官は、一人しかいない。
---
夕方、要請書の下書きを、始めた。
様式は、堅かった。
要請機関。研究目的。必要な記録の一覧。
---
必要な記録の欄に、書いた。
「非適合者による術式発動記録。風系基本術式第三号。持続二分」
書きながら、少しだけ、笑った。
---
この一行は、もう、二人の言葉だった。
検閲の人が読んでも、ただの記録名。
ハルトくんが読めば、続きの合図。
---
備考欄で、手が止まった。
書きたいことは、たくさんあった。
元気ですか。事件のこと、心配しました。半歩、見ました。
---
全部、消した。
代わりに、一行だけ書いた。
「本記録は、本研究の基礎データとして不可欠である」
---
事実だった。
そして、事実のまま、気持ちだった。
不可欠。あなたの記録が、なければ、進めない。
---
夜、サクは、自分のノートを、開いた。
新しいページに、日付を書いた。
その下に書いた。
---
「登録状況に三行。廃案動議は否決。小委員会に付託。ハルトくんは、勝った」
「エマの発動、三分十二秒。構造先行は、効いている」
「壁。非適合者のデータが、世界に一件しかない」
「正式な研究協力要請を出す。宛先は、日本魔法特許庁」
「私信は書けない。でも、宛先は書ける」
---
五行、書いた。
ペンを置いた。
最後の一行を、もう一度、読んだ。
---
窓の外を、見た。
山の上に、星が出ていた。
日本は、もう夜だろう。
---
ハルトくんの机に、いつか、この要請書が届く。
様式の堅い文字の中に、あの一行を見つける。
見つけた瞬間の顔を、想像した。
---
たぶん、表情は、ほとんど変わらない。
でも、わかる。
サクは、しばらく、その想像をした。
---
明かりを消した。
ベッドに入った。
---
第百六十話 了




